ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

64 / 96
9

 保存液に()かった肉片を愛おしそうに眺める男を尻目に、マーク・メイエルホリドは低い声色で告げる。「……侵入者だ。どうする」

「決まっている」とアンドレイ・リトヴィンツェフは、こちらに背を向けたまま言った。「残った戦力を引き連れて迎撃だ。里見蓮太郎と相方のイニシエーター以外、誰一人として通すな」

「…………」

「? どうした、マーク」

 閉口したマークを怪訝に思ったのか、リトヴィンツェフの相貌がようやくこちらを向いた。彫りの深い顔は、逆光によって一層陰が落ちており、表情を読み取るのが難しい。

 代わりにマークは、少し離れたところに座っている銀髪の少女を見やった。ブラウスに黒スカートという出で立ちのユーリャ・コチェンコヴァの両手には、虎の爪(バグ・ナウ)と呼ばれる鉤爪状の暗器が装着されている。お嬢様然とした装いと、物騒な凶器というアンバランスな組み合わせ。彼女が一派の証である軍服ではなく、私服を着用している理由を、マークは薄っすらとではあるが察していた。

「コチェンコヴァを戦わせるのか」というマークの問いに、リトヴィンツェフの眉が僅かに動いた。

「当たり前だろう」と金髪の男は、平静を装って答えていた。

 その感情の奥底に微かな逡巡が見え隠れしたのを、マークは見逃さない。「――もう良いだろう? コチェンコヴァはすでに俺達とは関係なくなったはずだ。アレンスカヤもマルキドノフもいなくなった。アンドレイ、お前が分かっていないはずがない。魔女部隊の面々を巻き込む理由は、もうないんだ」

「……お前からそんな言葉が出てくるとはな」

「ずっと考えていた。俺達のやろうとしている事の妥当性を。だが結論は変わらなかった。――俺達の側に正義はない」

「そんな事は言われずとも分かっている」とリトヴィンツェフは断じるように告げた。「しかし私達はもう止まれない。止まる理由を失ったからだ。ここで生き方を曲げれば最後、私達という存在は本当の意味で死ぬ」

「お前の言う『私達』の中にコチェンコヴァを含めるべきではないと言ったんだ」

 ユーリャが立ち上がり、「私は……戦います」とマークの方を見据えた。「私のいるべき場所は大尉の隣です……! 私は魔女部隊の最後の生き残りとして――」

「それは本当にお前自身の意思か? コチェンコヴァ」

「無論です……! 私はッ……――!」

「ならばなぜ――さっきからそんな顔をしている?」

「――っ」

 マークの鋭い眼光に、ユーリャが一瞬たじろいだ。

「藍原延珠。もうすぐ彼女がここに来る。里見蓮太郎と共に」マークは強調するように、一人の少女の名を口にした。「敵対勢力の中に彼女の名を見つけてから、ずっと目に迷いがある。俺やアンドレイがそれに気づかないとでも思ったか?」

「…………」

「藍原延珠を知っているな? いや、言い方を変えよう。コチェンコヴァ――お前は彼女と会った事があるな?」

 マークの問いにユーリャは唇を引き結んで沈黙を続ける。それが何よりもの答えだと、幼い少女は気がついているだろうか。

「戦いたくないんだろう? 藍原延珠に刃を向けたくないんだろう? なら、お前の中にある答えは今さら問うまでもないはずだ。だから――」

「――そこまでだ。マーク」遮るように差し込まれた声と共に、銃口がマークの方を向いていた。リトヴィンツェフが右手に携えた拳銃から、キリキリと引き金を絞る音が聞こえてくる。「お前をここで殺したくはない」

「本気で言っているのか」先手を取られているにも関わらず、マークの顔色には一切の変化がない。「引き金を引いたあと、どちらが血の海に沈んでいるか、お前が分からないはずがない」

「……引く気はないか」

「論じるまでもない」とかぶりを振る。「もう終わりにするべきだ。……地獄へ行くのは俺達だけで良い。コチェンコヴァはまだ引き返せる」

 リトヴィンツェフは薄く笑って言う。「ははっ。マーク、お前こそ感傷に浸り過ぎて肝心な事を忘れているんじゃないか? ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「……俺は」

「ここにいる者の中で、天秤宮(リブラ)のウィルスに侵されていないのは、ユーリャとお前だけだ。ベラルーシがゾディアックの襲撃を受けた際、お前だけはロシアの特殊部隊(スペツナズ)にいた事で難を逃れた」

 リトヴィンツェフは口許を鋭利に引き裂いたまま、静かに銃を下ろした。

「お前だけは『未来』という選択肢を掴める。前を見据えて私の敵になるのならば、もう私達の歩く道が交わる事はないだろう」

「アンドレイ!」

 叫ぶマークに構わず、リトヴィンツェフは不敵な声音で続ける。「私は里見蓮太郎を殺す。次に世界を壊す。私が自らの意思で歩みを止める事はない。私を止めたければ、お前が私の心臓を撃ち抜け。そして私からユーリャを奪い去ってみせろ」

 大仰に両手を広げて、こちらを招き入れるような態度を見せるリトヴィンツェフ。しかし彼の相貌に輝く瞳には、死を受け入れる様子は微塵も見られなかった。それは命の終わりを拒否しているからではない。今ここでマークが引き金を引けない事を確信しているからだ。

「……策謀家め」

「私にとっては褒め言葉だな」

 マークはしばしリトヴィンツェフを睨めつけたあと、踵を返して歩き出した。「俺は必ずコチェンコヴァを迎えにくる」と断言する。「それまで誰一人として、ここに辿り着かせはしない。――里見蓮太郎も、藍原延珠もだ」

 広大な地下空間に、静かな覚悟を決めたマークの足音だけが滔々(とうとう)と響き渡る。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。