ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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 冷房の効いた病室内で、濃紺の制服に身を包んだ特殊部隊員――磯貝(いそがい)俊夫(としお)は、ベッドで寝息を立てる少女を見つめる。

 黒髪のボブカットの少女の目許には、泣き腫らした痕が見て取れる。昨晩のメガフロート刑務所制圧作戦の際に、彼女を保護してから一度も目を覚ましていない。

 ――目立った怪我はなかった……おそらくは精神的なものだな。

 刑務所内で磯貝を見つけるなり、血走った目で彼女を差し出してきた男がいた。藤沢(どうざわ)リカルドと名乗った男は、「必ず迎えに行く」と言ったきり、ここに来てはいない。

 作戦終了後の現場検証に少しの間立ち会ったが、どうやら彼女――谷塚(たにつか)美梨(みり)と、プロモーターである横島(よこじま)秀貴(ひでき)の両名は、とある囚人との面会のためにメガフロートへ訪れていた際、今回の騒動に巻き込まれたらしい。

 さらに運が悪い事に、脱獄したアンドレイ・リトヴィンツェフ及び彼のイニシエーターであるユーリャ・コチェンコヴァと接触。序列元七七位のユーリャに太刀打ちできず、横島秀貴は殺害された。

 磯貝ものちに横島秀貴の死体を確認したが、あれは余りにも惨い死に様だった。首を刎ねられ絶命していたが、その手法が残酷極まりない。下顎の辺りを何本もの刃物で一気に引き裂かれたらしく、鼻から下はほとんど原型を保っていなかった。

 その光景を目の前で見せられた谷塚美梨の心情を想像しただけで吐き気が込み上げてくる。

 ベッドの側の椅子に腰掛けていた磯貝は、両腿に乗せていた拳を力の限り握り締める。爪が皮膚に食い込み、じわりと血が滲む。

 ――もし、あそこに里見(さとみ)蓮太郎(れんたろう)がいたのなら……この悲劇を食い止められただろうか。

 東京エリアの英雄。冤罪をかけられて逃亡する中でも、その力をもってして多くの人々を救い、櫃間(ひつま)親子の陰謀を打ち破った少年。

 彼は今どこにいる? 東京エリアと仙台エリアの溝が限界まで深まり、全面戦争すら辞さない空気が蔓延してきている今、きっと彼はその解決のために奔走しているのだろう。だが、そのために目の前の悲劇を見逃してしまったのか?

「……いや、違う。彼のせいじゃない」磯貝は頭を振って、脳裏を掠めた他責的な考えを断ち切る。

 もう一度、眠りに落ちたままの少女を視界に収める。

 磯貝は自分が無力な事を自覚している。自分には世界を変える力などない。目の前で泣き続ける小さな子供の笑顔を取り戻す事さえできない。

 だが、それでも――。

 死人の無念を晴らす事はできるはずだ。

 これから起きうる無数の悲劇の内、一つだけなら食い止める事もできるはずだ。

 磯貝は椅子から立ち上がると、少女に背を向けて病室の出口へと歩き出す。

 ――脱獄したアンドレイ・リトヴィンツェフと、その一派は東京エリアに対して何かを起こそうとしている。

 ――この混乱に乗じた大規模テロか、もしくは、この混乱そのものを奴らが引き起こしているのかは分からないが……。 

 ――いずれにせよリトヴィンツェフ一派が事を起こすのなら、それは特殊部隊(SAT)の領分だ。

 ――必ず……追いついてみせる。

 病室のドアを開けて廊下に出ると、エラの張ったごつい顔をした男が出待ちしていた。「よう、磯貝」と殺人課の主任刑事は片手を上げる。「お前が保護したっつうイニシエーターはまだ起きないのか?」

多田島(ただしま)」磯貝は刑事の名を呼ぶ。「なぜここに? メガフロート事件はそっちの管轄じゃないはずだが」

「固い事言うなよ。やっと謹慎が解けて自由の身になれたんだ。少しばかり体を動かしたくてな」

 寸胴中年の多田島茂徳(しげとく)警部は、かつて里見蓮太郎冤罪事件の際に、当時の警察幹部であった櫃間篤郎(あつろう)と共に捜査に当たっていた。

 そもそも里見蓮太郎冤罪事件とは、当時の警視総監である櫃間正と先述の櫃間篤郎が『ブラックスワン・プロジェクト』の隠蔽のために起こしたものだ。

 ガストレアがバラニウム金属から発せられる磁場を忌避する事は公に知られている事実だ。だからこそモノリスの存在は、人類に残された生存圏を守るための防壁としての価値を担保している。

 それを根本から覆すための計画こそが『ブラックスワン・プロジェクト』。

 バラニウム磁場に耐性を持つ、いわば『抗バラニウムガストレア』を人工的に培養し、生物兵器として運用する。それが前述の計画であり、櫃間親子が所属していた『五翔会(ごしょうかい)』なる超国家的組織が進めていた――と思われる。

 断定できないのは、事件終結前後に櫃間親子が揃って不審な死に方をした事で、同計画の詳細を辿れなかったからだ。櫃間親子以外にも五翔会構成員の警察官が三〇人ほど炙り出されたが、その全員が事情に通じていない下っ端であった。

 真相に迫っていたと思われる民警、水原(すいばら)鬼八(きはち)も謀殺されており、完全に事件は闇の中だ。

 捜査を進めていく中で櫃間篤郎が警察に潜り込んだスパイであると勘づいた多田島は、自ら警察の命令系統から離反し、独自に捜査を進めた。そうした彼の働きもあって事件は収束したが、やはり組織というものは独断専行に厳しい。

 多田島も例に洩れず、最近まで懲戒処分が課されていた。櫃間篤郎を追い詰めた際に肩を銃撃されていた事もあり、元々出勤できる状態ではなかったのだが、とにかく組織の秩序を守るために多田島には不当な罰が下されたのだ。

「ちなみに磯貝。お前、この前の事件の話、誰にも洩らしてないだろうな?」苦い顔をした多田島が、念を押すように訊いてくる。「付き合いの長いお前だからこそ教えたんだ。この事は未だに警察内部でも情報統制が敷かれてんだ。この情報が広がるような事があれば、今度こそ俺の首が飛ぶ」

「当たり前だろ。こんな話が拡散すれば、また東京エリアがパニックに陥ってしまう」

「それなら良いんだが……」と寸胴刑事は胸を撫で下ろす。

「それより、どうするんだ? 谷塚美梨には会っておくのか? さっきも言った通り、まだ目は覚めていないぞ」

「いや、良い。話も聞けない状態で病室に転がり込んでも意味がないからな」

 通りがかった看護師が訝しげな視線を磯貝達に向けてくる。さすがに病院の廊下で長話はよろしくないようだ。

「外で話そう」磯貝は言った。「ちょうど行きたいところがあるんだ」

「奇遇だな、俺もだ」と多田島は笑った。

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