ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
少し埃臭いエアコンの空気と、様々な銘柄の煙草の残り香が、さながら地層のように折り重なっている。
昭和のまま時計の針が止まってしまったような空間。オレンジ色の白熱電球が優しく室内を照らし出し、使い込んだ木製テーブルと、革張りのソファが規則正しく並ぶ。ヤニで変色した壁には、額縁に収められた絵画がいくつも立てかけられている。カウンターの向こうには、還暦から一〇年は過ぎていそうな、雰囲気のある老人がコーヒーを淹れている。
ガストレア大戦よりも、さらに何十年も前に流行ったジャズミュージックが店内を彩り、非日常感を演出していた。
「お久しぶりです、天童社長」
カウンターの向かいのテーブルに陣取った三ヶ島は、眼前にいる少女へ挨拶を投げかける。東京エリアを代表する美貌を持つ女性と言えば、誰もが統治者である聖天子の名を挙げるだろうが、目の前の少女はそれに劣らぬ容姿を兼ね備えていた。
雪のようにきめ細かい白い肌と、黒絹のように滑らかなストレートヘアのコントラストが美術品のような空気を醸し出す。
吊り上がった切れ長の瞳は、見る者によっては拒絶されているような印象を与えてくるかもしれないが、反証的に彼女の意思の強さを表してもいるようだった。
天童民間警備会社社長、天童木更。
代々、政界や財界に数多の要人を輩出してきた名家である天童一族。
その姓を冠する彼女もまた、その才を受け継いで生まれてきたサラブレッドなのだろうが、現在は一族と決別して一民間警備会社の社長として、その手腕を振るっている。
「ご無沙汰しております。三ヶ島さん」と木更は艶やかな唇を動かして、歌うように言葉を紡いだ。「直接お会いするのは、あの一件以来でしょうか?」
「ええ、その節はどうも。……今日は、里見さんはおられないのですか? 彼には常々感謝の念を伝えたいと思っておりましてね」
「感謝……ですか? 里見く――ウチの従業員が何かされましたか?」
「将監と夏世の最期を見届けてくれました」三ヶ島は力なく笑う。「亡骸こそ墓に入れてやる事は叶いませんでしたが、里見さんが彼らを看取っていただけた事で、残された私達は心を切り替えられた。『もしかしたら、まだ彼らはどこかで生きているかも』――なんて意味のない憶測を抱いて日々を過ごすのは、苦しいだけですからね」
「失礼ですが、ずいぶんと従業員に肩入れされているのですね。御社のような大手は、もっとドライな契約関係かと思っていたのですが」
「良く言われます」三ヶ島の表情は崩れない。「特に隠している訳ではないのですがね。弊社の社員の半分近くは、私が独立した際に着いてきてくれた者達なのです。もちろん、将監と夏世もそうでした」
「そうだったのですね。合点が行きました」
「……?」
「覚えてますか? 防衛省に招集された時の事です」
木更の言わんとしている事をすぐに理解する。四月下旬に政府からの要請で、東京エリア中の民間警備会社の代表が、防衛省に集められた事があった。そこで聖天子を通して依頼されたのが、内地に侵入した感染源ガストレアの排除と、同個体に取り込まれたジュラルミンケースの回収だった。
そのケースの中身こそがゾディアックガストレアを召喚するための触媒、『七星の遺産』であり、蛭子影胤と蛭子
「ウチの将監が里見さんに絡んだ時の事ですか?」
三ヶ島が問うと、木更はこくりと頷いた。「あの実力者が雇い主とはいえ、あなたの一喝で引き下がりました。そこが少し引っかかっていたのですが、今の話を聞いて納得できました」
「あいつは能力は飛び抜けていたんですが、どうにも性格に難がありましてね。どこの会社に行っても長続きしない、当然、フリーランスでは仕事の一つも取ってこれない――と、致命的に他人と上手く付き合う術を知らなかった」
「そんな彼が、あなたには従順だったのですか?」
