ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
風呂から上がると、部屋に里緒の姿がなかった。
どこかに出かけたのかと思ったが、磨りガラス越しのバルコニーに小さなシルエットが浮かび上がっている。リカルドは冷蔵庫から缶の烏龍茶を二本取り出して、バルコニーに続くガラス戸を開けた。
程良く冷やされた夜風が、火照った体をクールダウンさせる。
視線の先にいた里緒は、リカルドに背を向けて、街の向こうを眺めているようだった。貸したシャツは、幼い少女の体格には当然合わず、それ一枚でワンピースのようにすっぽりと体を覆っている。風に当てられて、生地がゆらゆらと揺れていた。
「里緒ちゃん。こんなのしかなくて悪いけど、飲むか――」
缶飲料を少女へ差し出そうとしたところで、ようやく気づく。少女が肩を振るわせて嗚咽を洩らしていた事に。
「…………」
リカルドは欄干の上に缶を置くと、自分の分のプルタブを開けて中身を煽る。それから里緒の隣に立って、自らも欄干に寄りかかった。
「ごめんなさい」と里緒が囁くように言った。あえて彼女の方を見たりはしない。「少し落ち着いたら、思い出しちゃった。里津姉の事……」
「そう……だよな」と短く返す。
「実感が湧かないの。少し前まで普通に話せてたのに。たまに外周区に来てくれて、あたしの欲しいものを買ってくれて、好きなものを食べさせてくれて……。選んだ道は違ったけど、あたし達は双子の姉妹で、これからもずっと一緒にい続けられると思ってた――」
本来であれば、そうだった。
だが彼女達の平穏は身勝手なテロリスト達の手によって、何の前触れもなく奪い去られた。
まだ小学生程度の子供が、天涯孤独のまま生きていく事の苦しみは計り知れない。
「――心のどこかが信じたくないって思ってる。これは全部悪い夢で……。目が覚めたら、いつも通りの日常があって、里津姉が帰ってくるのを心待ちにして……そんな毎日が何の疑いもなく続いていくって……」
「……里緒ちゃん」
「大丈夫です。分かってます。本当はそんな事ある訳がないって。でも……でもっ……」涙混じりの声は、徐々に掻き消えるように掠れていく。「ううっ……ああっ……やだっ……やだよ、お姉ちゃん……! あたしを……独りにしないでよッ……!」
「――――――」リカルドは無言のまま、里緒の体を抱き留める。薄い生地越しに伝わってくる体温は、すっかり冷え切っていた。密着した少女の体からは、あの時の占部里津と同じ匂いがした。
「リカルド……」
「俺には……里緒ちゃんの心を本当の意味で救う事はできない。独り残されて生きていく事の辛さを良く知ってるからな」
胸の中から、くぐもった声が発せられる。「リカルドも……そうなの……?」
「ガストレア大戦で親以外の身内は全員死んだよ。唯一生き残った両親も、大戦後の復興期の最中に殺された。――『呪われた子供達』にな」
「……っ!」びくりと里緒が体を強張らせる。
「親父もお袋も、本当にお人好しでさ。自分達がその日食うもんにも困ってる状態だってのに、産みの親から見捨てられて野垂れ死にそうになってた女の子を助けようとした。それが、当時まだ存在がほとんど認知されてなかった『呪われた子供達』だったんだ。……親から虐待されて捨てられた子供だ。人間不信なんてもんじゃない。……その子には目に映る大人全てが、ガストレア以上の化け物に見えてたんだろうな」
今でも鮮明に思い出せる。
血の海に沈む父親と母親。そして、駆けつけた自衛隊に
「リカルドは……」里緒の声は震えていた。「そんな事があったのに……『
「それがさ、不思議と何とも思わなかったんだ。もちろん天涯孤独になっちまった事の寂しさはあった。両親の死を飲み込んで前を向くまでに、だいぶ時間はかかった。でも、俺は両親を殺した子を憎もうとは思わなかったし、その子を助けようとした両親が間違ってたとも思わない。誰も悪くなんてなかったんだからな」
「…………」
リカルドは自嘲気味に笑って言う。「――俺のこの名前、誰が聞いても外国人みたいだって思うだろ? けど親はどっちも日本人でな。リカルドって名前は、両親が好きだった物語の登場人物から取ったんだ。その中の『リカルド』は、特別な能力なんて何一つ持ってないくせに、どんな困難にも真正面からぶつかって行って、最後には色んなもんを救って帰ってくる――。そんな英雄にでもなって欲しかったのかは分からんが、俺はそいつと同じ名前をつけられた訳だ」
「自衛隊に入ったのは、その名前に似合う生き方をしたかったから……?」
「どうだろうな」とリカルドははぐらかすように呟いた。「何が本心だったのかは、今となっては確信が持てない。ただ……誰も泣かないで済む世界を作りたくて戦い続けてたのは確かだ。……それさえ満足に成し得ないまま逃げ出したんだけどな。けどさ――」
そう言ってリカルドは一度里緒を放し、目線を下げて、少女の顔を真っ直ぐと見据える。
「世界を変える力がなくても、一度掴んだ誰かの手を離すような事はしたくない。不特定多数の笑顔を守ってやる事はできなくても、手の届く範囲にいる誰かの幸せを守り通したい。――里緒ちゃん、俺に君の世界を守らせてくれ。君がもう一度前を向いて歩き出せるその時まで、俺が隣に立つ事を許してくれないか?」
「……許すも何も、あたしはリカルドと歩いていきたいんだよ。地下通路での戦いの時に言ったでしょ? 『あたし達は一蓮托生』だって」泣き腫らした目許をほつれさせ、里緒は半ば無理矢理笑顔を形作った。強がりではあるが、それは苦痛に耐えるための手段ではなく、残酷な世界と向き合うための決意のように見えた。「あたしの手を引いてよ。あたしが自分で動けない時は引き摺ってくれても良い。リカルドの目指すところに、あたしを連れて行って」
「……ははっ。やっぱり強い子だな、里緒ちゃんは」リカルドは力なく笑うと、「了解だ」と返した。