「――彼女は千寿夏世。今日から将監、君のイニシエーターになる子だ」経営者特有の自信に満ち溢れた笑顔と共に、自らの雇い主は、隣に佇む少女を紹介してきた。クリスチャン・ディオールのスーツに全身を包む三ヶ島影似は、「ふふ。いやあ、めでたいね」と含み笑いと併せて言う。「これで晴れて将監も民警の仲間入りだ。これからよろしく頼むよ」
「待ってくれよ三ヶ島さんッ。聞いちゃいたが本当にただのガキじゃねえかッ」
晴れやかな態度の三ヶ島とは対照的に、将監の表情はどこまでも懐疑的だった。
民警ライセンスを取得した自分と共に戦う、イニシエーターなる少女。
彼女達が『呪われた子供達』の中から選出される事は、当然将監も知っていた。ガストレア大戦終結から、ほどなくして、その存在を認知され始めたガストレア因子の申し子――。彼女らの戦闘能力を含む潜在的価値に気づいた大人達は、これまでの悪辣極まる差別的言動などどこ吹く風で、こぞって彼女達を囲い込み始めた。
国際イニシエーター監督機構の設立と共に、民間警備会社の在り方も大きく変容した。
IISOの発行する民警ライセンスを取得した者だけが、公に武装する事を許可され、それまでグレーゾーンにいたならず者達が根こそぎ淘汰されていった。
ライセンス所持者には、IISOに登録された『呪われた子供達』が一人あてがわれ、プロモーターとして彼女達を補佐監督する義務を課される。この仕組みによって、ガストレアと戦うのはイニシエーターの役目であり、人間は後方支援に徹するべきだとの考えが生まれたのだ。
――こんなションベン臭えクソガキが……。
――俺の居場所を奪いやがったってのか……?
将監の内に湧き上がってきたのは、怒りよりも、どうしようもない疑念だった。
三ヶ島から聞かされていた年齢は八歳だったか。普通に義務教育を受けていれば、小学二年生か三年生くらいだろう。世の中の事など何も知る由のない単なる子供だ、本来なら――。
少女の汚泥のように澱み切った視線を受け、思わず将監は生唾を飲み込んでいた。年端もいかない幼児に気圧された――その事実に一瞬遅れて気がつき、胸がざわついた。
地味目な長袖のワンピースにレギンスを合わせた出で立ちの少女――千寿夏世は、編み込みが特徴的なセミロングの髪をふわりと揺らし、「……よろしくお願いします。伊熊将監さん」とお辞儀をした。
「…………っ」
「すでにIISOから連絡は行ってると思うが」と三ヶ島は去り際に将監の肩を叩いて言った。「毎日の侵食抑制剤の投与は忘れないようにね。相棒の体調管理もプロモーターの仕事の内だよ」
「三ヶ島さッ……」
「私も咲良が待っているからね、そろそろ行かせてもらうよ。はは、これから忙しくなるよ。三ヶ島ロイヤルガーダーを東京エリア――いや、日本随一の民間警備会社に成長させないといけないからね。また現場で会おう、将監」
意気揚々と事務所を出て行く三ヶ島の背中を、将監は呆然と眺め続ける事しかできなかった。
傍らには何を考えているかも分からない子供。それの世話を任されたのは、単なるゴロツキでしかない自分。これからの見通しの立たなさに、思わず頭を抱えたくなっていた。
その日の夜は、冷たい雨が激しく降っていたのを覚えている。
末端の神経一本一本まで冷やし尽くす冷気を感じながら、将監は眼前に広がる光景を傍観していた。
すぐ側にモノリスが屹立する外周区最奥。文明の残骸だけが散乱する廃墟区画には、錆びて朽ちた建材と、腐った泥の臭いが充満している。それらが降りしきる雨によって混ざり合い、さらには付近に散らばる生物の死骸から発せられる死臭も相まって、脳髄を直接突き刺してくるような悪臭と化していた。
「……夏世」
凄惨極まる現場の中心で蹲る少女の元へ、将監はふらふらと近づいていく。
夏世の目の前には、すでに事切れた死体が横たわっていた。流血もしておらず、亡骸は比較的綺麗なままである。死臭はこれではなく、夏世を取り囲むようにして雑然と四散するガストレアの肉片から立ち昇っていた。
「……お前が殺ったのか?」分かり切った事を改めて訊こうとする自分に嫌気が差す。その死因が人の手以外によるものでない事は、誰の目から見ても明らかだったのに――。
首に締め跡が残る人間の成れの果て。
これ以上ない殺人の状況証拠を前に、将監の思考はショート寸前だった。
「私が……殺しました」と夏世は素直に認めた。彼女の衣服には、ところどころに破れた跡があり、両肩に至ってはワンピースがずり下ろされて完全に露出してしまっている。「……民警ライセンスを取れなかった元民警だったようです。私に先を越された事に逆上して、『お前達さえいけなければ』って……そのまま……」
悍ましい記憶を呼び起こしたように、声が震え、自らの体を掻き抱く。
「……IISOに登録して……イニシエーターとして戦って、世の中の役に立てば何かが変わると思っていました。この身に巣食ったガストレア因子と折り合いをつけて生きていけるんじゃないかって……」
