ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
「ここだな」阿久津は顎の先から汗を滴らせながら、二酸化炭素だらけになった息を吐き出すように言った。「旧東和大学病院」と建物の名を呼ぶ。「二〇年近く前に一度行ったっきりだな。今や廃墟同然か。寂しいもんだな」
「ありがとうございます、阿久津さん」とリカルドは礼を言ってから、続けて蓮太郎と聖天子の方へ向く。「ここからは俺一人で行く。里見達は……」
「ああ」蓮太郎は分かっているとばかりに、すぐに返事をした。「俺達はここを見張っておく。もしリトヴィンツェフ一派が現れたら、すぐに連絡する」
「助かる」一つ頷くと、身を翻して廃墟へと進んでいく。植え込みで囲われた、車両用出入口を潜る。屋外駐車場には割れた窓ガラスが散乱し、そこら中に乗用車や救急車が横転したまま打ち捨てられていた。
しばらく歩くと建物の方の出入口が見えた。元々は自動ドアだったのだろうが、すでに放棄された建造物に電気は通っていないらしく、リカルドが扉の前まで来ても反応する様子はなかった。
仕方なく人力で扉を開け、屋内に入る。
そこでようやく拳銃とナイフを抜いた。こういった雨風を凌げる建物には人が集まりやすい。そして、その全てが言葉の通じる相手であるとは限らない。それをリカルドは実体験として把握している。
薄暗い病院内をゆっくりと進んでいく。
まず探すべきは院内の案内板、もしくは見取図だ。
――一階を虱潰しに見て回っても良いが、なるべく危険は避けたい。
――里見達に余計な心配はなるべくさせたくないしな。
病院内のエントランスにも、やはりガラス片が散らばっている。大戦終結前後の略奪暴動などが主な原因なのだろうが、最近の半グレやギャング達の抗争のせいもあるだろう。それだけ外周区やモノリス近郊の治安は劣悪だ。
当然、照明の類は一切点灯しておらず、割れた窓から差し込む光だけが薄っすらと室内を照らしている。昨晩の刑務所ほどではないが、若干不気味な雰囲気を湛えている。
脚が折れ、中身が飛び出た長椅子が探索の邪魔になる。足を引っ掛けないように気をつけながら歩を進める。受付カウンターのすぐ側の壁に一際存在感を放つ図面を確認した。近づいてみると、ちょうど院内の見取図が描かれていた。
掠れた図形や文字に目を凝らすと、どうやら、今いるところから北西に行った辺りに非常階段があるようだった。さすがにマンホールの有無までは記載されていなかったが、とにかく、この付近を探せば良いはずだ。
リカルドは九ミリ拳銃の銃把を固く握り締めつつ、脳内にインストールした地図の通りに目的地を目指す。
やがて細い廊下の先に、重厚そうな鉄扉が見えた。後方に注意しながら近づき、ドアノブに手をかける。錆や老朽化で動かなくなっているのではないかという懸念があったが、予想に反して扉は素直に開いた。
陽光を受けて瞼を薄く閉じる。どうやら外に繋がっていたようだ。リカルドはドアを潜り抜けて右手を見やる。横島の事務所があるビルのように、外壁に這わせる形で階段が設置されていた。この辺りで間違いなさそうだ。
周囲を見回す。放棄されて人の営みが極端に減った場所らしく、アスファルトを突き破って雑草が好き放題伸び、階段や電柱には蔦が絡んでいる。鼻を突く青臭さが立ち込めていた。
「……!」目的の目印はすぐに見つかった。リカルドの足元に、茶色く錆びついた円形の金属板があった。近くに他のマンホールは確認できない。ここが里津の言っていた場所で間違いないだろう。
その場でしゃがみ込み、九ミリ拳銃のグリップで表面を何度か叩く。しばらく待つと、「……はい」という控え目な返事が返ってきた。くぐもってはいるが、聞き取れない事はない。
「こんにちは」と努めて柔らかい口調で挨拶する。「俺は藤沢リカルドって者だ」と先んじて名乗った。「君は占部里緒さん……で合ってるかな?」
「こんにちは。――……失礼ですが、その名前をどこで知りましたか?」
