ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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 ――ユーリャ・コチェンコヴァにとって、その思い出は暖かい食卓を囲んでいた時間と共にあった。

 簡素なパンとスープのセットは、当時のユーリャにとって贅沢の限りを尽くしたご馳走そのものだった。

 周りには自分と同じように、死の瀬戸際から救い出された『子供達』が大勢おり、それぞれ思い思いに食事を口に運んでいる。淑女(しゅくじょ)のマナーなど、これっぽっちもない。ただ、生存本能に任せて食物を喰らっているだけの、獣の食事風景にも見えていただろう。

 そんな中で、彼らは自分達を慈愛に満ちた視線で眺めていた。

 滅亡したベラルーシから亡命してきた元軍人達――マックス、アレクサンドル、ミハイル、そしてマーク・メイエルホリドがいて――。名前まで知らなくとも、顔見知りの者達も何人もいる。その中心に、かつて自分を見つけてくれた男がいた。

 しばらくの歓談(かんだん)ののち、おもむろに彼は立ち上がって言った。「――我々の呼びかけに応えてくれた事、心の底から感謝している。ここにいる者達は誰一人として君達を差別しない。生まれ持ったガストレア因子によって(いわ)れなき憎悪を向けられ、見当違いの迫害を受けてきた毎日は――今日で終わる」

 歓声が上がった。隣にいたエヴドキヤ・アレンスカヤも、向かいの席にいたスサンナ・マルキドノフも――。皆が皆、歓喜(かんき)の感情を剥き出しにして叫んでいる。

「君達はこれまで『魔女の眷属(けんぞく)』などと呼ばれ、およそ人としての扱いなど受けてこなかっただろう」と彼は悲哀(ひあい)を張りつけた表情で、かぶりを振った。「だが! それは君達の責任ではない!」と語気を強める。「現状を正しく認識できない愚か者共が、君達の持つ潜在的価値を見誤ったからだ! ここで断言する! 私は間違えない! これから君達に理不尽な想いをさせる事もあるだろう! 死の瀬戸際に立たせる事もあるかもしれない! それでも私を信じて着いてきて欲しい! 必ずや君達の立場を確固たるものとしてみせる! 眷属などではない! 魔女そのものとして愚者の上に立て! ここに『魔女部隊(まじょぶたい)』の結成を正式に宣言するッ――!!」

 会場のボルテージは限界まで上昇していた。大戦後の資源不足によって、まともに暖房器具さえ使えない極寒の季節にも関わらず、底冷えする基地内の一角には、サウナのような熱気が溢れていた。

 周りほど狂乱に溺れてはいなかったユーリャ自身も、胸の内がじんわりと温かくなっているのを感じていた。

 自分の人生が変わる。ただ虐げられ続けるだけの、ちっぽけな生涯はここで幕を閉じる。

 そう確信させるだけの説得力が、彼の言葉には宿っていた。

 

 

 それからの日々は、少なくともユーリャにとってはこれ以上ないほど充実したものとなった。

 短期間で実戦に投入できるだけの実力をつけさせるため、部隊員の養成は度を逸した苛烈さを極めた。()しくも彼の言った通り、幼い少女達にとっては理不尽極まりない訓練が続いた。『呪われた子供達』の再生能力の高さを逆手に取り、普通の人間であれば死ぬレベルの所業さえ受けた。

 本国の軍人ですら音を上げてもおかしくないほどの教練の数々は、しかし、ユーリャにとっては知的好奇心を満たす()()そのものであった。刃物や銃火器の取り扱い、それらを用いた人体やガストレアの破壊方法。自らのガストレア因子を使って、どこまでの無茶が効くのか。自由時間さえ与えられない毎日の中で、様々な発見と喜びを見出した。

 彼を始めとする元ベラルーシ兵達は、ユーリャ達を厳しく追い込む一方で、見捨てる事は絶対にしなかった。

 過酷な訓練に耐えられなくなり始めた者を徹底的にフォローし、立ち直らせ、再び武器を握らせる。目標を達せられた者に対しては、さながら親のように褒め称えた。

 それが第三者から見て、歪んだ光景である事は、きっと(みな)薄々気づいていたはずだ。

 生命を奪う手法を修めた人間――それも一〇歳にも満たない子供を、大の大人が寄って(たか)って賞賛する。

 誰もがその(いびつ)さに目を(つむ)った。ようやく手に入れた人との繋がりを失いたくない――誰も言語化しないだけで、『魔女部隊』の誰もがそう思っていた事だろう。

 訓練期間が終盤に差し掛かった時、IISOへの登録を求められた。公的機関の後ろ盾を得て、自分達は初めて武器を取り戦う事が許されるのだと教えられた。自分達がイニシエーターなる戦闘員となり、元ベラルーシ兵達がバディを組むプロモーターとなると。

