ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
――ユーリャ・コチェンコヴァにとって、その思い出は暖かい食卓を囲んでいた時間と共にあった。
簡素なパンとスープのセットは、当時のユーリャにとって贅沢の限りを尽くしたご馳走そのものだった。
周りには自分と同じように、死の瀬戸際から救い出された『子供達』が大勢おり、それぞれ思い思いに食事を口に運んでいる。
そんな中で、彼らは自分達を慈愛に満ちた視線で眺めていた。
滅亡したベラルーシから亡命してきた元軍人達――マックス、アレクサンドル、ミハイル、そしてマーク・メイエルホリドがいて――。名前まで知らなくとも、顔見知りの者達も何人もいる。その中心に、かつて自分を見つけてくれた男がいた。
しばらくの
歓声が上がった。隣にいたエヴドキヤ・アレンスカヤも、向かいの席にいたスサンナ・マルキドノフも――。皆が皆、
「君達はこれまで『魔女の
会場のボルテージは限界まで上昇していた。大戦後の資源不足によって、まともに暖房器具さえ使えない極寒の季節にも関わらず、底冷えする基地内の一角には、サウナのような熱気が溢れていた。
周りほど狂乱に溺れてはいなかったユーリャ自身も、胸の内がじんわりと温かくなっているのを感じていた。
自分の人生が変わる。ただ虐げられ続けるだけの、ちっぽけな生涯はここで幕を閉じる。
そう確信させるだけの説得力が、彼の言葉には宿っていた。
それからの日々は、少なくともユーリャにとってはこれ以上ないほど充実したものとなった。
短期間で実戦に投入できるだけの実力をつけさせるため、部隊員の養成は度を逸した苛烈さを極めた。
本国の軍人ですら音を上げてもおかしくないほどの教練の数々は、しかし、ユーリャにとっては知的好奇心を満たす
彼を始めとする元ベラルーシ兵達は、ユーリャ達を厳しく追い込む一方で、見捨てる事は絶対にしなかった。
過酷な訓練に耐えられなくなり始めた者を徹底的にフォローし、立ち直らせ、再び武器を握らせる。目標を達せられた者に対しては、さながら親のように褒め称えた。
それが第三者から見て、歪んだ光景である事は、きっと
生命を奪う手法を修めた人間――それも一〇歳にも満たない子供を、大の大人が寄って
誰もがその
訓練期間が終盤に差し掛かった時、IISOへの登録を求められた。公的機関の後ろ盾を得て、自分達は初めて武器を取り戦う事が許されるのだと教えられた。自分達がイニシエーターなる戦闘員となり、元ベラルーシ兵達がバディを組むプロモーターとなると。
それを聞かされた日の内に、ユーリャは誰よりも早く彼の元を訪ねた。その日の演習を投げ出してまで。
切羽詰まった表情で執務室に転がり込んだユーリャを、彼は普段他人に見せないような顔で出迎えた。驚きに目を丸くする彼の眉間には、いつもある皺がなく、それだけで別人のような印象を与えてくる。
こちらに駆け寄ってくる彼の前で
彼は苦笑いを浮かべ、後ろ髪を掻きながら、「私はもう兵士を引退した身だ」と断ったが、ユーリャはなおも食い下がった。自分の事は便利な道具程度に思ってくれて構わない。壊れたら打ち捨ててしまって構わない。だから、その時が来るまで自分を側に置いておいてほしい――。
彼に連れられて訓練場に戻った際には、他の兵士や『魔女部隊』の面々にひっきりなしに茶化されたのを覚えている。普段は仏頂面のマークでさえ、口許には楽しそうな笑みが浮かんでいた。
部隊員全員が脱落する事なく訓練期間を乗り越え、『魔女部隊』と彼女らを統率する元ベラルーシ兵達は
ユーリャ達が派遣されたのは、ロシアとベラルーシの国境付近に位置するルドニャという街。
ロシア兵と隣接国からの亡命兵で構成された防衛部隊が壊滅寸前となっている中、『魔女部隊』の面々は鬼神のごとき活躍と共に戦果を挙げた。
後退していた戦線を押し返すのみに留まらず、ステージⅣクラスのガストレア数十体を仕留め、部隊の損失はゼロ。
数年間も停滞していたモノリス建造は、ユーリャ達が派遣されてから僅か一ヶ月で成し遂げられたのだ。
純白の雪と真紅の血液がマーブル模様のごとくぶち撒けられた戦場――その中心で、