「君のお姉さんから聞いた」偽らずに答える。隔てた壁の向こうから、息を呑む音が聞こえた。もはや答え合わせをする必要はない。「占部里津さんとはちょっとした知り合いでね。彼女に頼まれて、君に会いに来たんだ」
「里津姉と知り合い……? 民警さんですか?」
「いや、俺は傭兵だ。民警とは無関係だよ」
「…………」僅かな沈黙ののち、「もし、あたしに危害を加えるようなら、迷わず攻撃します」と忠告を飛ばしてきた。「姉と顔見知りなのであれば知っていますよね? あたしは
「構わない。里緒さん、君を害するつもりは最初からない」
「分かりました」
――ガコン、という重厚感のある音と共に鉄蓋が持ち上がり、後ろにずれる。開いた隙間から赤く光る一対の瞳が覗いた。
リカルドは思わず目を見開いた。死んだ占部里津本人が現れたのかと錯覚するほど、瓜二つの顔が目の前にあった。外側にハネた黒髪のショートカットと鋭い目許。姉にあったスペードのペイントはないが、代わりに里緒の目の下は泥や煤で黒く汚れていた。
服装に関しては里津とは似ても似つかない。白いブラウスに黒のネクタイを締め、アウターのカーディガンとショートパンツはどちらも黒色でシックに纏められている。全体的に薄汚れてはいるが、外周区の住人としてはこれでも身綺麗な方だろう。風に乗って、ふわりと柑橘系の香りが漂った。香水でもつけているのだろうか。
「すみません。お客様を迎えるのに、こんな格好で」
「気にしなくて良いさ。それより俺はお邪魔しても良いのかな?」
里緒は小さく頷いた。「大丈夫です。少なくとも悪い人ではないと思いましたので。上がってください」
「ありがとう」
里緒の頭が引っ込むと、カンカンと
微かな光源を頼りに、足を踏み外さないよう注意を払いながら降りていく。
安全靴の底が床を踏み締めると同時に踵を返す。すぐ近くで里緒が待っていた。先ほどは見えなかった脚元の装いも露わになる。年齢の割に肉付きの良い太ももの左側は、黒地のニーソックスで覆われており、反対側はハイソックスという左右非対称の出で立ち。右側だけ丈が短いのは装飾品をつけるためのようだ。ショートパンツの裾のすぐ下辺りに、革製らしいベルトが巻かれている。
「こっちです」と里緒が手招きしてくる。「あたしが寝泊まりしてる部屋があるので」
「マンホールのすぐ下じゃないのか。良く俺がノックしたの分かったな」
「普段鳴らない音は、意外と響くんですよ」
里緒の後ろを着いていく。彼女の手にはアンティークな雰囲気を漂わせるランタンが携えられている。下水道自体に灯りはないため、先ほど梯子を降りる時に足許を照らしてくれていたのは彼女で間違いなさそうだ。
「それ、オイルランタンか」
「はい。姉が買ってくれたものなんです。照らすものがないと危ないだろって」
「良いセンスだ。電気が通ってない外周区だと、バッテリー式のライトよりは燃料式のものの方が使い勝手も良い」
すでに水の枯れた下水路に、二つの足音が不揃いに響く。
陽の光が届かないからか、地下は少しばかり肌寒い。逆に冬は風が通らない分暖かかったりするのだろうか。
そんな事を考えながら歩いていると、不意に里緒が立ち止まった。「ここです」
見ると、下水路の壁に穴が穿たれていた。その先に小さな空間が広がっている。広さは二平米ほど。明らかに人の手が加えられてできた場所だ。
「里緒さんが自分でやったのか」と訊くと、「いえ」という返答。
「あたしがここに移り住んだ時には、もうありましたよ。あたしは、そこをありがたく使わせていただいてるだけです」
ガストレア大戦前後で、東京エリアに大勢の難民が雪崩れ込んだ混乱期の名残りだろうか。当時、内地への切符を獲得できなかった者達により、各地で難民キャンプのような集落が形成された事は知っている。
下水路の壁を掘って作ったこの部屋も、そういった人々が死に物狂いで、安息の地を得ようとした努力の跡なのかもしれない。
「どうぞ」と先んじて里緒が穴を潜り、リカルドを招く。それなりに体格の良いリカルドは、上半身を折り曲げて小さな穴に無理矢理体を捩じ込ませる。何とか穴を通り抜けると、廃れた下水路とは違い、生活感溢れる部屋が広がった。
