ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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「ずっと着いてきてる! これ以上は逃げ切れないよ!」切羽詰まった表情の里緒が叫ぶ。

「くそッたれが……! 俺達だけでやるしかないのか!?」

 リカルドと里緒を猛追するのは、一頭の巨大なガストレア。先ほど突入メンバー達を襲撃したハイエナの親玉だった。

 様々な因子を発現させているところを鑑みるに、おそらくはステージⅢ相当。耐久力に関しても、ステージⅡまでの連中とは一線を画す。

 ――里見の義肢とカートリッジを使った一撃なら何とかなったかもしれんが……。

 そこまで考えてから、リカルドは瞑目してかぶりを振った。

 頼みの綱である里見蓮太郎はここにはいない。

 そもそも突入メンバー自体が散り散りになってしまっている。

 あの時――ステージⅢが乱入してきた時、リカルドはすかさず音響閃光弾(フラッシュバン)を使った。強烈な光で白む視界の中で、各ペアが別々の方向に逃走していったのを確認している。

 ――一人で逃げたティナちゃんが心配ではあるが……。

 金髪の狙撃手の安否は気になるが、今は他人の心配をしている場合ではない。

 ステージⅢのハイエナは、四つの選択肢の中から、リカルド達を選んだ。全くの偶然か、横槍を入れられた腹いせかは判断がつかないが、とにかくステージⅢという脅威にロックオンされている事実に変わりはない。

「ステージⅡまでと違って、バラニウムで攻撃しても再生してきやがるからな……! たぶん俺達の武器じゃ仕留めきれないはずだ……!!」

 曲刀(カトラス)しかない里緒は言わずもがな、リカルドも再生阻害効果のある武装は九ミリ拳銃と八九式小銃、あとはせいぜいナイフしかない。手榴弾の爆発で硬い皮膜を剥がし、ゼロ距離射撃を叩き込めれば可能性はあるが、機械化兵士ですらないリカルドでは、ステージⅢに接近するなどという愚行は選べなかった。

「このままじゃジリ貧だよ……!」里緒の苦鳴にも近い声が必死に訴えてくる。「足を止めたところを殺られる……!」

「里緒ちゃんの言う通りだな……! とにかく行動に移すしかないか!」

 リカルドは覚悟を決めると、その場で急停止。靴底を擦らせながら踵を返し、振り返りざまに八九式を乱射する。消音器(サイレンサー)によって抑えられた銃声と銃口炎が轟く。こちらへ突撃してくるハイエナの皮膚に立て続けに火花が散るが、その勢いが衰える様子はない。

「俺がこいつを引きつける! 里緒ちゃんは北西へ向かってくれ! そこに自衛隊の野営地だった場所があるはずだ!」

「確かなのっ!?」

「大戦の時にこの辺りで、自衛隊の大部隊とガストレアの群れとの大激突があったんだ! かなりの規模の野営地がまだ残ってる! そこに逃げ込め!」

「リカルドはどうするつもり!? このまま囮になって死ぬなんて許さないからね!」

「安心してくれ」と八九式を唸らせながら、傭兵は断言する。「ようやくここまで来たんだ。リトヴィンツェフとユーリャの顔面に一発入れるまでは死んでも死に切れねえ」

「……信じるよ」

 リカルドは頷く。「あとで合流しよう。行くんだ!」

 合図に合わせ、里緒が方向転換。イニシエーターとしての膂力を解放し、一気呵成(いっきかせい)に駆け出した。薄暗い森の奥に消えていく背中を横目で見送りながら、リカルドは引き()った笑みを浮かべる。冷や汗と共にハイエナを睨みつけながら、「さて。デカいワンちゃんよ」と挑発するように言った。「ちょっとばかし俺と遊ぼうぜ。とっておきの玩具(おもちゃ)があるところまで連れていってやるからよ」

 

 

 リカルドの言っていた通り、森を抜けると開けた場所が見えた。

 心を締め上げるような暗闇から一転、月明かりが柔らかく周囲を照らす。暗所に慣れていた目が徐々に、眼前の景色の輪郭を正確に捉え始める。

 ――市街地……?

