ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
メガフロート刑務所に到着した磯貝と多田島は、周りの警官や鑑識達への挨拶もほどほどに、建物内へ立ち入っていく。
多田島が周囲を見やりながら、「聞いてはいたが酷い有様だな」と眉間に皺を寄せた。「全囚人の脱獄と暴動……全くとんでもねえ事してくれやがる」
「全ては自分達の脱獄の成功率を上げるため。そのためだけに奴らは独房を解放し、刑務所を混乱に陥れた」磯貝は目の奥に憤怒の色を滲ませている。「奴らの身勝手な思想のせいで、罪のない一般人にも多数の犠牲者が出た。絶対に逃がす訳にはいかない」
未だ濃厚な血臭が漂う独房エリアを突っ切る。エリアとエリアを隔てるゲートをいくつか潜り、最奥付近までやって来ると、少しばかり異様な光景が広がっていた。
奥に立ち入るための扉の前に、完全武装の刑務官や民警と思われる二人組が多数いる。彼らは一様に険しい表情を貼りつけたまま、石像のように微動だにしない。
「警視庁の磯貝です」「勾田署の多田島だ」
各々が警察手帳を刑務官に見せつけて警戒心を解く。
磯貝は、まとめ役と思われる刑務官を見繕うと、「
刑務官は一瞬だけ不審げにこちらを見てきたが、本職の警官相手に理由を追及するのも不毛だと思ったのだろう。小さく頷くと、「念のため、刑務官一人と民警ペアを一組ずつ同伴させます。構いませんね」と確認してきた。
磯貝は、「問題ありません」と返してから、「感謝いたします」と頭を下げた。
最奥へと続く扉が開かれ、刑務官に進むよう促される。始めに磯貝がゲートを潜り、そのすぐ後ろを多田島が着いてくる。二人と少し距離を取って、同伴する刑務官と民警ペアも追従してきた。
「囚人は何か吐いたのですか」磯貝は振り返りながら、刑務官に質問を寄越す。
刑務官は肩をすくめて、「全く、何も」と答えた。「収監されてから、一言も発していない」
「さすがに意思は硬いみたいだな」多田島は無精髭の浮かんだ顎に手をやる。「どうにか口を割らせられねえもんか」
「着いたぞ」
磯貝の一言で、全員の足が止まった。示し合わせたように緊張が走る。
最奥部でありながら、通り抜けてきた他の区画よりも幾分明るい。その理由は独房の一つにあった。他室と比べて、大きく切り取られた採光窓から、強く日が差し込んできているからだ。照明がなくとも、モルタル製の独房内全体の輪郭が、くっきりと浮き彫りにされている。
――ここが、アンドレイ・リトヴィンツェフが収監されていた独房……。
粘ついた空気が酸素にまとわりついているかのように、一呼吸ごとに肺が縮み上がる。何もしていないのに異様な息苦しさだった。
実体のない雰囲気に気圧される磯貝達を嘲笑するかのように、鉄格子に結びつけられた風鈴が
「脱獄に失敗したというのに、満足気だな」磯貝は格子の向こうにいるシルエットへ、無表情な瞳を差し向けた。「まるで、ここに収監されている事そのものに幸福を感じているようだ」
粗末なパイプベッドと簡素な戸棚が置かれ、棚の上にはハードカバーの書籍が積まれている。表紙に書かれている文字は日本語ではなく、キリル文字だ。
味気のないパイプ椅子に腰掛けているのは、そんな本など一文字たりとも読めなさそうな純日本人の男性だった。
落ち窪んだ目と剃毛された頭が特徴的な男は、熱中していた趣味を中断されたかのように
磯貝は男の態度には取り合わず、「そもそもが、おかしな話ではあった」と切り出した。「脱獄するという共通目標があれど、ここに収監されている囚人達は、例外なく内地で持て余した曲者だらけ。そんな者達が一晩の間に一致団結して、メガフロートを占拠するなど、簡単に出来る事ではない」
「それを可能にするのが、
「……ああ、思い出したよ」椅子に腰掛けたままの囚人、横島一秀は凹んだ眼窩から、舐めるような目線を突きつけてきた。「秀貴達と一緒にアジトに乗り込んできた警察か。あの時はしてやられたよ。お前さえいなければ俺だけは逃げ切れたんだがな」
「お前の煽動のせいで実の弟まで死んだ訳だが、何も思うところはないようだな?」