簡素ではあるが、実用性を兼ね備えたデスクが壁際に設置され、天板の上にはノートや筆記用具、開いたままの教科書が並んでいる。何より目を惹くのは書籍の量だ。生活空間を圧迫しないギリギリのレベルで敷き詰められた本棚には、小説や実用書、哲学書などがびっしりと並んでいた。
「失礼な事訊くけど」リカルドは前置きして、「文字が読めるのか」と尋ねた。「これだけの本を読もうと思ったら、それなりに文字……というよりは漢字を知ってなきゃ無理だろう?」
『呪われた子供達』の多くは学校に通えていない。外周区で暮らす子供達であろうが、イニシエーターとしてIISOに登録している子供達であろうが、それは変わらない。
生まれながらにガストレア因子を体内に宿し、人々から忌み子として扱われる彼女らは、義務教育を受ける機会さえまともに与えられる事はない。あの横島でさえ、美梨を学校に通わせる事だけは避けていた。仮に正体がバレてしまった時、彼女がどんな仕打ちを受けるか考えただけで怖気がすると口にしていたのを覚えている。
「ほとんどは独学ですよ」さらりと里緒は言う。「あたしにとって文字や文章は、里津姉のいない孤独を紛らわせるための友人のようなものです。それに知識を得るのは楽しいですよ。こんな場所にいても毎日新しい発見がありますから」
「その言葉、惰性で学校行ってる内地の連中共にそのまま返してやりたいくらいだ」
なるほど確かにイニシエーターとして戦う事を選ばない訳だ。彼女はその力をもってしてガストレアと対峙する尖兵ではなく、自らの知識欲を満たす方に価値を見出したのだろう。
IISOに登録してプロモーターと組めば、『子供達』は最低限の衣食住は保証される。もちろんプロモーターも玉石混合なので、赤い目を区別なく恨むタイプと一緒になれば、その扱いは想像に難くない。
だが、それでも虐待や虐殺まで至る事は非常に稀だ。公的機関から出向してきている以上、彼女達にはその後ろ盾がある。それを蔑ろにできるほどの連中は、荒くれ揃いのプロモーターにも中々いない。
イニシエーターの身内がいる以上、里緒もそれは知っているだろう。知った上で、彼女は外周区に留まる方を選んだ。
――強い子だ。
リカルドは素直に賞賛する。
それだけに心が引き裂かれる思いがする。今から、どうしようもなく残酷な現実を突きつけなければならない事実に。
「里緒さん」と声のトーンを落として、リカルドは呼びかける。「君は里津さんの今の仕事を知っているか?」
「はい」肯定が返ってきた。「メガフロート刑務所の警備員ですよね?」
「知っているなら話は早い」
リカルドは自分のスマートフォンを取り出すと、昨晩の事件に関してのニュース記事を開いた。そのまま端末を里緒へ差し出す。画面に目線を落とした里緒の眉がぴくりと動いた。
「そこにもある通り、昨日の夜、メガフロートで囚人達の脱獄と暴動が起きた。脱獄に成功した奴の名前はアンドレイ・リトヴィンツェフ。半年前に捕まったロシアのスパイだ。こいつの脱獄を手引きしたのは、かつての部下と、こいつ自身のイニシエーターだ」
「イニシエーター……」
「そうだ。ユーリャ・コチェンコヴァ、序列は元七七位。昨晩の脱獄劇で一番暴れたのがこいつだ。俺の仕事仲間だった民警も殺された。……言いにくいが、君のお姉さんもすでに殺害されている」
「――え」里緒の口から短く息が吐き出された。彼女の瞳が、「この男は一体何を言っているんだ」と言外に語っている。「……冗談、ですよね……? だって里津姉は元五五〇位の……」
「ああ、だから殺された。敵わなかった。序列二桁台のイニシエーターは正真正銘の化け物だったよ」
里緒の手から、貸していた端末が滑り落ちた。タフネススマホの角が床にぶつかり、硬質な音が反響する。記事を映すディスプレイが上を向いて、無機質な文章を羅列している。死亡した被害者の一覧に、占部里津と横島秀貴の名があった。
「……すまない」
「何で、あなたが謝るんですか」
