ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
地下霊安室には、普段通りの静けさが戻っていた。
この部屋の主を除けば、訪問者は蓮太郎一人しかいない。いつも通りと言えばいつも通りなのだが、どうにも違和感が拭い切れない。おそらく今日一日、ずっと誰かと一緒に行動していたからだろう。
薬品の匂いの染みついたベッドに寝かされた蓮太郎は、「なあ先生」と傍らの女性に呼びかけた。「さっき解散する時も言ったけどよ、藤沢さんまで追い出す事はなかったんじゃねえか?」
「何度も同じ事を言わすな」と菫は蓮太郎の方を見やる事もせず切り捨てた。
彼女の両目は変わらずPCの画面に突き刺さっている。ディスプレイには、素人では微塵も理解できないような数式や文字列が、濁流のごとく羅列されていた。さらにはそれが目にも留まらぬ速度で、下へ流れていく。画面内容の移ろいと連動するように、菫の病的なまでに細い指が、キーボードをリズミカルに健打し続ける。
「私が治療してやる必要性を感じない」菫はつらつらと続ける。「腐っても元陸自だ。応急処置の心得くらいあるだろう。君ほど重症にも見えない」
「そりゃ、そうだけど……」蓮太郎は言い淀む。やはり菫を説得するのは難しそうだ。
蓮太郎は諦観混じりの溜息をつく。左目だけが写す立体感のない世界を、ぼんやりと眺める。
右半身の手足に感覚はない。バラニウム製の義肢は丸ごと取り外して、菫に預けてある。彼女の操作するPCの本体からは無数のケーブルが伸びており、それが余す事なく義肢に接続されていた。
「相当、無茶な戦闘を繰り返したようだ」と菫が呆れたように呟く。
「……やっぱり筒抜けか」
「当たり前だ。誰が君を創り上げたと思っている。義肢の状態さえ見れば、手に取るように把握できる。カートリッジも相当数使用したようだしね」
蓮太郎は瞑目し、「リトヴィンツェフ一派の実力は桁違いだった」と言った。「俺はイニシエーターとさえ会敵しなかったのに、それにも関わらずこの様だ。特にマーク・メイエルホリド。あいつは別格だ。……藤沢さん達が、一派のイニシエーターを相手取ってくれてなかったら、俺は今頃ここにいない」
「奴については私も多少調べさせてもらったよ。驚いたね。あの男――『ソロモンの指輪』を強奪するにあたってロシアの研究所を襲撃した際、迎撃に駆り出された序列元一五三位のイニシエーターと単独で交戦し、殺害している」
「なッ……!?」
「聖天子様からは聞いていなかっただろう? ロシアも隠蔽したがっていた情報だからね。自国の最高戦力の一角が、ただの人間に敗れたとは言えなかったんだろうよ」
蓮太郎はしばらく開いた口が塞がらなかった。
マークが別次元の強さを持つ事は分かっていたが、まさかそこまでだったとは。
白衣の美女は構わず続ける。「アンドレイ・リトヴィンツェフとマーク・メイエルホリドは、ベラルーシ軍に入隊した時からの同期だ。マークの方はのちにロシア軍の
「…………」
「おそらくマークの実力はリトヴィンツェフを凌ぐ。リトヴィンツェフとユーリャの元七七位という序列がペアとしての実力を示すならば、マークの実力は奴個人のものだ。比喩なしに化け物と言って差し支えない」
視界が霞みがかっていくようだった。倒すべき敵以外にも、何人もの強者が立ち塞がっている状況。リトヴィンツェフに行き着くまでに、いったいどれほどの壁を乗り越えねばならないのか。考えただけで気が遠くなっていくようだ。
「何を難しい顔をしている」不意に菫が言う。「全てを君が相手する必要がどこにある? 木更は? ティナちゃんは? 三ヶ島ロイヤルガーダーの全面的な協力もある。それに何より――あの傭兵は、君にとっての頼りになる仲間だったのではないのかね?」
「あっ……」と蓮太郎の口から、驚きの声が洩れた。「俺は……」
「冤罪をふっかけられて逃亡していた時の感覚が拭えないか? なら言葉にして伝えてやろう。君はもう一人じゃない。同じ方向を見て歩み続ける仲間がいる。君と延珠ちゃんは、リトヴィンツェフを叩き潰す事だけに集中すれば良いんだ。そこまでの道は仲間が切り拓いてくれるはずだ。――ほれ、この私にここまで小っ恥ずかしい台詞を吐かせたんだ。これで分からないとは言わせんぞ」
「……いや、大丈夫だ。ありがとう先生」
「ふん。全く世話の焼ける子供だよ」
「同じような事、藤沢さん達にも言われたよ」
「あの傭兵が? ますます不愉快だ」菫が雑草を噛み潰したような顔になる。
「今日一日で色んな人に助けられた」と蓮太郎は記憶を掘り起こしながら口にする。「阿久津警視、藤沢さん、多田島警部、三ヶ島社長、それに先生も。……俺はちゃんと子供として大人に頼って良いんだって、そう思う事ができた」
機械化兵士として、人を超越した力を持っていようと、東京エリアの英雄なんて肩書きを不本意に背負わされていようとも――蓮太郎自身は未だ
その上で、蓮太郎は思う。
「そんな人達がいるこの世界を……このままリトヴィンツェフ達の好きにさせる訳にはいかない。
「覚悟は決まったようだね」
「ああ」と蓮太郎は短く返す。「アンドレイ・リトヴィンツェフとユーリャ・コチェンコヴァは、俺が止める。これは藤沢さんにだって譲るつもりはない。俺の――役割だ」