ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
阿久津の言葉を受けて、蓮太郎は思わず立ち上がった。「本当か?」
「ああ」と阿久津は答えて、目線だけで一人の男を指し示した。阿久津の視線の先を追うと、すぐ近くにミリタリージャケットを羽織った若い男がいた。短い黒髪の下に精悍な顔つきが覗いているが、その表情はどこか憔悴しているようにも見える。
「あんたが?」
蓮太郎が問うと、ミリタリージャケットの男は慇懃に頷く。
「藤沢リカルドだ。会えて嬉しいよ、東京エリアの英雄」
「よしてくれ」むず痒くなって頬を掻く。「そう呼ばれるのは慣れてない」
カレーを頬張りながら阿久津が説明する。「この傭兵は昨晩のメガフロート占拠事件の際、現場に居合わせてたんだ。直接アンドレイ・リトヴィンツェフとユーリャ・コチェンコヴァにも接触してる」
「奴らと戦ったのかッ?」
「勝負にもならなかったよ」リカルドはかぶりを振った。「仲間のプロモーターはユーリャに殺られた。リトヴィンツェフの方に至っては棒立ち状態で、参戦してくる事さえなかったよ。里津ちゃん……ここの警備のイニシエーターの子が助けてくれなかったら、俺も今ごろ死体としてここに転がってただろうな」
「里津って確か……」
「お前もさっき見ただろ」と阿久津が眼鏡の位置を直しながら言った。「モニター管制室で死んでたイニシエーターだ」
先刻の記憶が蘇る。腹を裂かれ、臓物の花を咲かせて絶命していた少女。
「お前は占部里津が一撃で殺られたって予想してたが、傭兵の話を聞くと、どうやら違うみたいだ」阿久津が言う。「実際、俺も勘違いしてたしな。まあ、いずれにせよ司法解剖が終われば分かる話ではあるんだが」
リカルドが引き継いで説明する。「里津ちゃんは、一度ユーリャ・コチェンコヴァと交戦した時に致命傷を受けていた。その状態で、殺されかけてた俺を助けに入ってくれたんだ」
「という事は、占部里津が殺されたのはそのあと……」
「ああ。テロリスト二人組から逃げ出した俺達は、いったん医務室まで後退した。そこで応急処置を済ませたのちに別れたんだ。里津ちゃんは……俺と美梨ちゃん――殺されたプロモーターとペアを組んでいたイニシエーターを逃すために、殿を務めた。あの子は三度目の会敵で殺された。それは間違いない」
「占部里津の件は分かった」と蓮太郎は話を切り上げた。「アンタが彼女に恩を感じているのも痛いほど理解できる。けど今は感傷に浸ってる場合じゃない。そろそろ聞かせてくれ。アンドレイ・リトヴィンツェフはどこに行ったんだ?」
蓮太郎の言葉を皮切りに、他二人の視線も藤沢リカルドへと向く。ミリタリージャケットの傭兵は一瞬だけ視線を左右に泳がせると、やがて意を決したように口を開いた。
「――おそらく、リトヴィンツェフ一派は旧品川外周区に向かったはずだ」
「旧品川外周区?」と阿久津が眉根を寄せる。「何でまたそんな辺鄙なところに?」
「根拠を聞かせてくれ」と蓮太郎も続く。
リカルドは、「故人の話を蒸し返す事になって申し訳ないが」と前置きしてから続けた。「俺は里津ちゃんと別れる前、あの子から頼み事を受けていた。『旧品川外周区にいる妹を保護してほしい』ってな」
阿久津が唸る。「自分が死ぬ事を覚悟して、家族をテメエに託したって訳か。だが、それとリトヴィンツェフ達の動向と何の関係があるってんだ?」
「阿久津さん、それと里見。あんた達は里津ちゃんの死体を見てるだろう。彼女は……どんな顔をしていた?」
蓮太郎はメガフロート刑務所に足を運んだ直後の事を思い出す。
大の字に倒れ、腹を鉤裂きにされて命を散らした少女――。その相貌に刻みつけられていた表情。驚きに見開かれたままの目。渇いて水晶体が濁り始めた瞳は、もはや彼女が何を伝えたかったのか、あとから到着した蓮太郎には理解できなかった。
「アンタは……分かるのか?」
蓮太郎が訊くと、リカルドは首肯する。
「俺が最期に見た里津ちゃんは笑っていたんだ。どこの馬の骨かも分からない俺なんかに希望を託して……自分の死を受け入れたあの子は安心し切ったように微笑んでたんだ……。それなのに……死んだあの子の顔には、その時の穏やかさは全くなくなっていた……!」
「まさか……」
蓮太郎に続いて阿久津も一つの可能性に行き着いたらしい。
我先にと阿久津が食いついた。「つまり傭兵、テメエは占部里津が殺される前にリトヴィンツェフないしユーリャに『何か』を吹き込まれたと考えているんだな?」
「そうだ。その内容は想像する事しかできないが、おそらくは間違いない」
覚悟を決めて囮としての役割を全うしようとした少女の心を、的確に揺さぶるための言葉。そんなもの、これだけの状況証拠が揃っていれば、嫌でも分かってしまう。
「リトヴィンツェフ一派は里津ちゃんにこう言ったんだ。『外周区にいるお前の家族を殺す』ってな」
改めて言葉にされると慄然とする。当然、占部里津が頼み事をしたのは藤沢リカルドと二人きりの時だったはず。必然的にリトヴィンツェフ達は、その事を知る由もない。それにも関わらず、殺害予告をしたという事は――。