その呼び名は瞬く間にロシア国内へ広がり、もはや自身の因子が狼ではなくチーターであると訂正する余地さえなかった。先の
ユーリャと彼のペアを旗印に、『魔女部隊』には多額の資金と最新鋭の装備が投入され、彼女らの請け負う任務はさらに
ロシア国内を駆けずり回り、来る日も来る日もガストレアを葬り続けた。気づけばユーリャだけでなく、部隊全員が高位序列者となり――気づけば、
激戦に次ぐ激戦の毎日の中、不運にもガストレアからの致命傷を受けたイニシエーター達は瞬く間に侵食率が五〇パーセント寸前まで上昇し、
マックスも、アレクサンドルも、ミハイルも――共に戦場を駆け抜けてきた相棒の眉間に弾丸を撃ち込んだ者達は、口を揃えてこう言った。「彼女が後ろから自分を見てる。ずっと目を離してくれないんだ」と。半ばPTSDに近い状態に追い込まれながらも、取り残されたベラルーシ兵達は、ユーリャやアレンスカヤといった存命のイニシエーターのフォローに
唯一、誰ともペアを組まずに一人で戦う事を選択したマーク・メイエルホリドだけが、あの惨状を遠目から眺められていた。「一度でも
次々と部隊員が戦死し、ベラルーシ兵達にも少なくない犠牲が出始めた頃には、『魔女部隊』結成から一年が経っていた。
あの日見た光景を、ユーリャは生涯忘れる事はないだろう。
日課のトレーニングを終えて、彼のいる部屋に戻った時だった。
眼前に飛び込んできたのは、
自らの手が彼の体液で汚れるのも
処置を終え、しばらく待つと症状は沈静化した。彼は額にびっしりと浮かんだ脂汗を拭い、不足した酸素を求めるように深呼吸をする。恥ずべき姿を見られた――彼の伏目がちの表情は、そんな感情を如実に表していた。
思わずユーリャは彼へ詰め寄っていた。持病があったなんて聞いていない。もし知っていれば、さすがの自分とて、前線を
彼はただ、「黙っていてすまなかった」と謝罪した。「心配をかけた。もう大丈夫だ」普段の彼と比較して、明らかに嘘が下手だった。
この頃には彼が純然たる善人などではない事くらい、ユーリャも分かっていた。
同じ部隊の人間を統率するため、あるいは『呪われた子供達』のような精神的に未熟な子供を意のままに動かすため。彼はあらゆる手段を用いて、人の意識を支配下に置く。時には自らさえも
だが、いずれにせよ、これだけは確かだ。演じる事に長けた彼が、全くと言って良いほどに焦燥を隠せていない。
ユーリャの
一瞬、自分の事を馬鹿にしているのかと疑いたくなった。知らない方がおかしい。胃の奥から迫り上がってきた
一〇年前のガストレア大戦当時、当然ながら『
しかし自身の故郷であるベラルーシを蹂躙した
写真や映像でしか確認する事の叶わないステージⅤを、何度も画面の外から殺してやりたくなった。
ユーリャはその発信源の曖昧な感情を、きっと自分を身籠っていた母親から受け継いだのだろうと考えている。遺伝子レベルで刻みつけられた宿敵への恨み。これまでユーリャを突き動かしてきた衝動の一部には、まず間違いなく前述の
なぜ、彼は今この場でその名を出したのだろう。
脳裏を過ぎった疑問の答えは、すぐさま示された。「……
彼の
「一時期、ロシア国内に一つの噂が飛び交った」嫌だ。聞きたくない。「ベラルーシ難民は、
それは根拠なきデマだったはずだ。
不満と不安が
未だベラルーシを始めとする他国からの難民は下層身分でこそあるが、そういった
そのはずなのに――
「これは真実だ」と彼は淡々と告げた。「
私達。
そこに含まれている者がいったい誰なのか。そんな事は改めて説明されずとも分かってしまう。
「私を始めとする防衛隊の面々は……
彼の率いる部隊は撤退命令が出てもなお、ガストレアを食い止め続けた。一人でも多くの人間を逃すために。
「本来なら、私はあの場で
ユーリャはもう何も言えなかった。
元々自らを犠牲にするつもりだった彼が、何の因果か生き残ってしまった。その身に多大なる代償を刻みつけたまま――。
「
何で――思わず疑問が口を突いて出ていた。
せっかく再会できたのに。恩人と共に生きていけると思ったのに。この返し切れぬ恩義を一生涯かけてでも返していこうと心に決めていたのに!