「俺は君のお姉さんを助けられなかった。彼女と合流した時には、もうユーリャに致命傷を負わされたあとだった」
画面が消灯し、オイルランタンの儚げな灯りだけが、ぼんやりと室内を照らす。血の気を失った里緒の白い相貌が暖色に染まる。本棚の壁に写った少女の影は、身じろぎ一つしない。
まだ幼い里緒の心に、リカルドが無慈悲に撃ち込んだ現実は、どれだけの傷を刻みつけただろう。想像するだけで自身の良心が、見えない手で握り潰されるような感覚がした。
「いくらでも俺を恨んでくれて構わない。俺に力があれば……あの場でユーリャ・コチェンコヴァを返り討ちにできていれば……里津さんの延命治療だけなら間に合ったかもしれない。そうすれば里緒さんと話す最期の時間を提供する事もできた」つらつらと、たらればの話が口を突いて出てくる。
決して不可能でなかった、ありえたかもしれない未来。全てを掬い上げる事はできずとも、ほんの少しの希望を守れたかもしれないという仮定。その全ては藤沢リカルドという無力な男の落ち度によって、粉々に打ち砕かれたのだ。
「全部、俺のせいなんだ。横島が死んだのも、里津さんがこうなってしまったのも。里見達みたいな強さを得られなかった俺の責任なんだ。だから謝らせてほしい」
深く深く
しかし、いつまで経っても彼女が殺意を形にして向ける事はなかった。代わりに、「顔、上げてください」という一言が投げかけられる。彼女のお願いに従って、もたげていた首を持ち上げると、不意に上半身を暖かい感触が包み込んだ。
里緒がリカルドの背中に手を回し、顔を腹部に埋めるようにして抱きついてきたのだ。
「優しいんですね、藤沢さんは」里緒が溢す。「……あなたには、ここまでやってくる義務さえなかったのに。里津姉の事も、あたしの事も、何かもかも無視して忘れてしまえば良かっただけなのに。こうして伝えにきてくれました」
「……そんな事はない。俺は卑怯者だ」目頭が熱くなるのを感じる。「……お姉さんの――里津ちゃんの願いを聞き入れて、何も守れなかったクソな自分を少しでも肯定したいだけなんだ」
「あなたが守れなかった訳じゃないです。奪ったのはテロリスト達です。藤沢さんは悪くない」
「それでも……俺は……」
「あたしは、里津姉は本心から安堵できたと思っています。最期にこんな誠実な方に全てを託せて。だから、そんな顔しないでください。それでも、まだ藤沢さんが自分を許せないのなら、どうか叶えてあげてください。里津姉の最期の願いを。後ろ向きな肯定のためではなく、死者の尊厳を守るために」
「……やっぱり強い子だな、君は」今度は言葉にして伝える。リカルドは一度里緒を引き離すと、しゃがみ込んで彼女と目線を合わせる。先ほどまで
里緒が控え目に笑った。「全く里津姉は過保護なんだから……」
「そうでもないんだ」
「?」
首を傾げた里緒に、リカルドは沈痛な面持ちで告げる。「里津ちゃんがそこまで想定していた訳でないだろうが、今君は命を狙われている可能性がある」
「どういう事ですか?」
「里津ちゃんを殺った連中が、君の事も殺そうとしているかもしれないんだ。杞憂だったら、それに越した事はない。だが、可能性が僅かにでもあるんなら見過ごす訳にはいかないんだ」リカルドは立ち上がり、「準備してくれ」と言った。「外に仲間がいる。まずは君を安全なところに逃がしたい」
「……分かりました」
彼女が訝しみながらも返事をしたのと時を同じくして、――ガコン、という硬質な音が鳴った。
それは、つい先ほど聞いたものと同じだ。重たいマンホールを持ち上げて、ずらす際に発生する音だ。
里緒は言っていたはずだ。『普段鳴らない音は、意外と響く』と――。
「……なあ」とリカルドは薄く息を吐き出しながら言う。「一応訊いておきたいんだが、同居人はいるか?」
「ネズミや虫ならいくらでも」
「つまり、このマンホールをどかした奴は赤の他人って訳だな」
そうしている間にも音の種類は変わり、徐々に近づいてくる。そこに一切の迷いは感じられない。
