ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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 薄暗い室内に、人工的な明かりが灯る。

 佇む聖天子の前で、青白い光が骨組みのように形を成していき、やがてそれは人の形を作った。

 純白の少女は思わず生唾を飲み込んだ。

 眼前に現れたのは壮年の男性だった。眉まで真っ白な白髪(しらが)に、後退した頭髪。張った頬骨(ほおぼね)と小さな瞳は、どこかアンバランスな印象を見る者に与えてくる。鋭く光る眼光がこちらを射抜き、すでに先手を取られた事を実感させられてしまう。

 仙台エリア首相――稲生(いのう)紫麿(むらまろ)

 今まさに天秤宮(リブラ)の脅威によって、滅亡の危機に晒されている一国の主は、しかし焦燥など微塵も感じさせない泰然(たいぜん)とした態度で佇立(ちょりつ)している。

「待ち侘びておったぞ」低い声色が聖天子の鼓膜を揺すった。「その格好は何だ? よもや私と対峙するのに正装は不要だと考えているのではあるまいな?」と猜疑心(さいぎしん)の塊のような視線が、ナイフのごとく研ぎ澄まされて突き刺さってくる。

 稲生の指摘の通り、今の聖天子の様相は、公務に当たる際に着用するドレスではなく、蓮太郎の家で借りたワンピースとパーカー姿だった。それさえも今日一日各所を駆けずり回ったせいで、みっともなく汚れてしまっている。

 要人と会うのに相応(ふさわ)しい格好でない事くらい、彼女だって分かっている。

 稲生の言葉は最もだった。

 値踏みするような視線にたじろぎそうになりながらも、聖天子はぐっと踏み(とど)まり、「このような無礼な服装で、首相の前に立つ事については謝罪いたします」と言い放った。「――しかし、その無礼を差し引いてもなお、すぐにあなたと話すべきだと思った次第です」

「……ふむ」と稲生は(たる)んだ顎を静かに撫でる。「とりあえずは及第点だ」

「え――?」

「何、簡単な事よ。この後に及んで、まだ正装に拘って無駄な時間をかけるつもりなら、その時点で切り捨てようと考えていたというだけの話だ」

 ゾッとする一言に、背筋が凍る感覚がした。

 ――私は……試される側……!

 イニシアティブを握っているのは稲生だ。国の滅亡という最大級の危機を前にして、これだけ泰然自若とした態度を取れるのは、ひとえに彼の胆力によるものだろう。

「本題に入りましょう」いささか強引とは分かっていたが、聖天子は澄んだ声色と共に話題を転換していく。

「構わん。聞こう」と稲生も首肯した。

此度(こたび)の騒乱の元凶――ゾディアック・ガストレア、疫病王(えきびょうおう)天秤宮(リブラ)。あれの出現に私達は関わっておりません。東京エリアにステージⅤを意のままに操る術などないのです」

「そんな事は改めて説明されずとも知っている」

 間髪を容れず放たれた返答に、再び聖天子は絶句する。

 不気味だった。稲生の目に揺らぎはない。嘘やハッタリを語っている様子など微塵も見受けられない。

 数日前の首脳会談(サミット)や、時折ニュースで見られた稲生と本当に同一人物なのか疑いたくなるほどに、今目の前にいる男は、油断ならぬ雰囲気を漂わせていた。

「こちらの情報網を舐めてもらっては困る。春にそちらの領土で起きた蛭子(ひるこ)影胤(かげたね)テロ事件に、ゾディアック・スコーピオン襲撃。これだけの大事件だ――まさに明日(あす)は我が身。いつ、その脅威がこちらに降りかかるかも分からない状況で、情報収集を怠る愚か者などいなかろう」

「なぜですか」と思わず訊いていた。「なぜ……ッ!? 今回の下手人が東京エリア(私達)でないと分かっていながら、自国の民に嘘を()いたのですかッ……!?」

「本当に分からんか」絡みつくような視線が、心臓を締め上げるようだった。

「分かりません……!」髪を振り乱すように、かぶりを振る。「稲生首相、あなたの扇動は自国民にいらぬ恐怖を植えつけるだけです。私はあなたの行為に意味を見出せませんッ……!」

「まだまだ青いな」

「話を逸らさないでくださいッ」

「逸らしてなどいない。事実を申しただけだ」

「……っ!」

 ――駄目……稲生首相のペースに呑まれては……!

 稲生はやれやれといった様子で溜息を吐くと、「仕方ない。ここは一つ、年長者らしく講義でもしてやろう」と言った。「聖天子殿。お前さんは、さっきからこう思っているだろう? 『(おおやけ)の場やニュースで見る稲生と、今目の前にいる稲生はまるで別人のようだ』――とな」

「……ッ」ほぼ一言一句狂いなく内心を見透かされていた事に、言葉を失うしかなかった。

 稲生は表情を変える事なく続ける。「まずはこの疑問についての答えをやろう。――馬鹿に見せるためさ。自分をな」

 なぜ、と喉まで出かかったところで、稲生が左手でこちらを制してくる。

「覚えておくと良い。聡明で優秀なだけの人間に、民は着いてこない。余りにも自らの価値観と乖離している指導者に、民は共感を覚えない。目線を合わせてやる事で、初めて人は従う。これは為政者(いせいしゃ)に限らず、上下が存在する組織ほとんど全てに当て()まるだろうな。まだ酒も煙草も(たしな)めないお前さんにはピンと来ないだろうが」