 それを聞かされた日の内に、ユーリャは誰よりも早く彼の元を訪ねた。その日の演習を投げ出してまで。

 切羽詰まった表情で執務室に転がり込んだユーリャを、彼は普段他人に見せないような顔で出迎えた。驚きに目を丸くする彼の眉間には、いつもある皺がなく、それだけで別人のような印象を与えてくる。

 こちらに駆け寄ってくる彼の前で(ひざまづ)き、息も絶え絶えに懇願した。自分のプロモーターになってほしいと。困惑する彼に向かって、上下関係も忘れて(まく)し立てた。彼以外とペアを組むなど、自分には考えられないと。彼のためなら、自分はどこまでも強くなれると――。

 彼は苦笑いを浮かべ、後ろ髪を掻きながら、「私はもう兵士を引退した身だ」と断ったが、ユーリャはなおも食い下がった。自分の事は便利な道具程度に思ってくれて構わない。壊れたら打ち捨ててしまって構わない。だから、その時が来るまで自分を側に置いておいてほしい――。

 嗚咽(おえつ)混じりに思いの(たけ)全てを吐き出し、僅かな後悔が胸に去来した時、彼はユーリャの肩を軽く叩いた。「私で良いのか」という力ない問いかけに、ユーリャは首が千切れ飛ばんばかりに頷いた。

 彼に連れられて訓練場に戻った際には、他の兵士や『魔女部隊』の面々にひっきりなしに茶化されたのを覚えている。普段は仏頂面のマークでさえ、口許には楽しそうな笑みが浮かんでいた。

 

 

 部隊員全員が脱落する事なく訓練期間を乗り越え、『魔女部隊』と彼女らを統率する元ベラルーシ兵達は初陣(ういじん)の日を迎えた。

 ユーリャ達が派遣されたのは、ロシアとベラルーシの国境付近に位置するルドニャという街。天秤宮(リブラ)の襲撃を受けて壊滅したベラルーシからは、日々絶え間なくガストレアが雪崩(なだ)れ込み、戦線の維持は困難を極め、もはやモノリスの敷設(ふせつ)など絵に描いた餅と化していた。

 ロシア兵と隣接国からの亡命兵で構成された防衛部隊が壊滅寸前となっている中、『魔女部隊』の面々は鬼神のごとき活躍と共に戦果を挙げた。

 後退していた戦線を押し返すのみに留まらず、ステージⅣクラスのガストレア数十体を仕留め、部隊の損失はゼロ。

 数年間も停滞していたモノリス建造は、ユーリャ達が派遣されてから僅か一ヶ月で成し遂げられたのだ。

 純白の雪と真紅の血液がマーブル模様のごとくぶち撒けられた戦場――その中心で、(あで)やかな銀髪を(なび)かせ、涼やかな表情で佇むユーリャ・コチェンコヴァを見たロシア兵達は、いつしか彼女をこう呼んだ。『銀狼の魔女(セレブロ・ヴォルク・ヴェージマ)』と――。

 その呼び名は瞬く間にロシア国内へ広がり、もはや自身の因子が狼ではなくチーターであると訂正する余地さえなかった。先の(いくさ)の功績を称えられ、ユーリャはIISOから、かの二つ名と序列七七位という(くらい)を与えられた。この時から、ベラルーシ最強のイニシエーターという肩書きはユーリャのものとなった。

 ユーリャと彼のペアを旗印に、『魔女部隊』には多額の資金と最新鋭の装備が投入され、彼女らの請け負う任務はさらに熾烈(しれつ)を極める事となる。

 ロシア国内を駆けずり回り、来る日も来る日もガストレアを葬り続けた。気づけばユーリャだけでなく、部隊全員が高位序列者となり――気づけば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 激戦に次ぐ激戦の毎日の中、不運にもガストレアからの致命傷を受けたイニシエーター達は瞬く間に侵食率が五〇パーセント寸前まで上昇し、自らの相棒(プロモーター)から引導を渡され、短い人生の幕を閉じた。

