ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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 東京エリア某所――。

 コンクリート剥き出しの壁に覆われたオフィス内は、側から見れば建設途中のビルのように見えるだろう。内装には一切の洒落っ気もなく、味気のないデスクがいくつか並び、天板の上にはデスクトップPCやノートPCが設置されていた。

 部屋の中央で佇むのは、腰まで伸びる銀髪をたおやかに(なび)かせる一人の少女。

 白ブラウスにブラックスカートを合わせた名家のお嬢様を想起させる格好と、それに似合わぬ鉤爪状の武器を携える姿は、見る者全てにちくはぐな印象を与える事だろう。理知的とも冷徹とも取れるアイスブルーの瞳が、宝石(サファイア)のごとく煌めき、薄暗いオフィス内に一滴のアクセントを加える。

「……スサンナ」と可憐な唇から、か細い声が洩れる。ユーリャ・コチェンコヴァの(まぶた)が細められ、室内の一角を見据えた。

 ちょうど自分と同じくらいの年齢の少女が、(うつぶ)せで倒れ伏していた。すでに指先一本すら動かす事のできなくなった亡骸の腹部からは、異臭を放つ臓器と一緒に大量の血液がぶち撒けられていた。

 ユーリャと同じく、元『魔女部隊』のイニシエーター。剥奪前の序列は一〇〇九位。もう一人の仲間であるエヴドキヤ・アレンスカヤよりも上。生半な民警程度では太刀打ちすらできない実力者だった。

 その彼女が無惨な肉塊となって転がっている事実を前に、ユーリャは自らの下唇を強く噛み締める。

 鉤爪の刃で自身の顔を傷つけぬよう注意を払いながら、ブラウスの袖で顔を拭う。純白の生地に(おぞ)ましいほどの赤黒い痕が、べっとりとこびりついた。見れば、胸許や背中、腰部に至るまで、同様の血痕が無数に見て取れた。黒い生地に隠されて視認しにくいが、おそらくはスカートやタイツも毒々しい赤色で染め上げられているのだろう。

 この血に彼女自身の体から流れ出たものは一滴もない。全てが返り血だった。

 彼女の周囲を取り囲むように散乱した無数の惨殺死体――彼らの血管から撒き散らされたのだ。

「――ユーリャ」と背後から自分を呼ぶ声がする。振り向くと、ユーリャと同じように全身を返り血で彩ったアンドレイ・リトヴィンツェフの姿があった。仲間の男性兵士達と同じくカーキの軍服を纏ってはいるが、上着は着用していない。鍛え上げられた上半身の筋肉が、黒いティーシャツをこれでもかと押し上げていた。ほとんどインナーと変わりない生地の上から、ボディアーマーや、タクティカルベストを着込んでいる。「無事か?」と白人男性は抑揚のない声で尋ねてくる。

「はい」とユーリャは返し、僅かに伏目がちに、「しかし」と続けた。「スサンナが……」

「すでに事切れているな」当たり前の事実を確認するように、淡々と男は告げる。「ユーリャ、スサンナ(彼女)の最期は見たか?」

 リトヴィンツェフの問いに、ユーリャは申し訳なさそうに首を横に振る。「いえ、乱戦だったもので……」

「そうか。しかし私は見ている」リトヴィンツェフは踏み締めるような足取りで少女の死体の前まで来ると、その場でしゃがみ込み、自身の手が血と臓物で汚れる事も厭わず、体を反転させて抱き起こした。瞳孔が開いたまま命を散らしたスサンナの相貌が露わになる。「スサンナは勇敢に敵陣へ突撃し、プロモーターと思しき男と相討ちになった。彼女の命は――彼女の流した血は、必ずや私達の勝利の礎となる事だろう」

 リトヴィンツェフはスサンナの瞼を丁重に閉じると、少女の亡骸を再び横たわらせた。心なしか、どこか穏やかな表情に変わったような気がする。

「――彼女の魂は我々の側で永遠に生き続ける」

「…………」ユーリャは知っている。自らの主人がすでに神を捨てている事を。大ミンスクエリアが大絶滅の憂き目に遭い、全てが壊れ去ったあの日、彼は信仰心を放棄した。

 なのに――彼は時折、現実離れした事柄を口にする。この世に神などいないのであれば、現世で生を全うした人間の意識がどこへ行くかなど、わざわざ論じるまでもない。無神論者なのであれば、皆一様にこう口にするはずだ。『人の意識あるいは魂など、命が潰えた時点で共に消え去るだろう』と――。

 アンドレイ・リトヴィンツェフは果たして、自らの抱える矛盾に気がついているのだろうか。

 ユーリャは思う。

 きっと彼は信仰心や神を捨てたのではない。信じるに値しないと判断したものを捨てたのだ。無意識のフィルターを通して、信じる価値のあるもののみを選り分け、自身の心の支えとする――。

 かつて日本には(もしかしたら今もかもしれない)、神道という考え方が存在したらしい。八百万(やおよろず)の神々が至るところに宿っているという信仰の在り方。内容を把握していても、ユーリャにはいまいちその本質が理解できていなかったが、ふと今の主人の思想はそれに近いのかもしれないと思い至った。

「行きましょう、大尉。いつ敵勢力の増援がやってくるか分かりません」

 この潜伏場所を襲撃してきた勢力は、疑う余地もなく一人一人が実力者だった。正規の民警であれば確実に高位序列者となり得た者ばかりであろう。さらには彼らの持つ『能力』は、明らかに常識の範疇を超えるものばかりだった。

 機械化兵士――まさに現在進行形で敵対している里見蓮太郎の代名詞。それと同等の力を有する者達が、これほどいるとは正直思っていなかった。

 本音を言えば、第二波を迎え撃つのは遠慮したい。バラニウムで強化された改造人間であろうが、自分が遅れを取るとは思えない。しかし、もし仮にユーリャや主人にピンポイントで刺さる能力を有している者がいればどうなる? それが初見殺しとして自分や主人の命に届き得るものだとしたら?

