ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
縦横無尽に動き回るエヴドキヤ・アレンスカヤがマシンガンのごとく両拳を撃ち込んでくる。
矮躯から繰り出される打撃が滅茶苦茶に空気を
「おらおらおらッ! いつまで情けなく逃げてんのッ!? 日本の男はタマなし野郎ばっかってのは本当っぽいね!」年齢に見合わぬ罵倒を吐き出しながら、アレンスカヤは強烈な右ストレートを、リカルドの腹部めがけて打ち込む。
もつれそうになる両脚をギリギリのところで操り、紙一重で砲弾のごとき拳を躱す。滴り落ちた汗の粒が、衝撃波のように吹き荒れた風によって掻き消された。
――何てパワーだよ……!
――スピードはともかく、威力はユーリャにも引けを取らねえ!
――一発でも良いのもらったら、それで終わりだ……!
心臓を締めつけられるような感覚に陥りながらも、リカルドは僅かな安全地帯に身を潜らせ、何とか命を繋ぎ止める。
ユーリャとは異なる完全な
単なる人間でしかないリカルドが、唯一イニシエーターに対抗できる武器こそがバラニウムの弾頭――だというのに、それを叩き込む余地がない。このままでは足が止まったところをリンチにされて殺されるのが関の山だ。
――やるしかねえ! イニシエーターとの
バラニウムの刃を持つダガーナイフを抜き放ち、アレンスカヤを迎え撃つ体勢を取る。メリケンサックを握り込む少女の相貌が獣のように歪んだ。「良いじゃん! 挽肉になる覚悟ができたみたいだねッ!」
「あいにく加工さえできないほど肉質が悪くてな!」
叩きつけるような一撃を半歩下がって回避。アレンスカヤの拳が虚空を薙ぎ、そのままコンクリートの地面に突き刺さる。爆砕音が鼓膜を殴りつけ、津波を思わせる勢いで床材が捲れ上がった。豪快な目眩し。荒波の向こうからギラついた視線とバラニウムの光沢が微かに差し込んだ。
リカルドは後ろに倒れ込むかのように、大きく身を仰け反らせ、超至近距離から放たれた一撃を躱し切る。その体勢のまま渾身の力で、左足のみで踏ん張り、右脚による蹴り上げを繰り出す。
爪先がアレンスカヤの右腕部を叩きつけた。バラニウムの先芯が仕込まれた安全靴の一撃。少女の右腕が明後日の方向に弾かれ、小さな口から苦鳴を洩らす。
「おおああっ!!」ノータイムで体勢を立て直し、右足を踏み込む。保った勢いのまま、体重を乗せた肘打ちをガラ空きの
「――……っッ!」と呻きが洩れる。とはいえ、バラニウム製武器を伴わない生身の攻撃では通りが悪い。
だからこそ、ここで詰め切る。距離を取った今が狙い目だ。片手で九ミリ拳銃を照準し、未だスタン状態にあるアレンスカヤへと発砲する。狭い地下通路内に銃声が反響し、鼓膜と三半規管を逆撫でする。狙いが荒かったせいか、直撃は叶わなかった。アレンスカヤの右肩から鮮血が咲く。
「やってくれたじゃんッ……! 負け犬のくせにさあ!!」怒気と怨嗟を込めた声色で、アレンスカヤが叫ぶ。
リカルドは、その一切に取り合う事なく再び間合いを詰めていく。九ミリ拳銃の銃口から発火炎を撒き散らしながら、一直線に突き進む。――仕留め損ないはしたが、しばらく右腕はまともに動かせないだろ!?
舌打ちと共にアレンスカヤが左腕一本で銃弾を迎撃していく。暗闇にアーク溶断を思わせる眩い閃光が瞬く。薬室に残弾一発を残した状態で、少女へと切迫する。
レイピアよろしく、順手で構えたナイフによる刺突を連続して繰り出す。切羽詰まった表情のイニシエーターは、そばかすの浮かぶ顔から冷や汗を振り撒きながら、突き込まれる切先を躱していく。
――意識が完全にナイフに向いたな!