やはり勘が鋭いらしい阿久津が腕を組みながら、「拷問でもして無理矢理情報を吐かせたか……? いや、俺が見た限りでも被害者の体には腹の裂傷以外に外傷はなかった……」と呟いている。
「実際、阿久津さんの疑問はもっともだ」とリカルドは自身の論理の穴を素直に認めた。「今俺が述べたのは、あくまで俺の推論でしかない。アンドレイ・リトヴィンツェフがどうやって俺と里津ちゃんの会話の内容を知ったのかは分からないままだ。もしかしたら俺の予測は最初から最後まで外れていて、リトヴィンツェフ一派は全く別の場所にいるのかもしれない」
「…………」
「だから俺は一人ででも旧品川外周区に行くつもりだ。予想が当たっていようが外れていようが、俺には里津ちゃんとの約束を守る義務がある。里見――お前とアンドレイ・リトヴィンツェフの間にどんな因縁があるかは知らない。それを詮索するつもりもない。だから着いてくるかどうかは、そっちに任せる。それだけだ」
リカルドの目には僅かな迷いもない。元々、芯の強い人間性なのだろう。一度、リトヴィンツェフ達に敗れているにも関わらず、再び彼らと対峙する可能性に対して一切の逡巡がない。
蓮太郎は一度瞑目してから、リカルドを見返した。「俺も行く。案内してくれ」
「俺も着いて行かせてもらうぞ」割り入るように言ったのは阿久津だった。「現状、ここで道草食ってても仕方ない。もし仮に傭兵の言う通り、旧品川外周区にリトヴィンツェフ達がいるんなら、その時点で機動隊と特殊部隊を投入する大義名分が立つ」
「本気で言ってんのかッ!? 奴らが本当にいたとして、相手は元序列七七位だぞ!」
「関係ねえよ。この情勢の中、東京エリアにこれ以上厄介事を持ち込まれる訳にはいかねえんだ。相手が誰であろうと潰す。それが今警察に求められてる役割って奴だ」
厄介事どころか、この混沌を演出している張本人こそがリトヴィンツェフ一派なのだが、さすがの阿久津もまだそこまで考えが回っていないようだった。
仮にも序列五五〇位だった占部里津をものともしない実力を持ち、藤沢リカルドを含めた二対一の戦況でも終始有利に立ち回ったであろうユーリャ・コチェンコヴァ。蓮太郎と
一介の警察官が立ち入って良い領分ではない。
とはいえ蓮太郎が何を言ったところで、彼の方も退く気はないだろう。やはり多田島警部と似た現場一筋の人物なだけはある。
「――私も行きます」それまでの沈黙を打ち破るように、蓮太郎の向かいに控えていた白ジャケットの少女が言い放った。
蓮太郎は吃驚する。「馬鹿野郎ッ」と身を乗り出す。「何考えてんだ!? 藤沢さんの話聞いてたかッ!? 最悪の場合、リトヴィンツェフ達がいるかもしれねえんだぞッ!」
「こいつの言う通りだぜ、お嬢さん」さすがの阿久津も蓮太郎に同意する。「ただでさえ外周区は治安が悪い。アンタみたいな華奢な女の子が行って良い場所じゃ――」
阿久津の言葉が途中で寸断された。理由は至極明確だった。
白ジャケットの少女はおもむろに、そのしなやかな五指をジャケットのフードの縁に絡ませ――脱ぎ去ったのだ。
「――――〜〜〜〜〜〜〜ッ!?」蓮太郎の顔面から一気に血の気が引いた。――いきなり何をしているんだ、この人は!?
阿久津、リカルドの二人共が何が起きたか分からないといった面持ちで固まっていた。当然だ。突如として、この場に、このタイミングでいて良い訳がない人物が現れたのだから。
「せっ、聖天子様……!?」リカルドが口をぱくぱくとさせながら、その名を――東京エリア統治者の名を呼んだ。
陶磁器のような一切の染みのないきめ細かい肌と、新雪のごとき混じり気のない白髪を晒した少女は、曇りなき眼差しで阿久津とリカルドを射抜く。
「あなた方の覚悟は確かなもののようです。であれば私も相応の態度で答えねばなりません。此度の件は私にも責任があります。その解決のためには――きゃあっ!?」
それまで厳かに言葉を紡ぎ出していた少女の唇から可愛らしい悲鳴が洩れた。聖天子を取り囲む男共三人衆は、今日が初対面とは思えぬほどの緻密な連携を見せる。とっさに蓮太郎が聖天子の頭にフードを被せ直し、リカルドが彼女の体に覆い被さるようにして周囲の視線を遮り、阿久津が、「さあて! ちょうど良い参考人も見つかった事だし、そろそろ署に戻るかあ! ほら、車出すから着いてこい!」と立ち上がる。
厨房に皿を返却しないのはマナー的にもよろしくはないなと思いつつも、蓮太郎はテーブルに空の食器を残したまま阿久津に追随する。無理矢理フードを被せられてもがく聖天子を連行しながら。
「里見さん! 何をするんです!? 私は――」
「(良いから黙っててくれ!)」と蓮太郎は小声で叱りつけるように言う。「(どこにアンタを探してる奴らがいるか分からないんだ! せっかく聖居から逃げてきた意味を無駄にするつもりかッ!?)」
阿久津もこめかみから冷や汗を垂らしながら、「(とにかく刑務所を出るぞ! 俺の車があるのは本当だ。警察車両じゃなくて俺の私物だから、ドラレコ気にする必要もない! 急げ急げ!)」と手招きする。
私服刑事が先導し、蓮太郎とリカルドが脇を固めて聖天子を隠しつつ食堂の出口へと向かう。
延珠達の元へ帰れるのは、しばらく先になりそうだった。