「…………」
「そんな訳なかったんです。私達はどこまで行っても忌み嫌われる『呪われた子供達』でしかないんですッ……!」
絞り出すような苦痛の吐露に、推し量る事さえ烏滸がましい重さがあるのを将監は知っていた。夏世とペアを組んでから、幾度となく目の当たりにしてきた。人々の――『奪われた世代』のガストレアへの憎しみを。それが自分達に危害を加えるガストレアそのものではなく、ウィルス保菌者でしかない少女達へ差し向けられるのを。
「将監さんは……」おもむろに少女は切り出す。「私達の事を『戦闘職のシェアを奪ったいけすかない子供』だと邪険にしても、『赤目』だからという理由で迫害はしませんでしたよね? ずっと訊きたかったんです……。私達の事が――ガストレアの事が憎くないのですか……?」
「……お前達とガストレアは別もんだろうが」
「どうして、そう思えるんですか? あの化け物達も、私達も……根底にあるのは同じウィルスです。人々の記憶の奥底にトラウマとして刻みつけられた、赤い目を持っています。なのに……」
「テメエらがどう思ってようが、俺にはお前らがただの乳臭えガキにしか見えねえんだよ。周りと比べて自分は違うってメソメソしてるだけの……ただの陰気なクソガキだ」
口にしながらも、そんなはずはない事くらい、さすがの将監とて理解している。
世界を壊し尽くした異形と同じ性質をその身に宿す――その苦悩は、決して凡人の抱えるそれとは似ても似つかない。
その事を分かった上で、将監は迷いなく口にした。「夏世。お前の抱えてるもんは何も特別なんかじゃねえ。人間なら誰しも抱えてる恥ずかしくてくだらねえ闇の一つだ。そんなもんで自分を押し潰すんじゃねえ」
夏世の隣に立った将監は、右手に携えた大剣をおもむろに持ち上げる。「……何を」と訝しげにこちらを見上げた夏世を無視して、質量の塊を無造作に振り下ろした。
黒い段平は寸分違わず死体の首にめり込み、硬直した細胞をあっけなく両断した。切り離された頭部が夏世から逃げ出すように転がり、泥に塗れて最期の表情が覆い隠されていく。歪な切り口からは、粘質な血液が、なくなりかけの絵の具のようにひり出された。
斬首死体と化したクソ野郎には、もう絞首の痕跡など微塵も見られなくなっている。
頭上に疑問符を浮かべたままの夏世の側にしゃがみ込み、左手で小さな頭を鷲掴みすると、今しがた作り出した光景を無理矢理凝視させる。
「こいつは俺が殺した」
「何を言って……?」
「夏世、テメエの両手はまだ汚れてねえ。俺が今そう決めた」
「……詭弁です」
「都合の悪い事は全部俺に押しつけろって言ったんだよ」将監は構わず吐き捨てる。「俺の命令に従った事にしたって良い。お前はイニシエーターとして――プロモーターの道具として本来の役目を果たしただけ。それで良いじゃねえか」
「…………」
「この世界が生き辛いってんなら、黙って俺に着いてこい。戦う事の愉しさを教えてやる。腕っぷししかねえ俺達が……唯一幸福を感じられる生き方だ。そいつを知れば、ガストレアも俺達を虐げる連中も――何も区別なんかしなくて良くなる」
世界は『異物』である自分達を排除しようとする。
生まれながらにして『当たり前』を持っている連中だけが幅を利かせ、持たざる者の方など見向きもしない。
「だから快楽だけに身を委ねろ。これから先、似たような事が起きたとしても、そこにお前の責任はねえ。俺の命令が全てだ」それが彼女にとって本質的な救いにならない事は、百も承知だった。だが、自分が彼女に渡せるものは、これくらいしかない。それをどうしようもなく自覚した上で、将監は躊躇わずに言った。「正しいのは――俺達だ」
二日酔いが治ったような感覚に近かった。安っぽい例えだと揶揄されようとも、今の将監には自身の状態を自分の知っている言葉でしか形容しようがない。
止まなかった痛みは痕跡すら残さず消え去り、徐々に思考回路が透明になっていくのを感じる。ちゃんと自分の意思に合わせて四肢が動く。久しく忘れていた感覚が、自らのものとして取り戻されていく。
首筋に刺さっていた注射器の針が抜け、空の容器が地面へ落ち、乾いた音を立てて割れた。
ずるりと――力なく崩れ落ちた三ヶ島の背中を受け止める。
「……俺なんかのために、何でこんなところまで来たんですか。三ヶ島さん……」
「友人を助けるのに理由がいるかい……? まあ、しいて言うなら夏世に報いるためかな……」
そう言って意識を失った三ヶ島を丁寧に地面へと横たわらせ、将監は周囲を見渡した。
世界の見え方は変わっていなかった。だが自分の中にあったフィルターが綺麗さっぱりなくなった事で、知覚の仕方が一八〇度変わっていた。
今なら分かる。
冒し続けてきた間違い。
その輪郭までもが鮮明に把握できる。
自分が千寿夏世として扱い続けてきた少女を見つめる。
「……悪かったな」無意識に口を突いて出た言葉は、自分でも驚くほどに穏やかな声色をしていた。