リカルドは内心で歓喜すると、回避に躍起になっているアレンスカヤの足許めがけて安全靴の底を振り下ろした。コンバットブーツの甲をウレタン底が踏み躙る。「づっ……!?」と鈍痛と驚愕に少女の顔が歪んだが、こちらにも言葉で応じるほどの余裕はない。
再びの肘打ち。だが先刻のように突き込むのではなく、エルボーのように遠心力を加えて、側頭部を叩き抜く。骨同士がぶつかる鈍い音が響き、アレンスカヤの両目が幾重にもブレた。
先のユーリャ・コチェンコヴァとの交戦の際、イニシエーター相手にも脳震盪は有効な手札であると把握した。それをそのまま実行。結果は予想通りだった。
ここで畳み掛ける。
よろめくアレンスカヤの頭部を鷲掴みすると、振り上げた右膝へ強引に叩きつけた。カーゴパンツの生地に湿っぽい感触。それに混じって、蛙のような悲鳴がくぐもって聞こえた。
掻き乱された意識の中でも、戦闘経験に長けた少女は、このままでは不味いと思ったのだろう。曲がった鼻から鉄錆臭い体液を噴き出させながらも、リカルドを突き飛ばし、たたらを踏みながら後退する。「くそッたれがあっ――!!」
「――――」アレンスカヤの怒声を掻き消すかのごとく、破裂音を走らせる。薬室内に残っていた最後のバラニウム弾を発射し、少女の土手っ腹にお見舞いする。もはや踏ん張る余力もなかったのか、少女の体躯は銃弾の運動エネルギーに抗い切れず、あっさりと後方に弾き飛ばされた。
「はあっ、はあっ……!」リカルドは荒い息を吐き出しながら、スライドが固定された九ミリ拳銃に目線を落とす。「ギリギリだったな……」
一瞬の判断の誤りが死を招く。高序列のイニシエーターと殺し合う事の恐ろしさを身をもって痛感する。
――これが里見の生きてる世界か。
――本当、敵わねえな……。
念のため銃の弾倉を取り替えると、後方の物陰に隠れているであろう里緒へと呼びかける。「終わったぞ」と振り返る。「地上に出て仲間と合流しよう――」
「藤沢さん駄目! まだ終わってない――!」
「は――」
物陰から焦燥と共に飛び出した里緒と目が合う。彼女の表情には欠片程度の嘘もない。
背筋に爆炎のような殺気が膨らんで、全身の皮膚が
「何だと!?」泡を食ったように叫ぶ。とっさに顔を上へ向けると、悪魔を顕現させたかのような光景が待ち構えていた。
そう――全身だ。
露出している顔や首だけでなく、彼女の纏っていたカーキの軍服さえもビビッドな虹彩を放っている。
アレンスカヤが次の行動に移る前に、リカルドはその場から跳び
「ちっくしょう……だから嫌だったんだよ、この能力使うのはさあ……」忌々しそうにショッキングピンクの少女は地団駄を踏む。その度に蛍光色の液体が床を跳ねる。「一応、私も女の子な訳よ。
――汗だと……!?