「――あなたを信じます」里緒の目が据わる。「来たのですね。里津姉を殺した者達が」
「里見達の監視を潜り抜けたのか……。偶然か、それとも俺らの存在に気づいているのか……」
「どちらでも同じです」
黒髪の少女は本棚の上に無造作に置かれていたものを手に取った。それは革製の鞘に入った
里緒は、鞘に付属していたアタッチメントを右腿のベルトに取りつける。
「それ、里津ちゃんが使ってたのと同じ……」
「はい、里津姉のお下がりです。外に出る時の御守り代わりです」
「そいつを使った経験は?」
「外周区に侵入してきたガストレアと二度ほど交戦した事があります」
「十分だ」リカルドは頷く。「下水路の構造は里緒さんの方が詳しいだろ? ストーカー野郎と鉢合わせずに逃げられるルートはあるか?」
「残念ながら」里緒は首を横に振った。「この一帯は崩落が激しく、通路が軒並み瓦礫で塞がれて八方塞がりの密室になっているんです。出入口は、あの非常階段近くのマンホールだけ。だからこそ自分の住処として重宝していたんですけれど」
「戦いは避けられないって事か……」
いくら里緒が戦えるとは言っても、その実力は本職のイニシエーターには遠く及ばないだろう。バラニウム製武器と『子供達』特有の身体能力で、野良ガストレア程度なら、ゴリ押しでも何とかなるだろうが、今から対峙するのは本職の軍人とイニシエーターだ。
――一人相手なら、まだ勝ち目もあるだろうが……。
――複数で来られた場合、この子を守りながら戦えるかどうか……。
状況は芳しくない。「俺が先導する」と言って九ミリ拳銃とナイフを抜いた。「最悪、俺を見捨てて地上に出るんだ。病院跡の出入口に、さっき言った仲間がいる。角刈り頭に眼鏡の警察と、黒いブレザーの民警、あとは白い服の女の子だ。彼らに保護してもらって、できれば応援を寄越してもらいたい」
里緒が首肯した。
リカルドは、「よし」と言って、まずは宣言通り自分が最初に小部屋から出ていく。暗闇の向こうへ目を凝らし、まだ侵入者がここまで到達していない事を確認する。部屋の中にいる里緒へ合図すると、彼女も出てくる。
里緒を背中側に隠すようにして、二人はゆっくりと下水路を進む。こちらは可能な限り足音を立てないようにしているというのに、向こうはお構いなしだった。軍靴がコンクリートを叩く音がリズミカルに響いている。
しばらくすると、向かいからやってきた足音が止まった。暗闇の中から、ぼんやりとしたシルエットが浮かび上がってくる。里緒と歳の変わらないくらいの少女だった。オーバーサイズの軍服に袖を通した少女――ではあるが、リカルドの知っている顔ではなかった。
くすんだ茶髪のセミロングに、そばかすが特徴的な相貌。眠たそうな半開きの瞼から覗く瞳はやはり赤色。間違いなくリトヴィンツェフ一派のイニシエーターだろう。
「ユーリャが言ってた」と茶髪の少女は、酒焼けでもしているような掠れた声で言った。「あの傭兵が生きてたら、必ずここに来るはずだって。まさか本当にいるだなんてね。少しびっくり」
「……里見達はどうした?」
「別働隊が襲撃してるよ。イニシエーターはいないけど、あっちはマークが指揮を執ってるから。一人たりとも生きては返さないよ。それが私達の役割だからね」
「そうかい」リカルドは相槌を打つと、静かに腰を落とした。「なら――速攻で嬢ちゃんをぶちのめして、里見達に加勢させてもらうぜ」
「あはは! ユーリャにあれだけボコされて、まだ心折れてないんだ。負け犬の傭兵のくせして良い度胸してるじゃん」
「泥水啜って這いずりながらでも、おたくらに一泡吹かせてやるって決めたからな。今さら怖気づくつもりはねえよ」
「良いよ。せっかくだから、私も少し真面目に相手をしてあげる」そう言うと、そばかすの少女はファイティングポーズを取って、袖に隠れていた手を露わにする。ユーリャのように鉤爪でも装着しているのかと思ったが違った。鉤爪よりもリーチの短いそれは、親指以外の四指に嵌めて使用する、ステゴロ用の凶器だ。つまりはメリケンサック。バラニウム製の黒々とした光沢が、少女の手許で