「とんでもない。ただ対等な立場で接していただけですよ」三ヶ島はテーブルに置かれていたマグカップを手に取ると、未だに湯気の立ち昇るコーヒーに口をつける。「――ところで、
「……――っ!?」
唐突に放った一言に、木更の表情が一瞬にして強張った。虚を突かれたと言わんばかりの瞳孔の開き方を見て、三ヶ島は確信する。やはり彼女は聖天子の行方を知っている。
「これはいけない」と三ヶ島はカップを天板に戻しながら、首を横に振る。「曲がりなりにも天童の名を背負うのであれば、この程度の揺さぶりに嵌まってしまうのは落第点ではありませんか?」
「……伊熊将監についての話は、私を油断させるための作り話だったという訳ですか……?」
「いいや? 将監に関しての私の言葉に嘘偽りはない。私にとって、将監や夏世は友人であり、家族にも等しい存在だった。だが、それとこれとは話は別だ」三ヶ島はソファの上で体勢を変え、行儀悪く脚を組んで、革靴の踵を天板に落とす。「――咲良、
三ヶ島の合図を皮切りに、バックヤードに隠れていた加倉井咲良と、直前までカウンターの向こう側にいた老人が迅速に動いた。目にも留まらぬ速度で木更へと肉薄し、咲良は自前の拳銃の銃口を、沓澤の方はバラニウム製軍刀の刃を、黒セーラーの少女の後頭部と首筋にそれぞれ突きつける。
木更は、こめかみから一筋の汗を伝わせ、「……三ヶ島さん」と口にする。「あなたの背後にいるのは、
「安心して良い。依頼主は聖居の連中だ。
「……こうなる事も予期して、民警ペアを忍ばせていたのですか」
「そこは間違いだ」三ヶ島はきっぱりと否定した。「沓澤さんは退職した元社員だよ。この喫茶店は正真正銘彼の店だ。そしてイニシエーターの方は私の相棒だ。ああ、心配せずとも、私達の序列は覚えるのも億劫なほどに桁が多いよ」
「…………」木更は冷え切った鋼鉄のような視線を、三ヶ島へと向け続けている。この状況で一切の狼狽を見せる事なく、殺意を放ち続けられるのは、やはり彼女が相応の実力者だからだろう。
それを寸分の狂いもなく理解した上で、三ヶ島は平坦な声で告げる。「変な気は起こさない方が良い。天童社長、君が天童式抜刀術の免許皆伝である事は知っている。天童一族に復讐するためだけに、その凶刃を日夜研ぎ続けている事も知っている。君とティナ・スプラウトのIP序列が実力に見合わぬものである事も。自身のイニシエーターを店の外に待機させている事もだ」
真正面からの勝負で、天童木更とティナ・スプラウトのペアに勝てる者は、三ヶ島ロイヤルガーダーにはいない。これは悲観的観測ではなく、捻じ曲げる事の叶わぬ
しかし。
「今の君の手に得物はない。ティナ・スプラウトに預けているからだ。手持ちは、せいぜい護身用の拳銃くらいだろう。君の場合、飛び道具に頼るより、刀で直接斬りかかった方が手強い。そして、君が万が一を考慮に入れてイニシエーターを配置していたように、私もすでに店を包囲させてもらっている」
三ヶ島は淡々と言葉によって、圧倒的強者を追い詰めていく。
「君の腎臓の容体に関しても把握しているよ。糖尿病の影響で、君は長時間の戦闘には耐えられない。いくら君達が鬼神のごとき実力を有しているといえど、圧倒的物量の有象無象を捌き切る事はできないはずだ」
「……試してみましょうか?」
「それはお互いに遠慮したいだろう?」
三ヶ島の背筋が、じっとりと汗ばむ。これだけの手札を揃えて挑んでもなお、心臓を鷲掴みしてくる恐怖は拭いきれない。次の瞬間には、存在しない刀で自分の首が飛ばされているのではないかという妄想が脳に纏わりつく。
――恐れるな。
――ここが正念場だ、何としても彼女から情報を引き摺り出す。
「さあ、どういたしますか? 天童社長」三ヶ島は少女を迎え入れるように両腕を前へ突き出す。「我々に協力するか、この場を互いの鮮血で染め上げるか――。好きな方をお選びください。私達はあなたの判断を尊重いたします」