「嘘だ……」そう呟く延珠の唇は、小刻みに震えていた。「何で……お主が……!?」
「気づく機会はあったと思いますが」対してアイスブルーの瞳を湛える少女には一切の動揺が見られない。「思い出してください。私達が最初に出会った場所。洋上刑務所の付近に私がいた事。そしてその日の内に脱獄騒動が起きた事。私と大尉が同じ人種である事も、名前の法則性から分かるはずです。――延珠。あなたは聡い。きっと一つ一つの点を繋げて答えを導き出す事は可能でした。……これは私の推測ですが、無意識に考えないようにしていたのではないですか? その可能性を――」
曇天のごとく濁っていく相棒の表情を見やりながら、蓮太郎は思い切り奥歯を噛み締めていた。想定していなかった事態に、沸々と焦燥が湧き上がってくる。「――リトヴィンツェフッ!」と激昂と共に、敵対者を睨みつける。
ユーリャ・コチェンコヴァのプロモーターであるアンドレイ・リトヴィンツェフは、口許に愉悦を滲ませ、「言いがかりはよせ」と大仰に両腕を広げた。彼の身に纏う白いロングコートがバサリとはためく。「ユーリャとそこのお嬢さんの邂逅は単なる偶然だ。私の脱獄計画の下見に来たユーリャと、お前の事が心配で刑務所の近くに来ていたお嬢さん――そこに特別な因果関係など存在しない」
「貴様の言葉には信じるに足る根拠がないッ!」
「何とでも言うが良い」リトヴィンツェフは涼しい顔で、平行線な会話を打ち切った。
固く張り詰めた空気は、嫌に冷え込んでいる。半球型をしたドーム状の空間は、リカルドとマークが激突しているコンテナ倉庫よりも、明らかに温度が低い。どこからか吹き込んでくる風が、首筋の毛をぞわりと撫で上げる。
「……そこにあるのが、『スコーピオンの首』か」
「いかにも」
蓮太郎の視線の先――リトヴィンツェフの背後には、全面ガラス張り(もしかしたらアクリル板かもしれない)の円筒形をした保存容器が鎮座している。円の直径は目算で二メートルほど、そして高さは五メートルを優に超えている。容器の中は薄緑色の保存液で満たされており、その中心にはズタズタになった一塊の肉片が妖しく漂っている。
肉の断面からは血管とも神経ともつかない細い繊維状のパーツが幾重にも伸びており、それが液体の中で揺らめいているのを見ていると、今にも意思を持って動き出しそうな錯覚に襲われる。
生唾を飲み込み、延珠の視線を遮るように前へと躍り出る。「……『ソロモンの指輪』はどこにある?」と口では質問を投げかけながら、悟られぬように周囲を見回して情報を収集する。
肉片――『スコーピオンの首』が収まる透明な円筒の下部には、無数の金属製パイプが放射状に接続されており、その全てが数メートル伸びたのちに床面に埋没している。保存液の循環装置――だけではないだろう。この中のどれかが、おそらく『指輪』に繋がっているはずだ。
――この異常なまでの空調は、機器と肉塊の冷却のため……。
――近くに『指輪』があるのは間違いない……!
「おおかた、当たりはついているだろう?」リトヴィンツェフは苦笑する。「お前の望むものは、全てここにある。戦況はシンプルだ。お前達がここで私達を破れば、東京エリアは延命される。私達がお前達を破れば、その先にあるのは滅亡だ。どうだ? 分かりやすいだろう」
「……ッ、舐めてんのか?」
「クライマックスに相応しい舞台を演出してやっただけさ」
悠然と語るリトヴィンツェフ。洋上刑務所の時と同じだ。知らない内に会話の主導権を握られている。追い込まれているのは彼も同じだというのに、こちらにだけ一方的に心理的不安を押しつけてくるような――。
奴と言葉を交わすべきではない。本能がそう警告する。いずれにせよ、こうやって時間を稼がれては奴の思う壺だ。仲間の助けを借りてここまで来た理由を思い出せ。この力をもってして、アンドレイ・リトヴィンツェフの野望を打ち砕くためではなかったのか。
「そろそろお喋りの時間は終わりか?」リトヴィンツェフの方も、蓮太郎の発する空気が変わった事に気づいたようだ。こちらへ目線は固定したまま、円筒形容器に立てかけてあった黒い物体に手を伸ばす。
――あれは……!?
