ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
「お帰りなさいませ、聖天子様」普段と変わりない声色で、袴姿の偉丈夫は出迎えてきた。いや、普段の彼であれば聖居の出入口で待つ事などしないだろう。やはり
同時に傍らの
彼女が天童への復讐を果たさんとしている事は知っている。天童家の中で、どんな血生臭い因縁があるのかは知らないが、少女と老人の視線がぶつかるところには、第三者の介在を許さない雰囲気が張り詰めているように感じられた。
――木更さんは
『我々諸共、菊之丞様を斬り伏せるつもりか』『そんな乱暴な事しないわよ』
脳裏に思い起こされる会話。どれだけ木更が冷静を装い、否定したとしても、一秒後には血飛沫が飛び交う地獄絵図が想起される。背筋に冷たいものが駆け抜け、思わず身震いした。
木更は涼しい顔をしたまま、聖天子に耳打ちしてくる。「……大丈夫です。今の状況は把握していますし、自分自身の立場も弁えています。聖天子様の危惧しているような事は起こりませんよ」
「……それを聞いて安心しました」全くの嘘だった。未だに自身の心臓はバクバクと強く脈打っている。
しかし、木更の動向に意識を割き続ける訳にもいかないのは確かだ。
聖天子は改めて、眼前の菊之丞を見つめる。「私は菊之丞さんに謝るつもりはありません。ここには自らの役割を果たすために戻って参りました」
「……この二日間で、何かが変わったようですな」伏目がちに菊之丞は溢す。
袴姿の大男の背後には、白スーツの一団が一様に拳銃を構えており、その銃口の先は、木更や片桐兄妹を捉え続けている。神妙な面持ちを浮かべる彼らの表情は、敵意ではなく、困惑が見て取れた。
「仙台の今の状況を教えてください」
聖天子が有無を言わさぬ口調で申しつけると、菊之丞の皺の刻まれた相貌が、ゆっくりとこちらを向く。
「あなた様が聖居を抜け出す前、仙台に大使を送ったのは覚えておりますね」
「はい」
「交渉の余地もなく、大使は拘束されました。命を奪われなかっただけ、まだマシではありましたが」
「やはり仙台エリアは強硬な態度を崩すつもりはないという事ですね」
菊之丞は瞑目と共に首肯した。「依然、タイムリミットは変わっておりません。このままでは
「私が止めましょう」委細構わず、聖天子が宣言する。「そのための『力』は手に入れました」
「あの民警や傭兵がそうだというのですか」
「彼らは必ずリトヴィンツェフ一派を――延いては
聖天子の確固たる決意に満ちた瞳が、暗闇を照らす灯台の光のごとく、菊之丞の目を捉えて離さない。
ともすれば無謀としか言いようのない行為。
政治家として、仙台エリアを一代で建て直した英傑として、確かな地位と実力を有する稲生
そんな男に、立場だけの年端も行かぬ少女が立ち向かうと言ったのだ。
鼻で笑い飛ばされてもおかしくないと、聖天子自身さえ思う。だが、どうしようもない現実をいくら自覚しようとも、引き退がる訳にはいかないのだ。
張り詰めたままの空気が決壊しそうだ。
竦みそうになる脚に叩いて喝を入れ、聖天子は澱みない視線を突きつけ続ける。
――さあ……!
――どうなされますか……!? 菊之丞さんッ……!!
「…………ふむ」菊之丞の厳めしい表情筋が、僅かに緩められた。「意志は硬いようですな」
菊之丞が腕を振り上げて合図をすると、彼の背後にいた白スーツ達が一斉に銃を下ろした。聖天子や木更、片桐兄妹を囲んでいた羽柴達も、押し黙ったまま菊之丞の方へと集まっていく。
「ここで事を荒立てるつもりはありません」
「……! 菊之丞さん……!」
「道を開けろ! 聖天子様が聖居へお戻りになる!!」
統率されたような迅速な動きで、白スーツの男達が左右に分かれる。それぞれが顔を突き合わせるような形で散開し、指の先まで針金を通されたかのように微動だにしないまま佇む。
「聖天子様、我々に示していただきたい」菊之丞の低い声だけが、その場を支配するように響き渡る。「あなた様が先代に並び立つ――いや、先代を超えるところを。あなた様こそがこの国のトップたる器であると、確固たる事実をもってして示していただきたい」
「無論です」迷いのない返答は、水面に映り込む空のごとく、どこまでも澄み渡っていた。「誰が何と言おうと覆させません。私は東京エリアの統治者、三代目聖天子です。全てを救い、この国に希望という名の光を取り戻してみせましょう」