 マックスも、アレクサンドルも、ミハイルも――共に戦場を駆け抜けてきた相棒の眉間に弾丸を撃ち込んだ者達は、口を揃えてこう言った。「彼女が後ろから自分を見てる。ずっと目を離してくれないんだ」と。半ばPTSDに近い状態に追い込まれながらも、取り残されたベラルーシ兵達は、ユーリャやアレンスカヤといった存命のイニシエーターのフォローに奔走(ほんそう)していた。

 唯一、誰ともペアを組まずに一人で戦う事を選択したマーク・メイエルホリドだけが、あの惨状を遠目から眺められていた。「一度でもスペツナズに所属していた(ロシアに魂を売った)自分には、故郷の同胞と組む資格はない」――それがマークの言い分だったが、おそらく彼はこうなる事を予見して、民警ライセンスを取得するのを拒否していたのかもしれない。

 次々と部隊員が戦死し、ベラルーシ兵達にも少なくない犠牲が出始めた頃には、『魔女部隊』結成から一年が経っていた。

 あの日見た光景を、ユーリャは生涯忘れる事はないだろう。

 日課のトレーニングを終えて、彼のいる部屋に戻った時だった。

 眼前に飛び込んできたのは、吐瀉物(としゃぶつ)と血に(まみ)れて床に横たわる彼の姿。絶え間なく咳き込む彼を見て、ユーリャは慟哭(どうこく)と共に駆け寄った。

 自らの手が彼の体液で汚れるのも(いと)わず()き抱えると、彼は痙攣(けいれん)する人差し指で部屋の一角を指し示した。そこにあった錠剤の瓶と注射器を、彼に言われるがままに渡すと、彼は乱雑に蓋を開けて錠剤を(あお)り、噛み砕き、針が体内で折れてしまうのではないかと心配するほどの乱暴さで静脈に薬液を注射した。

 処置を終え、しばらく待つと症状は沈静化した。彼は額にびっしりと浮かんだ脂汗を拭い、不足した酸素を求めるように深呼吸をする。恥ずべき姿を見られた――彼の伏目がちの表情は、そんな感情を如実に表していた。

 思わずユーリャは彼へ詰め寄っていた。持病があったなんて聞いていない。もし知っていれば、さすがの自分とて、前線を退(しりぞ)いた彼に再び銃を握って欲しいなどとは頼まなかった。

 彼はただ、「黙っていてすまなかった」と謝罪した。「心配をかけた。もう大丈夫だ」普段の彼と比較して、明らかに嘘が下手だった。

 この頃には彼が純然たる善人などではない事くらい、ユーリャも分かっていた。

 同じ部隊の人間を統率するため、あるいは『呪われた子供達』のような精神的に未熟な子供を意のままに動かすため。彼はあらゆる手段を用いて、人の意識を支配下に置く。時には自らさえも(あざむ)きながら、虚構と真実を織り交ぜた話法を自在に扱って、他人と状況をコントロールするのだ。それを指揮官としての適性と取るか、煽動家としての器と取るかは、人によって解釈が分かれる事だろう。

 だが、いずれにせよ、これだけは確かだ。演じる事に長けた彼が、全くと言って良いほどに焦燥を隠せていない。(ひび)割れた仮面の向こうにある本来の表情が、見たくもないのに透けて見えてしまっていた。

 ユーリャの穿(うが)つような視線を向けられ続け、さしもの彼も観念してしまったらしい。迷いと後悔がない混ぜになった相貌をこちらへ返し、「……天秤宮(リブラ)という名を聞いた事はあるか」と問いかけてきた。

 一瞬、自分の事を馬鹿にしているのかと疑いたくなった。知らない方がおかしい。胃の奥から迫り上がってきた(よど)んだ感情を強引に飲み込み、「私達の祖国を滅ぼしたゾディアック・ガストレアです」と答えた。

 一〇年前のガストレア大戦当時、当然ながら『無垢(むく)の世代』のユーリャは生まれてもいない。

 しかし自身の故郷であるベラルーシを蹂躙した天秤宮(リブラ)には、並々ならぬ憎悪がある。

 写真や映像でしか確認する事の叶わないステージⅤを、何度も画面の外から殺してやりたくなった。

 ユーリャはその発信源の曖昧な感情を、きっと自分を身籠っていた母親から受け継いだのだろうと考えている。遺伝子レベルで刻みつけられた宿敵への恨み。これまでユーリャを突き動かしてきた衝動の一部には、まず間違いなく前述の厭悪(えんお)が含まれているはずだ。