 不安の芽はなるべく摘んでおきたかった。ユーリャはリトヴィンツェフの反応を伺うように、じっと筋骨隆々の男性を見つめる。

 リトヴィンツェフは、ユーリャの求める答えを最初から分かっているかのように、「そうだな」と言って立ち上がる。「ここは放棄する。ちょうどこちらの用意も整う頃合いだ。マーク達と合流する」

「了解しました」ユーリャは安堵と共に返答すると、「あの……」と目線を逸らしながら切り出す。「差し支えなければ……スサンナの識別票(ドッグタグ)を持っていっても構わないでしょうか?」

「好きにすると良い」

「ありがとうございます」一礼するとユーリャは仲間の亡骸へ近づき、先のリトヴィンツェフと同じように屈み込む。軍服の前ボタンを外し、胸許を露出させると、銀色に輝くドッグタグが覗く。「……ごめんなさい」きゅっと唇を引き結んで手を伸ばし、スサンナの首にかかるそれを静かに取り上げる。

「別れは済んだか?」リトヴィンツェフの淡白な声が届く。

「はい」ユーリャは立ち上がると、タグをスカートのポケットにしまい込んで歩き出す。

 それを見たリトヴィンツェフも、踵を返して歩み始める。

 少女の前を行くリトヴィンツェフは、背中をこちらに向けたまま、「覚えているか?」と訊いてきた。首を傾げるユーリャを視認できてはいないはずだが、リトヴィンツェフは彼女の疑問に答えるように続きを告げる。「私とお前が初めて会った日の事だ」

「はい……はっきりと覚えています」

 ユーリャの母親は、一〇年前、天秤宮(リブラ)のウィルス放出でベラルーシが壊滅した際に、自分を身籠ったままロシアに逃れた。ユーリャは難民キャンプで産み落とされ、ほどなくして母は産褥熱(さんじょくねつ)で息を引き取った。

 だからユーリャは自身の母の顔を知らない。物心つく前に、すでに天涯孤独となっていたから。

 誰も頼れなかった。ベラルーシからの難民は、ロシアでは最下層民扱いされ、難民キャンプで生きる人々は自身の生活を守るだけで精一杯だった。何の伝手(つて)もない『呪われた子供達』。現地の民からは『魔女の眷属(けんぞく)』などと呼ばれ、生きた人間として見なされる事さえなかった。

 日に日に自分が衰弱していったのを今でも覚えている。

 汚れた自らの体臭と、腐敗した食物の悪臭に塗れて路地でうずくまり、目の前を飛び回る(はえ)をぼんやりと眺めながら、いつか訪れる死を待つだけの日々。幼いユーリャは、その時、きっと自分も母親のように惨めに朽ち果てていくのだと確信していた。

 だが――予想とは違い、運命はユーリャを生かす事を選んだ。

 霞んだ視界の中、二人の男が自分に近づいてきた。その内の片方はユーリャの前で屈み、その無骨な手を真っ直ぐと差し伸べてきた。顔もはっきりと視認できず、声さえも碌に聞き取れないほど弱り切ったユーリャは、痩せこけた腕を決死の覚悟で伸ばして、その手を掴み返した。

 地獄の底から自分を引っ張り上げてくれたのが、アンドレイ・リトヴィンツェフだと知ったのは、『魔女部隊』結成から、ほどなくして彼と再会した時だった。

「私はあの日から大尉に着いていく事を決めました。大尉の手となり足となり、そして全ての障害を払い除ける武器になると誓いました。……私と共に大尉に追従した者達のほとんどは、すでにいなくなってしまいましたが、大尉の悲願が果たされるまで、私はあなたに着いていきます」

 リトヴィンツェフが魂の存在を信じるのであれば、ユーリャもそれを信じるだけだ。スサンナを始め、志半ばで散った仲間達の無念を背負い、目的(エンディング)まで連れていく。たとえ、どんな相手が立ち塞がろうとも、ユーリャ・コチェンコヴァは道具としての使命を全うするのだ。

 ――二度と私の前から大尉を奪わせはしない……。

 決意を胸に、ユーリャは前を向く。自分より一回り以上大きい背中は、やはりこちらを振り向く事はない。

 それで良い。手の届くところに、目に入るところに彼が居さえすれば良い。

 この想いをリトヴィンツェフに告白する事は未来永劫ないだろう。いつか自分の命に終わりが来たとしても、きっと自分は最期まで無機質な道具であり続ける。この心だけは誰にも渡さない。これは自分だけのものだ。

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