 里緒は目を凝らしながら、慎重に周囲を見回す。

 そこだけが外界から隔絶されたかのように、かつての人の営みの残滓を残していた。蔦がびっしりと這ってこそいるが、住宅の外壁はまだ倒壊してはいない。足許のアスファルトも(ひび)割れてこそいるが、走らせようと思えばオンロード車でも走行できそうだ。

 至るところに、深緑色のタープやテントが設営されたまま放置されており、不動のオブジェと化した戦車や装甲車も放棄されている。

 ――ガストレアに蹂躙された未踏査領域で、これだけ人工物が残っているのもおかしい……はず。

 大戦時代を実体験として知らず、当然、未踏査領域に足を踏み入れるのも初めてな里緒には、この状況を自身の持つ知識と照らし合わせる事でしか把握できない。

 ――どこかにガストレアを寄せつけないための携帯型モノリスでも設置されてるのかな?

 少なくとも、ここに辿り着くまでに、そんな代物は目にしていない。仮に、それがあったとしても完全に侵入を防ぐ事はできないだろう。東京エリアを囲う長大なモノリスでさえ、日々の異形達の侵入を完全には止められないのだ。

 本来なら、この野営地には各所にガストレアを迎撃するための警備兵が配備されていたのだろう。当たり前だが、すでに自衛隊は一〇年前に撤退しているので、この場に残っている兵士などいるはずもない。

 ここで何かの気配を感じたとしたら――それは自らの命を脅かしてくる存在に他ならない。

 ――あたしの役目は、リカルドがここへステージⅢを連れてくる前に『逆転の一手』を見つける事。

 元自衛隊のリカルドが何の根拠もなしに、ここへ向かえなどと言うはずがない。

 ――リカルドには確信があるんだ。

 ――この野営地にガストレアを倒せる手段があるって……!

 手近なテントの中へ入ってみる。カビ臭い室内は酷く散らかっており、壊れた医療機器がぞんざいに投げ出されたままだった。パイプベッドも脚が根元から折れ、もはやその機能を果たせなくなっている。

「…………」

 リカルドから借りたペンライトのスイッチを押し、逆手で持ちながら前方を照らす。内壁の側には、ボロ切れのような野戦服を纏った白骨死体がいくつも並んでいる。彼らの髑髏(どくろ)は皆一様に悲哀を訴えかけているようだった。

 ――死ぬ前だったとしても、死んだあとだったとしても……。

 ――こんなところに置いていかれるのは……寂しいよね。

 自分が生まれる前に死んだであろう彼らに手を合わし、静かに黙祷を捧げる。

 しかし、いつまでも死者へ想いを馳せ続ける訳にもいかない。手を打たなければ、今度は里緒自身が彼らの仲間入りを果たしてしまう。

 踵を返して出口を潜る。テントは見えている範囲だけでも二〇幕はある。おそらくは住宅などの建物も、司令室や倉庫といった用途に使われていたはずだ。虱潰(しらみつぶ)しに見ていくしかない。

 慎重かつ迅速に事を進める。

 ガストレアは、こちらの準備が整うのを待ってはくれないのだから。

 

 

 もはや自身の存在を忍ばせる余裕はなかった。バキリと転がっていた枝を踏み折る。すでに消音器(サイレンサー)は熱で使いものにならなくなっており、やむなく取り外してある。構わず撒き散らされる銃口炎が、暗闇を滅茶苦茶に照らし出す。

 リカルドは三点撃(バースト)に切り替えた八九式を撃ち続けながら、里緒を向かわせた地点目指して、自らも駆けている。

 ――里緒ちゃんは賢い子だ。

 ――必ず俺の意図を汲んでくれるはず……!!

