ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
「ほらよ、
「……ありがとう、ございます」美梨の細い指が、差し出された携帯食料を掴む。
「腹が減ってたら、まともに動けねえからな。しっかりコンディション整えとけよ」
背中にバラニウムの巨剣が突き刺さった男は、今しがた叩き斬った樹木の切り株にどかっと腰掛け、自身の分の食料を貪り始める。月明かりさえまともに届かない
――当然だよね……。
――このヒトにとって、
ここに来るまで、数え切れないほどのガストレアと会敵した。美梨の見立てで、ステージⅢに相当する強敵も何体もいた。
その全てを、この男は、武器とさえ呼べないバラニウムの鉄板だけで叩き斬り伏せてここまで突破してきたのだ。
驚異的な戦闘能力。
人間離れした力は、間違いなく、この男の体内に宿ったガストレア因子に起因するものだろう。
――考えた事はあった。
――あった……けど……。
美梨達のような『呪われた子供達』が戦闘要員として重用されるのは、
そう。
乱暴な言い方をすれば、美梨達の戦闘員としての価値は、
因子に基づく底上げがなければ、自分達の本質は単なる幼児だ。人一人傷つけられない非力な存在以外の何者でもない。
――もし、
経験に裏打ちされた戦術と、度重なる鍛錬によって得られた筋力。そこへ因子によるブーストがかかれば、その者の発揮する実力は『
だが、それは単なる仮定の話でしかなかった。ただの人間がガストレアウィルスに感染すれば、すぐさま侵食率の上昇が始まり、五〇パーセントに達したのちに異形化する。その定説が覆された事例は、美梨の知る限りではなかった。
背筋に絶対零度の悪寒が突き抜ける。真冬の野外にでも打ち捨てられたのかと思うほどに、全身鳥肌が立ち、思わず両腕を掻き抱く。
――この人は……危険だ。
――どうにしかして、ここから逃げ出さないと……。
自分を誘拐した男――
リカルドと共に事務所に入ってきた黒衣の少年が、男の名をそう呼んでいたのを思い出す。
表面上、会話は成り立っているが、将監なる男は明らかに正気を失っている。視力があるにも関わらず、そこに映るものの判別は、全く別の器官で行う。彼は眼前にいる少女が、自分の探し求めている人物ではないと、未だに気がついていない。
じわりと目許に涙が浮かぶ。
――秀貴さん……。
「――どうした夏世。震えてんぞ」不意に正面から声がかかる。美梨の心情を微塵も理解できていないであろう男は、赤い瞳で無遠慮にこちらを覗き込んでくる。「寒いのか?」
「……いえ、大丈夫です」
「本当か? 嘘言ってんじゃねえだろうな?」
生まれつきそれを持つ自分達ですら忌避する赤い目。将監はそれを隠す素振りもなく、真っ直ぐと向けてくる。その無神経さに、僅かに気分が苛立った。
「問題があるなら気にせず言え」と将監は言う。「戦闘になったら、お前のアタマと援護射撃が頼みなんだ。肝心な時に役立たずじゃあ困るんだよ」
「……本当に必要なんですか」
「何だと?」と男の眉根が僅かに寄る。
「ここに来るまでに、あなたは何十体もガストレアを一人で倒したじゃないですか。そんなに強いなら、イニシエーターなんて――私なんて必要ないじゃないですか……!」
この男を刺激してはいけない。余計な事を口走らず、この男に自分を『夏世』と思い込ませていれば良い。
理解していてもなお、そんな疑問が自然に口を突いて出ていた。
「…………」将監はしばしの間、呆気に取られたように黙っていたが、やがて溜息と共に話し出した。「何だお前。そんな事考えてやがったのか」
「そんな事って……!」
「そんな事だろうが。くだらねえ悩みだ」ガムでも吐き捨てるかのような言い方だった。「俺達はな、道具なんだよ。俺は三ヶ島さんに使われる道具。そんで夏世、お前は俺に使われるための道具だ。道具に意思なんて甘っちょろいもんは必要ねえ。道具は道具の役割だけ果たせば良い。俺達の役割は戦う事だけだ」
「でも……そんな生き方、虚しいだけじゃないですか……?」
美梨の胸中に、失われた日々の暖かさが去来する。
横島秀貴と藤沢リカルド、そして自分――三人で食卓を囲む時のささやかな幸せ。世界に産まれ落ちた時から人々に疎まれ、両親からも捨てられ、何もかもを奪われながらも手に入れた大切な居場所。
「人として生きられる事は……それだけで幸せなんです。それが他の人にとって、どれだけ大した事のない日常であっても……!」
会った事さえない夏世という人物の境遇に想いを馳せる。
十中八九、将監とペアを組んでいたイニシエーターだろう。ガストレアウィルスに侵され、異形となりかけている将監が執着する人物――。彼にとって、夏世とはどれほどの意味を持つ存在なのか。
イニシエーターを意思ある人間として扱わず、表沙汰にならない程度の虐待を行うプロモーターがいるのは知っている。
だが、将監はそういった者達とは少し違うような気がした。
虐待紛いの行為を行うプロモーター達は、自らのペアになど固執しない。イニシエーターが死ねば、IISOから新たな少女を派遣させ、かつての相棒の顔も名前も忘れて戦い続けていくだけだ。
詳しい事情は知る由もないが、何となく想像はつく。おそらく、夏世というイニシエーターは、もうこの世に存在しない。
人としての形を失いかけながらも、死者に縋り続ける亡霊の胸中は、第三者には決して推し量れないもののように感じられた。
「……夏世」やがて、将監は囁くようにその名を口にする。「何度も言わせるんじゃねえ。良いか? 俺達はヒトじゃねえんだ。当たり前の事が当たり前にできて、周りと同じもんを持ってる普通の連中とは違う。俺達はどんだけ努力しようが、そこには混ざれねえ。お前の体に巣食う化け物は、お前がヒトとして生きる事を絶対に許さねえんだ。そいつはお前自身が身をもって経験してきた事だろうが」
「……私、は……」
IISOに預けられるまでの半生が、強烈な生々しさを伴って、脳裏に再生される。
忘れたいと思った苦痛の日々。世界から孤立していき、誰も手を握ってくれない絶望。死が救済に思えてくるほどの悲観の積み重ね――。横島秀貴と出会ってから久しく忘れていた感情が、栓を抜いたように溢れてくる。
「そんな痛みなんざ感じなくて良い。戦いの高揚感の中にいれば全部忘れられる。だから、お前は黙って俺に使われてれば良いんだよ。俺だけは――お前の苦痛を忘れさせてやれる」
「…………」
――ああ。
――そういう……事なんだ……。
将監の真紅の眼差しを正面から受け止めながら、美梨は一つの答えに辿り着く。
――この人はきっと……
世界に受け入れられず、命のやり取りの中でしか自らの価値を見出せなくなった自分を、『呪われた子供達』として世間から迫害されてきた夏世と同一視した。
誰からも救ってもらえなかった自分を、そうやって救った気分になっているだけ。乱暴に言ってしまえば、それだけの事なのだ。
登場人物が誰一人として報われない人形遊び。
すでに壊れた玩具の前で、泣き叫んでいる子供の姿を幻視した。
その子供は目の前の男と同じく、くすんだ金髪と三白眼をしていた。