「…………」どうして運命は自分達を
「今、この事実を知っているのは私とマーク、そしてユーリャ――お前だけだ」彼の真っ直ぐな瞳が、ユーリャの相貌を鷲掴みするかのごとく捉えてくる。「……本当はお前達を……『魔女部隊』の者達は巻き込むつもりはなかったのだが」と前置きしてから、「こうなっては仕方ない。全て話そう」と続けた。「私達の目的は軍人としてロシアに仕え続ける事ではない。戦果を挙げてロシア政府の信用を得るのは、あくまで手段に過ぎない。私達は政府の中枢に潜り込み、ある情報を探り続けていた」
「情報……?」と
「
喉が干上がった。彼はいったい何を言っている? ステージⅤの来襲の真相? その言い方だとまるで――。
「そうだ」と彼はユーリャの内心を見透かしたように首肯した。「ベラルーシで起きた
常識が揺らぎ、崩れ去っていく。世界を壊した災厄の具現化であるゾディアック。それを悪意と共に操った人間がいるという事実に、頭がおかしくなりそうだった。
「ベラルーシはあくまで通過点。ゾディアックによる大絶滅を狙っていたのは、その先のロシアだ。個人――あるいは組織か。いずれにせよ下手人の特定にまでは至っていないが、どこの国の差し金かは分かっている。ロシアの政府高官から、この情報を引き出すのにずいぶんと骨を折った。本当に厄介極まりなかった。これだけの所業を受けてもなお、ロシアは報復措置を取る気がなかったのだからな」
ロシアの軍事力を背景にした他国への強硬手段は、ユーリャも何度も見てきた。そのロシアが自国を滅ぼそうとした国に対して、足踏みしているというのか。
「この国を踏み留まらせるほどの何かを持つ国……いったいどこが……」と彼を見やる。
「簡単さ。ガストレアに蹂躙された世界において、唯一奴らに対抗できる物質があるだろう」
バラニウム。ガストレアの
「
「まさかッ……」と返すと、彼は深く首を振った。
「私は近々
値踏みするような彼の視線が、じっとりとユーリャの相貌に纏わりつく。
彼がやろうとしているのは紛う事なき復讐だ。それも後戻りのできない片道切符の――。
彼に追従するという事は、つまりロシア軍から離反する事を示している。
幼いユーリャにも、これが何を意味するかは理解できる。要するに今の生活を捨てる。ロシア軍の後ろ盾も、IISOの後ろ盾も――全てを投げ捨てて、
暖かい寝床もない、まともな食事にもありつけない、侵食抑制剤の調達もままならない――なまじ聡明なユーリャは、その選択のあとに起き得る可能性をいくつも思い浮かべる事ができてしまった。
彼は少しの間を置いてから
「――私はあなたの道具です。
「……ユーリャ」
「これからも、あなたの隣に並び立つ事をお許しください。この命ある限り、どこまでもお供いたします」
走馬灯のごとく脳裏に浮かんだいつかの思い出は、目を開けて現実と相対すると同時に、
人工的に温度調整された空気は、酷く冷たく自身の皮膚を突き刺してくる。呼吸する度、肺の内側に
「……あなたはこう言ってくれましたよね。私の事を『きっと強くて、いつも正しい選択ができる』と。でも、やはり私の解答は変わりません。そんな事はないのですよ。それができるのであれば、きっと、こうして私とあなたが対峙する事はなかったのですから」
ユーリャのアイスブルーの瞳から発せられる、
自らの全てを投げ出してでも隣にいたいと願った男の