リトヴィンツェフが手に取ったのは、柄までバラニウムで作られたスレッジハンマーだった。一目見て武器として作成されたと分かるほどの容貌。一メートル強の持ち手に、五キロはありそうな鉄塊の打撃部分とで構成されている。
「ずいぶんと前時代的な得物だな」
「だが合理的だ」人の手で扱うには、明らかに重量の過ぎる金属の塊を軽く弄びながら、「銃弾……刃物……今まで色々と試したが、やはり狭い殺傷範囲しか持たない物は、実力者相手には通りが悪い」と言う。「その点、これは良い。遠心力と重さを掛け合わせた『衝撃』は、誰にでも通る。ガストレアの外皮を砕き割り、イニシエーターの体内を破壊し、人間の体全てを粉砕できる。……あの時も、これさえあればお前達から逃げおおせる事ができただろう」
「戯言だ」
「なら試してみるとしよう」
その一言を皮切りに、押し黙っていたユーリャ・コチェンコヴァが静かに動く。彼女の両手には鉤爪状の暗器、虎の爪が装着されている。こちらは事前にリカルドから聞かされていた通りだ。軽量さと取り回しの良さを両立し、チーターの因子を持つ彼女の戦闘スタイルに合致した武器。占部里津は、これに腹を裂かれて殺害された。
「構えてください、延珠。私達は敵同士。今さらこの事実は変えられません」
「何でッ……お主のプロモーターは良い奴ではなかったのかッ!? こんなの……真逆ではないか! たくさんの人を殺そうとしている奴の何が……――」
「それは延珠――あなたにとってでしょう?」
「……っ!?」
「誰かにとっての良い悪いは多分に主観的な視点を含みます。確かに、あなたや、あなたのプロモーターからすれば大尉は悪い人なのでしょう。ですが、私にとっては地獄の底から救い上げてくれた恩人です。これを良い人と言わず何と言うのですか?」
「でもッ、でもッ……」と延珠は両目に涙を滲ませて、かぶりを振る。反論したいという意思に反して、思考が追いついていない。そんな様子だった。
「……耳を貸すな、延珠」蓮太郎は遮るように言う。「お前とユーリャの間に何があったのかは知らない。けど、こいつらを野放しにしていたら東京エリアが滅亡する事だけは確かだ」
「そんな……」
「ユーリャと戦うのが嫌なら、援護に徹してくれ。俺が二人共倒す」
腰を落とし、攻防一体の『百載無窮の構え』を取る。さらに義眼を解放。内蔵されたグラフェン・トランジスタ仕様のナノコアプロセッサが起動する。眼球の虹彩が人間離れした紋様へと変貌していく。幾何学模様が浮かび上がり、歯車のように回転――視界に映る景色がコマ送りのごとく圧縮されていく。
相手は元七七位の民警ペア。これまで対峙したどの相手よりも序列は上。蛭子影胤と蛭子小比奈よりも。あるいはティナ・スプラウトよりも――。
緊張で口腔が乾いていくのを感じながらも、蓮太郎は自らを奮い立たせて喉の奥から宣言を絞り出す。「――名乗ってやるよリトヴィンツェフ。IP序列二一〇位。元陸上自衛隊東部方面第七八七機械化特殊部隊『新人類創造計画』――里見蓮太郎」
「はは。嬉しいじゃないか。序列を剥奪された元民警にも敬意を払ってくれるとはな」何の感慨もない声色で、リトヴィンツェフは軽口を叩く。手にしたスレッジハンマーを肩で担ぎ上げ、「――なら私達も名乗ろう」と告げる。「序列元七七位。最後の所属はロシア軍第二三六独立特殊任務旅団――通称『魔女部隊直属補佐旅団』。アンドレイ・リトヴィンツェフ」
「同じく元七七位。ユーリャ・コチェンコヴァ」
元高位序列者達が臨戦体勢を取る。蓮太郎や影胤、ティナと違い、何一つとして後づけの力に頼る事なく極致へと登り詰めた猛者。その実力は計り知れない。
全力で潰す。出し惜しみはなしだ。
義肢に仕込んだカートリッジが、けたたましい炸裂音を打ち鳴らす。