 弾丸の尽きた弾倉を地面に落とし、フル装填したものを本体に叩き込む。

「グルルアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」

「――! ちいッ!」

 リカルドに一瞬の隙ができるタイミングを(うかが)っていたのか、ハイエナのボスは天にも昇るような唸りを上げ、そのまま巨体をこちらに突っ込ませてくる。

 体を捻り、半ば強引に方向転換。横っ跳びで大質量のタックルから逃れる。次の瞬間、ボグギャッ! という鈍い音が響く。とっさに視線を移すと、ハイエナの体当たりが巨木を叩き折ったところだった。

 少しでも反応が遅れていれば、自分がああなっていた事を自覚し、背筋が凍る。

「化け物がッ……!」舌打ち混じりに悪態を突く。

 ――ステージⅢクラスと戦うのは初めてじゃない。

 ――だが、仲間も戦車も戦闘機も……何の支援もない状態で戦うのはこれが初めてだ。

 リカルドは思わず口許に苦笑いを浮かべる。「ただの人間が身一つでやり合うもんじゃないだろ、ステージⅢガストレアってのはよ……!」

 根元から引きちぎられた幹が大きく傾ぎ、そのまま地面に倒れ込んだ。轟音と合わせて砂埃が舞い、撹拌された空気が頬を叩く。

 リカルドは一切の油断を見せず、八九式小銃の銃口を突きつけ続ける。ハイエナの赤い瞳が不気味に揺らめき、暗闇の向こうからこちらを見据えてくる。先ほどから休みなく銃撃を浴びせ続けているにも関わらず、獣の表皮には擦り傷程度しかついていなかった。

 ――弾にはまだ余裕はあるが……。

 ――那須鉱山に入るまでは可能な限り温存しときたい。

 対人戦になった時、アサルトライフルの有無は戦局を大きく左右する。ここで八九式小銃を失う訳にはいかない。とはいえ、九ミリ拳銃では牽制にもならない。

 ――野営跡地まではあと二〇〇メートルくらい……。

 ――ここから全速力で走ればいけるか……?

 銃砲の先端で圧をかけつつ、ジリジリと後退していく。目的地は自分の真後ろ。ほとんど一本道。身を翻して逃走すれば、ギリギリステージⅢの追撃は避けられるはずだ。

 ――よし……。

 半身になって右腕一本で小銃を支えつつ、左手を背中側に回す。ミリタリージャケットの内側に仕込んでいた手榴弾を掴み――ハイエナに勘づかれるよりも早くピンを引き抜いて起爆準備を整える。「くれてやるよ」

 投擲。ハイエナの鼻っ柱目がけて投げられた手榴弾は、ワンテンポ遅れてから爆発した。三半規管を掻き回すような爆音が轟き、瞬間的な爆炎と爆風が吹き荒れる。

 一瞬の目眩しが成功したのを悟ったリカルドは、ほとんど反射的に体を反転させて走り出す。

 心臓を握り潰すような恐怖がビッタリと追い縋ってくるが、構わず両脚を駆動させて目的地を目指す。

 一気に一〇〇メートルを駆け抜ける。まだハイエナが追伐(ついばつ)してくる様子はない。

 ――爆風と一緒に、多少のバラニウム片が撒き散らされるようには作られているが……。

 ――その程度でステージⅢがダウンするはずがない。

 ――おそらくは……!

 内心の推測と連動するように、答えが示される。バキバキバキバキッ!! と幾本もの木々が薙ぎ倒される音。さらに左横から鼓膜をつんざくような咆哮と共に、赤黒い体液を振り撒きながらハイエナが急襲してくる。

 リカルドはしてやったとばかりに鼻を鳴らした。「ワンころの割には頭使ってるみたいだが――! まだまだ安直だぜ!」

 前脚で力任せに放たれた横薙ぎを、体を屈めて躱し、そのままハイエナの腹部へと滑り込む。

 ――いくら体表が硬かろうと……動物なら腹はその限りじゃないだろ!