 なぜ、彼は今この場でその名を出したのだろう。

 脳裏を過ぎった疑問の答えは、すぐさま示された。「……天秤宮(リブラ)が体内で合成し、空気散布する致死性ウィルス。それは人間のみを宿主とし、空気感染のみならず皮膚からも侵入する。つまり天秤宮(リブラ)の通過した地域は、例外なく地獄絵図と化す訳だ。……たとえ奴が人類に対する暴力の一切を振るわなくとも」

 彼の詳説(しょうせつ)に耳を傾けながら、ユーリャは頭の奥から立ち昇ってくる(かい)に全身を焼き焦がされる感覚に(さいな)まれていった。――馬鹿な。そんな事あるはずがない。天秤宮(リブラ)の放つウィルスは、即死性の塊だ。(むしば)まれれば最後、数時間から数日で命を落とす。()()()()()()()()()()()()()()

「一時期、ロシア国内に一つの噂が飛び交った」嫌だ。聞きたくない。「ベラルーシ難民は、天秤宮(リブラ)の散布した()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――と」

 それは根拠なきデマだったはずだ。

 不満と不安が(あふ)れた民衆が、難民を弾圧するために(ひね)り出した大義名分でしかなかったはずだ。

 未だベラルーシを始めとする他国からの難民は下層身分でこそあるが、そういった流言飛語(りゅうげんひご)(たぐい)は政府や学者が逐一(ちくいち)潰し回っている。

 そのはずなのに――

「これは真実だ」と彼は淡々と告げた。「天秤宮(リブラ)の放つウィルスは、即効性のあるものばかりではなかった。だが、これに感染している人間はそう多くはない。現時点で感染者は()()だけだ」

 私達。

 そこに含まれている者がいったい誰なのか。そんな事は改めて説明されずとも分かってしまう。

「私を始めとする防衛隊の面々は……天秤宮(リブラ)の到達寸前まで戦い続けた。……分かってはいたんだ。ゾディアックの撒き散らすウィルスの散布状況は、絶えずモニターされていた。だから私達のいる防衛線にウィルスが迫ってきている事も、当然分かっていた」

 彼の率いる部隊は撤退命令が出てもなお、ガストレアを食い止め続けた。一人でも多くの人間を逃すために。

「本来なら、私はあの場で(つい)える定めだった」彼は遠い昔を思い起こすように、(さび)れた天井を(あお)ぎ見た。次いで瞑目(めいもく)し、「一足先に仲間を撤退させ、私は爆薬でガストレアの大群を諸共(もろとも)吹き飛ばすつもりでいた」と言った。おそらく彼の(まぶた)の裏には、当時の戦場が鮮明に映し出されているのだろう。「だが運命は私を生き延びさせた。ロシアからの援軍が――マークの救援が間に合ったんだ」

 ユーリャはもう何も言えなかった。

 元々自らを犠牲にするつもりだった彼が、何の因果か生き残ってしまった。その身に多大なる代償を刻みつけたまま――。

天秤宮(リブラ)の遅効性ウィルスは他者への感染こそしない代わりに、感染者の体を確実に(むしば)んでゆく。私の体内には(のが)()破滅(はめつ)病巣(びょうそう)が根を張り続けている。私の命は――もう長くはない」

 何で――思わず疑問が口を突いて出ていた。

 せっかく再会できたのに。恩人と共に生きていけると思ったのに。この返し切れぬ恩義を一生涯かけてでも返していこうと心に決めていたのに!

「…………」どうして運命は自分達を嘲笑(あざわら)うように翻弄(ほんろう)するのだろう。ようやく掴み取れた一筋の光さえ、顔も見えぬ誰かは、あっけなく奪い去っていく。それに(あらが)う力のない自分が、これ以上なく歯痒(はがゆ)い。

「今、この事実を知っているのは私とマーク、そしてユーリャ――お前だけだ」彼の真っ直ぐな瞳が、ユーリャの相貌を鷲掴みするかのごとく捉えてくる。「……本当はお前達を……『魔女部隊』の者達は巻き込むつもりはなかったのだが」と前置きしてから、「こうなっては仕方ない。全て話そう」と続けた。「私達の目的は軍人としてロシアに仕え続ける事ではない。戦果を挙げてロシア政府の信用を得るのは、あくまで手段に過ぎない。私達は政府の中枢に潜り込み、ある情報を探り続けていた」