 針の先端を突き立てられるような嫌味に、表情筋が引き締まる。

 そんな聖天子とは対照的に、稲生は瞳に宿っていた猜疑心を引っ込め、僅かに口角を釣り上げた。

「もちろん前回の会談のような場でも、これは有効に働く。同じ立場にいるはずの者が、隙だらけのボンクラだと思わせた時点で勝ちだ。勝手に優劣を判断した相手は私を舐めてかかる。私を攻め立てている内に、致命的な隙を晒している事にも気づかずな。……まあ、こっちの理論については忘れてくれて良い。論点として重要なのは前者だ」

 ここまで事細かに語られた事で、稲生が何を言わんとしているかは、徐々に理解できてきた。

 扇動。

 物事に付随(ふずい)する問題を単純化し、共通の思想を民衆に叩き込む事で、彼らを意のままにコントロールする。

『東京エリアは「七星の遺産」を用いてステージⅤを操り、仙台エリアを滅ぼそうとしている』――。

 この情報はただの()だ。

 たった一つの『答え』という名の檻に、民衆を導き、詰め込むための。

「理解できたようだな」と稲生がニヤつくと、聖天子は口許を引き結んで頷く。

天秤宮(リブラ)の脅威によって、滅亡の瀬戸際に立たされた仙台エリアの民達が、根も葉もないデマや憶測に踊らされて統率が取れなくなる前に先手を打った――そういう事なのですね?」

「その通りだ。時には強権的な手段に訴え、民を扇動して同じ方向を向かせる。たとえ、それが最善手ではなくとも、上に立つ者は度々その決断を迫られるものだ。だから、私は今回愚者を演じた。目先の混乱を防ぎ、沈静化させるためにな」

 稲生の理論は理解できる。

 聖天子自身だって、これまで何度も感じてきたもどかしさだ。民を導く役目を与えられた者として、常に正しい選択をしたい。しかし、そもそも配られたカードの中に『絶対的な正解』がない事だって、ままあるものだ。

 それでも――。

「稲生首相……あなたはすでに拳を振り上げてしまいました。その矛先は依然私達に向いたままです。振り下ろす先を変えなければ、(おびただ)しい量の血が流れる事実に変わりはありませんッ!」

「良く分かっているじゃないか」

 激昂する聖天子に対し、あくまで稲生は冷静な態度を崩さない。

 白髪の壮年男性は右手でピストルのジェスチャーを取ると、銃口に当たる人差し指を、自らのこめかみへ突きつけた。「全てを巻き込んで滅茶苦茶にするための引き金に指を掛けているのは私だ。トリガーを引き絞った瞬間、私の死も確定し、世界は良くも悪くも変革の道を辿る。この騒乱は、もはや東京エリアと仙台エリアだけの問題ではない。もちろん、このいざこざに介入しようとしているアメリカなどの大国だけの問題でもない。――文字通り全てだ。今現在、国の形を成しているコミュニティ全てが当事者となる」

 東京と仙台間の全面戦争。列強国を巻き込んでの総力戦。そして天秤宮(リブラ)のウィルス(のう)放出によるパンデミック。

 もはや日本列島自体が、人の住める環境ではなくなってしまうかもしれない。

 仮に日本の五大エリアが壊滅する憂き目に遭えば、全世界のバラニウム供給量は大きく変動する。それはつまりガストレアに対する抵抗力を、大半の人類が失う事を意味している。

 行き過ぎたバラニウムの価格上昇が引き起こすのは、生き残れる人類の選別に他ならない。

 アメリカ、中国、ロシアを始めとする大国が資源を独占し、小国は領土内に入り込んだ野良ガストレア一匹さえ対処できなくなるだろう。やがて世界各地で『大絶滅』が発生し、僅かに生き延びた人々が、大国へ難民として押し寄せる。

 現地の住民と難民との間で、まず間違いなく争いは避けられない。その先の未来で流れる血に、際限はない。

「あなたはッ……」と聖天子は声を震わせる。「本当に全世界を巻き込んだ混沌を望んでいるのですか……!?」

「望んでいるはずがなかろう」稲生の表情が変わった。

 こちらを値踏みするようなものでもなく、さりとて開き直るようなものでもない。そこに張りついていたのは、どうしようもないほどの悲壮感だった。先ほどまでの剛健さと冷淡さなど一切感じられない――どこまでも人間臭い相貌が、今目の前にあった。

「お前さん、なぜ私がここまで自分を曝け出したと考えている?」今度は稲生が問う番だった。「本来ならば企業秘密にすべき『稲生紫麿の人間的側面』を、わざわざ教えてやった訳だ。そこに私がどんな意味を込めていたと思う?」

「……引き下がる理由を用意してほしい……そうおっしゃっているのですね……?」

 恐る恐る聖天子が溢すと、稲生は満足気に首を縦に振る。

「そうだ。もはやお前さん達へ振り下ろす事しかできなくなった拳を、堂々と引っ込めるための大義名分を(こしら)えてほしい。私が特使ではなく、お前さん本人が出張ってくるのを待っていた理由はそれだ。頼む聖天子殿。この血みどろの未来を、お前さんの手で変えてくれ――」

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