多田島が凄むが、当の横島一秀は涼しい顔をしたまま、緩慢な動きで、足の間で両の手のひらを重ね合わせた。刃物のように薄い笑みを浮かべ、「愚弟が辿るべき末路を辿っただけだ」と答える。何が不可解なのだと言わんばかりに首を捻る。「むしろ感謝してほしいくらいだ。
「認めるんだな?」磯貝は自身のこめかみが熱を持つのを自覚した。それを理性で強引にクールダウンさせる。「お前はアンドレイ・リトヴィンツェフと共謀して、彼の脱獄を幇助した。煽動家としての能力を存分に振るい、囚人達を統率し、リトヴィンツェフ達が刑務所から安全に脱出できるように段取りした」
「さすが、警視庁の人間は優秀だな。服装からして機動隊もしくは特殊部隊か? 刑事課にでも異動したらどうだ?」
「お前は連れて行ってはもらえなかったようだな」妄言を無視して、磯貝は言う。「リトヴィンツェフにとっては、その程度の人材だったという事か」
「制圧されるまでが俺の仕事さ。あの方以外を脱獄させる訳にはいかなかったんだ。だから俺はそう計らった。囚人共がここに立て籠もって、無駄な要求を通そうとするように焚きつけた」
「……全て想定通りだったとでも?」
「だからそう言っている。あの方達の計画にとって、不確定要素となり得るものを排除し、俺はこの特等席で東京エリアと仙台エリアの滅亡を見届ける。何もかもが終わったあとの俺の生死はさした問題じゃない」
「ずいぶんと奴に入れ込んでいるみてえだなホモ野郎」多田島が挑発するように言った。「残念だが、お前の望む未来はやって来ねえよ。リトヴィンツェフは必ず捕まえる。もう一度奴をここにぶち込んでやるのが、
「不祥事続きで内も外もガタガタの警察に何が出来る? すでに滅亡までのカウントダウンは始まっている。民警におんぶに抱っこのお前達に出来る事など一つもありはしない」
「言ってろ。互いにケツの穴を舐めさせてやる」
多田島と横島一秀が絶対零度の視線をぶつけ合わせる。
その様子を、磯貝は沈黙したまま静観する。
――俺と多田島が来た瞬間から、ペラペラと事情を話し始めた。
腕を組んで、思考を組み立てていく。
――おそらくは待っていたんだろう。
――事件の核心に触れられる距離にいる誰かが来るのを。
――やはり俺と多田島の予想は間違っていなかった。
リトヴィンツェフ達の『計画』、そして『東京エリアと仙台エリアの滅亡を見届ける』という先の発言。ここから導き出される答えは一つしかない。
――
――連中はステージⅤガストレアを使役する『何か』を手中に収めている。
春頃に起きた蛭子影胤テロ事件が思い起こされる。詳細こそ知らされなかったが、その際に東京エリアを襲撃したゾディアック『スコーピオン』は、蛭子影胤によって呼び出されたらしい。
――あの聖天子様でさえ隠匿するほどの機密情報……それが、その『何か』だ。
――そこに辿り着く事さえできれば、この馬鹿げた騒ぎを終結させる事ができる。
そして、その鍵の一つは間違いなく、目の前にいる男が握っている。
「答えろ、横島一秀」磯貝は鉄格子へ顔を近づけ、冷えた声色で命じた。「アンドレイ・リトヴィンツェフはどこにいる? 少なくとも、まだ東京エリアからは出ていないはずだ。未踏査領域との境界線は、自衛隊と、常駐の民警が二四時間体制で警戒している。ここを突破されたという報告はまだ上がっていない」
「そこまで分かっているなら、警察総動員で捜索したらどうだ? この後に及んで、俺が情報を吐くとでも思っているのか?」
「懲戒免職も辞さない拷問を実行する覚悟はできている」
「脳味噌抉られようが答えるつもりはないな」
「おい、磯貝」多田島に肩を掴まれ、我に返る。彼は唇を引き結んで、こちらを見据えている。「これ以上はやめとけ。刑務官も民警も見てる」
「……ああ、すまない」磯貝は瞑目すると、静かに引き下がった。
ピリついた空気の中、その中心に佇む横島一秀は、芝居がかった大仰な動きで両腕を広げた。「まあ、そう慌てるな。心配せずとも、自ずと状況は動く。あの方はそうなるように脚本を書いたからな」四方から殺意の込められた視線を突きつけられてなお、彼は表情を崩さない。「関わりたければ関われば良い。あの方はそれを拒まない。勘違いした英雄気取りをまとめて叩き潰して、そいつらから搾り尽くした血液で、終焉の詩を紡ぐ。あの方は一貫してそれを望んでいる」