「情報……?」と茫然(ぼうぜん)とした面持ちで反芻(はんすう)すると、彼は小さく頷いた。

天秤宮(リブラ)襲撃の真相。それこそが私達が追い求め続けたものだ」

 喉が干上がった。彼はいったい何を言っている? ステージⅤの来襲の真相? その言い方だとまるで――。

「そうだ」と彼はユーリャの内心を見透かしたように首肯した。「ベラルーシで起きた天秤宮(リブラ)の侵攻は偶然などではない。()()()()()()()()()()()()()。『七星(ななほし)遺産(いさん)』と呼ばれる触媒を用いて、人為的にステージⅤを呼び起こした黒幕がいる」

 常識が揺らぎ、崩れ去っていく。世界を壊した災厄の具現化であるゾディアック。それを悪意と共に操った人間がいるという事実に、頭がおかしくなりそうだった。

「ベラルーシはあくまで通過点。ゾディアックによる大絶滅を狙っていたのは、その先のロシアだ。個人――あるいは組織か。いずれにせよ下手人の特定にまでは至っていないが、どこの国の差し金かは分かっている。ロシアの政府高官から、この情報を引き出すのにずいぶんと骨を折った。本当に厄介極まりなかった。これだけの所業を受けてもなお、ロシアは報復措置を取る気がなかったのだからな」

 ロシアの軍事力を背景にした他国への強硬手段は、ユーリャも何度も見てきた。そのロシアが自国を滅ぼそうとした国に対して、足踏みしているというのか。

「この国を踏み留まらせるほどの何かを持つ国……いったいどこが……」と彼を見やる。

「簡単さ。ガストレアに蹂躙された世界において、唯一奴らに対抗できる物質があるだろう」

 バラニウム。ガストレアの忌避(きひ)する磁場を発する金属。

()()()()()()()()()()()()()()()()。当然、ロシアも多量の資源を輸入している。モノリス建造に使われたバラニウムも、ほとんどが、かの国から輸入されたものだ」

「まさかッ……」と返すと、彼は深く首を振った。

「私は近々()()に渡る。そこで(さら)なる情報を探り、真相を確かめるつもりだ。討つべき(かたき)の正体を掴み次第、攻勢に出る。……ユーリャ、私を手伝ってくれるか?」

 値踏みするような彼の視線が、じっとりとユーリャの相貌に纏わりつく。

 彼がやろうとしているのは紛う事なき復讐だ。それも後戻りのできない片道切符の――。

 彼に追従するという事は、つまりロシア軍から離反する事を示している。

 幼いユーリャにも、これが何を意味するかは理解できる。要するに今の生活を捨てる。ロシア軍の後ろ盾も、IISOの後ろ盾も――全てを投げ捨てて、放浪(ほうろう)の身となるのだ。

 暖かい寝床もない、まともな食事にもありつけない、侵食抑制剤の調達もままならない――なまじ聡明なユーリャは、その選択のあとに起き得る可能性をいくつも思い浮かべる事ができてしまった。

 彼は少しの間を置いてから(まぶた)を閉じると、「……すまない。急過ぎたな」と顔を逸らした。「すぐにとは言わないが――」

「――私はあなたの道具です。()()」ユーリャははっきりと断じた。「私の人生は、大尉に命を救われたその時から、私自身のものではありません。私の全てはあなたの所有物です。――たとえ、あなたがそれを望まなくとも」

「……ユーリャ」

「これからも、あなたの隣に並び立つ事をお許しください。この命ある限り、どこまでもお供いたします」

 

 

 走馬灯のごとく脳裏に浮かんだいつかの思い出は、目を開けて現実と相対すると同時に、泡沫(うたかた)のように霧散(むさん)していく。

 人工的に温度調整された空気は、酷く冷たく自身の皮膚を突き刺してくる。呼吸する度、肺の内側に(しも)が張りつく錯覚に(さいな)まれる。

「……あなたはこう言ってくれましたよね。私の事を『きっと強くて、いつも正しい選択ができる』と。でも、やはり私の解答は変わりません。そんな事はないのですよ。それができるのであれば、きっと、こうして私とあなたが対峙する事はなかったのですから」

 ユーリャのアイスブルーの瞳から発せられる、怜悧(れいり)な眼光。それを真正面から突きつけられた()()は、今何を思っているのだろう。おそらく想像するのは容易(たやすい)いが、心の奥底に渦巻く感情が、そうする事を固く拒んでいた。

 自らの全てを投げ出してでも隣にいたいと願った男の(かたわ)らで、ユーリャ・コチェンコヴァは静かに告げる。「――私からは、こうも言いましたよね。『もう会わない方が、おそらく双方にとって幸せ』だと。この邂逅(かいこう)は、あなたにとって幸か不幸か、どちらに(あたい)しますか? ――延珠」

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