「『血の汗』です、藤沢さん」
リカルドの胸中に浮かんだ疑問に答えたのは、いつの間にか隣に立っていた里緒だった。彼女は大腿部に取りつけた革製の鞘から、黒曜石のような輝きを放つ
「『血の汗』? イニシエーターの能力か何かか?」
リカルドが問うと、里緒はかぶりを振って、「正確には彼女に発現した因子――要するに
「……そういう事か。合点がいったぜ」
とどめとして放った九ミリ拳銃による一撃を、おそらくアレンスカヤは、粘性のある汗で全身をコーティングする事で摩擦係数を極限まで減らし、銃弾を
つまりアレンスカヤが後方に吹き飛んだのは、リカルドを騙すための
――当然、カバの汗そのものに銃弾から身を守れるほどの機能はねえはずだ。
――つまりこれはガストレア因子によって強化された生態機能が引き起こす現象。
――絶対的防御性能を持つゆえの近接特化か、くそッたれだぜ……。
何の冗談だと吐き捨てたくなった。攻撃面も防御面も一切の隙がない実力者に対し、どう立ち回れと言うのだろう。かつての理不尽の権化のような戦いが去来する。
武装しただけの真人間では絶対に打開できぬ障壁が隙間なく
そして、それを容易く打ち破り、未来への道を切り拓いた正真正銘の英雄達の顔が浮かぶ。
リカルドは
本来いるべきではない場所に立っているのは、自分だ。
世界を壊そうとしている者達に立ち向かえるのは、世界を守れる力を持っている者達だけだ。
リカルドには、それがない。永遠にこの手が掴む事はない。
「里緒さん」とリカルドは押し殺した声で、傍らの少女へと語りかけた。「さっき言った通りだ。自信はないが、何とかして隙を作る。その間に逃げてくれ――」
「いいえ、気が変わりました。あたしも戦います」
里緒の突然の心変わりに、リカルドは面食らった。「何を馬鹿な事を言ってる? 相手は本職のイニシエーターだぞ?」
「あたしが逃げたら、藤沢さんはどうなるんですか?」
「…………」
「藤沢さんは、あたしに死んでほしくないと思っているのでしょうけど、それはあたしも同じです。あたしも、藤沢さんに死んでほしくない」決意の表情を浮かべた少女は、リカルドの方を見やると小さく微笑んだ。「あたし達は一蓮托生です。二人でこの状況を覆して、二人で生き残ってやりましょう」
「……分かった」諦めたようにリカルドも笑った。「やってやろう。この理不尽を叩き潰して、日の当たる場所へ帰ろうぜ」
「――お喋りは済んだかよ? 負け犬共」退屈そうに首を鳴らすアレンスカヤが、恫喝するように確認してきた。「テメエらの覚悟も夢も何もかも――私が砕いて擦り潰して
「やっぱり……! おたくらが里津ちゃんを殺ったんだな!」リカルドが吠える。
「ははッ! しょせんは
「テメエ!」
「あの鮫女を殺す前に良い情報を知れて良かったよ! 『身内をアンタに託して楽になろうとしてる』って親切に教えてくれた奴がいたからこそ、こんなに楽しい喜劇を用意できたんだ!」
無視できない一言に、リカルドは頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚える。「教えた奴がいた、だと……!?」
「ああ、そうさ!」アレンスカヤの高笑いが神経を逆撫でする。「
「そんな事のために……里津姉の尊厳を踏み躙って殺したの……?」今にも泣き出しそうなほどに目許を歪ませた里緒が、震える声で問いかけた。「何で……? 何でそんな事ができるの!? あたしや里津姉が何をしたっていうの!?」
「――大尉が許さないからだよ」一瞬前までの高揚が嘘のように、アレンスカヤの声色が冷え込んだ。名前を伏せてこそいるが、おそらくはアンドレイ・リトヴィンツェフを指しているのだろう。「これから東京エリアと仙台エリアは絶望の淵に叩き落とされた上で『大絶滅』を迎える。だから困るんだよ。そんな中で希望を抱いたまま死ぬ奴がいるとさ。一人の例外もなく、全員が絶望を顔に張りつけたまま息絶えてこそ、大尉の願いは完遂されるんだ」
「狂ってる……!」瞑目した里緒がかぶりを振る。「理解できないよ……!」
「……もう良い、里緒さん」里緒を庇うように、リカルドは一歩前へ踏み出す。「教えてくれてありがとよ、嬢ちゃん」と九ミリ拳銃を突きつける。「おかげで、おたくらを根こそぎ叩き潰す事に欠片程度の罪悪感も抱かずに済む」
「イキがるなよ負け犬の傭兵。アンタには何も変えられないよ。ここで薄汚い床の染みになるのが結末だからね」
「確かに俺一人なら、そうだったかもな」
リカルドの切り出した一言に、里緒がぴくりと反応する。
「今の俺にはこの子がいる。民警ってのはプロモーターとイニシエーターが協力し合って、本来の実力以上の力を引き出すんだろ? それなら、ひっくり返せる。嬢ちゃんがいくら凄腕だろうが、俺達の前じゃ敵わねえって事を教えてやるよ」
「藤沢さん……」
「リカルドで良い、
「はいっ!」里緒が頷き、曲刀を構えて腰を落とす。
それを確認したアレンスカヤも再び臨戦体勢に入る。
ここからが本番。
力を完全解放したイニシエーターが、全身全霊をもってして襲いかかってくる。