 左手でダガーナイフを抜き放ち、腹部の皮膚を切り裂くように一閃。筋繊維を引きちぎる感触が手首を駆け抜けた。切開したそばから毒々しい色の体液が噴き出し、頭上から苦鳴が響く。

「まだくたばってもらっちゃ困るぜ!」血のシャワーを浴びながら、リカルドは八九式小銃を獣の右後脚へ照準。間髪()れずのゼロ距離フルオート射撃。弾倉に残っていたバラニウム弾が全て吐き出され、弾頭がまとめて表皮を食い破っていく。

 弾切れと共に九ミリ拳銃を抜く。(ぬめ)った肉が露出した傷口めがけて、続けざまに銃撃をぶち込む。ダメージが許容量を超えたステージⅢの体躯がよろめいた。転瞬、リカルドはその場から飛び退く。ハイエナが膝を折り、倒れ込んだのを見届けると、身を翻して再び目的地向けて走り出す。

 ――すぐに動ける程度まで回復して追いかけてくるはず!

 ――ここからは運任せだ!

 ――頼むぞ、里緒ちゃん……!

 

 

 ――……来た!

 里緒の聴覚が近づいてくる足音を捉えた。

 すぐに音の方向を算出し、力を解放して先回りするように駆ける。建物の隙間を縫うように走り抜け、先ほどここに辿り着いたのと、ほぼ同じ地点へと戻ってくる。

 里緒は脇に抱えた『仕掛け』を手際良く設置していき、それが済むと近くの建物の屋上へと飛び移った。ペンライトを最大光量で起動し、力の限り大きく振るう。

 ――お願い……!

 ――気づいてっ、リカルド……!

 土煙を撒き散らしながら接近してくる大型ハイエナの姿を視界に収める。すでに相当な負傷を負っているようだった。ガストレアの腹部からは絶え間なく血が流れ、獣が通ったあとにはグロテスクな(わだち)が刻まれている。

 そして明らかに挙動がおかしい。ハイエナは右後脚を引き摺るように走っている。そのせいで本来の速度を出せていない様子だ。

 ――リカルドがやったんだ……!

 自らの相棒がステージⅢ相手に深傷(ふかで)を負わせた事実を認識し、思わず拳を握り込んでいた。

 続けて、ハイエナよりも数メートル先を疾走するミリタリージャケットの男を視認。「リカルドっ――!!」と力の限り叫んだ。「こっちだよ!!」

 リカルドの相貌がハッとしたように、こちらを向いた。里緒と目が合った瞬間、彼の口許が僅かに綻ぶ。

 問題ない。すでに意思は通じ合った。

 里緒はペンライトを懐にしまうと、屋上の(へり)を蹴り抜いて急降下。一直線にリカルドの元へ向かう。アスファルトを砕き割りながら着地し、こちらへ駆けてくる傭兵へと手を伸ばす。「――掴まってっ!!」

 リカルドの方も死に物狂いで、里緒の手を掴もうと手を伸ばしていた。その後ろからは体液を撒き散らして猛追してくるガストレア。ステージⅢの脅威がリカルドへ届こうとしたまさにその時――二人の手が重なった。

「――っああああッ!!」里緒はリカルドの大きな手を握り締めると、思い切り自分の方へと抱き寄せた。そのまま後方へ跳躍。里緒の矮躯とリカルドの大柄な体躯が宙を舞う。

「里緒ちゃん!」

「大丈夫!」と里緒は、片手で持った古びた無線端末に親指の先をあてがう。「これで――詰みだよ!」

 ガストレアが里緒の仕掛けた防衛線を突破した瞬間だった。

 獣を包囲するようにして設置されていた、(おぞ)ましい物量のプラスチック爆薬(C4爆弾)が同時に起爆した。地響きを起こすのではないかと錯覚するほどの轟音が周囲を覆い尽くし、いっそ美しいと思えてしまうほどのオレンジ色が一気に拡散した。爆炎はさらに、付近に投棄されていた車両の燃料タンクに引火し、指数関数的にその勢いを増していく。

 至るところから湧き上がった爆炎は、一切の容赦なくステージⅢを包み込み、灼熱の業火で体表を焼き尽くしていく。

 里緒が『逆転の一手』として用意した策。それは大量のプラスチック爆薬と、起爆用の雷管、ガソリンを用いて、ガストレアを徹底的に炭化させる事だった。

 幸い、爆薬と雷管は使える状態で残っていた。雷管に信号を送るための無線機も、少しの修理で使える状態ではあった。戦車や装甲車の燃料タンクはあらかじめ確認しておき、足りない分は、野営地の奥に打ち捨てられていた車両から拝借して、外周部分の車両に継ぎ足した。

 リカルドが時間を稼いでくれたおかげで、全ての準備を滞りなく進められた。

 爆心地より二〇メートルほど離れたところに着地すると、抱き抱えていたリカルドを解放してやる。

「大丈夫? リカルド。怪我とかしてない?」

「ああ、問題ない」

「良かった……!」と胸を撫で下ろす。「一人で残った時は本当にどうしようかと……」

「言っただろ? あいつらに借りを返すまでは死ぬ訳にいかないんだよ」傭兵は朗らかな笑みを浮かべて、里緒の頭をクシャクシャと撫でてくる。「……ありがとな、里緒ちゃん。俺が今生きてるのは君のおかげだ」

 里緒はかぶりを振って否定する。「違うよ。あたしが今生きてるのも、きっとリカルドのおかげ」

「じゃあ俺達はお互いに助けられた訳だな」

「うん……そうだね」

 里緒は頷くと、今もなお炎に包まれるガストレアを見やった。断末魔が今もなお上がり続けている。

「心配しなくて良い」とリカルドが言った。「再生能力が強化されたステージⅢとはいえ、あの量のC4の爆破に巻き込まれたんだ。しかもガソリンのブースターつき。あとは焦げた肉の塊になっておしまいだ」

 文字通りの火力で滅却し尽くして、細胞を余さずこの世から消し去る――。

 民警や自衛隊は、普段バラニウム製武器を用いてガストレアの生命活動を終わらせるだけだが、そこから先――解剖に回された死骸は最終的に焼却処分される。

 炎はガストレアを含む全生物にとって、脅威そのものなのだ。

 それを里緒が知れたのは、あの発電所での一件を見たのが大きい。

 ――延珠って子には悪いけど、ガストレアを用いたバイオマス発電の存在を知らなかったら……きっと、あたしはこのやり方を取れなかった。

 ――あの場に立ち会えた事だけは、感謝しておこうかな。

 やがてハイエナの発する悲鳴が弱々しくなり、やや間を置いて完全に沈黙した。今もなお轟々と燃え盛る炎の渦だけが、そこに強敵がいた事を知らせてくる。

「行こう、里緒ちゃん。里見達が待ってる」

「――うん」

 灼熱のカーテンを背に、二人は歩き出す。

 

 

 (かたわ)らにいる里緒に勘づかれないように、ジャケットのポケットにしまった注射器の感触を確かめる。

 ――…………。

 ステージⅢが突入メンバーの一団を急襲し、リカルドがとっさの判断でフラッシュバンを投げた時、ほとんど同時に三ヶ島がこちらへ投げ渡してきたもの。

 あの経営者がこれと同じものを複数所持しているのは知っていた。室戸菫(むろとすみれ)と交渉し、一つの約束を果たす代わりに彼女から引き出した物品。

 ――気遣いには感謝するが……。

 リカルドは注射器を固く握り締めて決意する。

 ――こいつを使う訳にはいかない。

 ――いや……こいつを使わざるを得ない状況には、絶対にしない。

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