ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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 喉の奥から濃密な(さび)の臭いが込み上げてくる。無理矢理飲み込もうとしても、嚥下(えんげ)するための筋肉が不自然に痙攣(けいれん)するせいで吐き気に抗えない。激痛と共に咳き込み、血の(かたまり)を地面へぶち()けた。

 ずるりと――傷口からナイフが抜き取られる。(せん)の抜かれた裂傷から、(せき)を切ったように血が溢れ出した。先ほどまでの(たた)()けるような緊張によってバクバクと脈打(みゃくう)っていた鼓動(こどう)は、今や心臓の持ち主ですら、まともに聞き取れなくなるほど弱っていた。

(いや)あああああああッッ! リカルド! リカルドッ――!!」遠くなっていく耳にも、里緒(りお)の引き裂くような悲鳴ははっきりと聞こえた。覆しようのない絶望に叩きのめされた人間にしか発せられない慟哭(どうこく)。それが自分へ向けて放たれている事実に、リカルドは全てを理解する。

 ――俺……死ぬ、のか……?

 (かす)む視界。ぼんやりした聴覚。明滅(めいめつ)する意識――。今、自分を(さいな)んでいる感覚こそ、魂が器から抜け出しかけている何よりの証左(しょうさ)だった。

 血振(ちぶ)りして(やいば)にこびりついた血を落としたマーク・メイエルホリドは、何の感慨(かんがい)もない声色で、「お前のロスタイムはここで終わった」と告げた。「そこで見ていろ。そして噛み締めていろ。自身が何も守る事のできない凡夫(ぼんぷ)である事を」

 マークがナイフを持つのとは別の手で持っていた携帯端末を操作すると、消えていた照明が再度点灯(てんとう)した。返り血に染まった男は、もう必要ないとばかりに暗視(あんし)ゴーグルを(むし)り取ると、乱雑に地面へと叩き捨てた。レンズが砕け、ハイテク機器の欠片(かけら)が散らばる。

 (きびす)を返して、里緒の方へ向かっていくマークの背中を目線で追いながら、リカルドは、「……待ち、やがれッ……」と震える手を伸ばす。だが血を失い切った体は、自分のものとは思えないほどに言う事を聞かない。氷点下(ひょうてんか)を下回る冷凍庫に長時間(さら)されたように、あるいは灼熱(しゃくねつ)劫火(ごうか)で炭化するまで(あぶ)られたかのように――。神経からもたらされるはずの感覚の一切が感じ取れなくなっていた。

 とうとう下半身にも力が入らなくなり、体重を支えられなくなった(あし)がくず()れる。膝から崩れ落ち、そのまま(うつぶ)せに倒れ込む。自身から流れ出た血の海に(しず)み、生温(なまあたた)かい体液が衣服(いふく)()み込んでいく。

 押し寄せてくる死の気配。

 ガストレア大戦。第三次関東会戦。これまで幾度(いくど)となく目の当たりにしてきたそれが、ついに自分自身を標的にしたのだと(さと)る。

 ――俺が死ぬのは……別に良い……。

 ――けど……。

 このまま自分の命の灯火(ともしび)が消えればどうなる?

 その()に起こり得る可能性が走馬灯(そうまとう)のごとく、そして具体性を(ともな)って脳裏に浮かび上がってくる。

 リカルドが死ねば、次にマークの標的になるのは里緒だ。彼女がガストレア因子を持つ『呪われた子供達』だとしても、本職のイニシエーターではない彼女に勝ち目はない。マークは続け様に里緒を殺害し、転がった二つの死体を尻目に、その場をあとにするだろう。

 そして蓮太郎とリトヴィンツェフの戦いに合流。単独で序列元七七位のペアに匹敵(ひってき)する実力を有する彼の乱入は、確実に形勢をリトヴィンツェフの側へ傾かせる。

 惨殺(ざんさつ)され、地面の()みと化す里見蓮太郎と藍原延珠の姿が鮮明(せんめい)に描き出される。東京エリアは最後の希望を失い、その命運はアンドレイ・リトヴィンツェフという名の殺戮者(さつりくしゃ)が握る事となる。

 リトヴィンツェフが起こすのは、ステージⅤ『天秤宮(リブラ)』のウィルス(のう)破裂と、それを引き金とする未曾有(みぞう)のバイオハザード。

 偏西風(へんせいふう)に乗って殺到する致死性(ちしせい)ウィルスの群れは、最初に仙台エリアを襲撃する。未知の疫病(えきびょう)(おか)され、地獄絵図と化す仙台。そして遅れて生物災害に見舞われる東京エリア。

 二国の大絶滅というパワーバランスの崩壊が引き起こすのは、列強の介入による世界大戦の再来だ。バラニウムという必須の資源を求めて各国が武力を交わし合い、流れる必要のない血が流れる。リカルド達を信じて送り出してくれた者達が、血と臓物でできた底なし沼に沈んでいく様を想像し、形容できないほどの嫌悪感がした。

 ――……駄目だ。

 ――それだけは……絶対にあっちゃならねえ未来だ……。

 先人達が命を()して守ったこの箱庭(はこにわ)。この滅びゆく世界で唯一残った人類の生存圏(せいぞんけん)幾度(いくど)となく災禍(さいか)見舞(みま)われながらも、今日まで残存し続けてきたこの世界を――。

 ――あいつらの勝手な都合で壊されてたまるかよ……。

 ――里見に……『世界を守れなかった敗北者』なんて称号を……背負わせてたまるかよ……。

 自分には世界を守り通す力はない。それはきっと特別な力と役目を持った――特別な存在だからこそ成し遂げられる偉業(いぎょう)だ。

 英雄譚(えいゆうたん)の中心にいるのは間違いなく、あの黒衣の少年だ。彼こそが、この破滅に突き進む世界に残された最後の希望なのだ。

 だが。

 だからこそ、かの少年は孤独なのだ。自身が望む望まないに関わらず、『英雄』としての責務を課され、時には一人隔絶した物語に閉じ込められる。彼の抱える寂寥(せきりょう)寂寞(せきばく)も、英雄の歩むストーリーのエッセンスとして消費されて終わる。

 里見(さとみ)蓮太郎(れんたろう)は、いったい何度その苦しみを味わった? 成人してさえいない子供の身で、いったい何度心を引き裂かれる痛みに(さいな)まれた? 今もなお、現在進行形で精神を削り落とされているはずの彼は――いったい誰に助けを求めれば良い?

 ――俺は世界を守れない……。

 ――でも……一人で世界を守ろうと戦ってる奴を守る事くらいはできるはずだ!!

 決意と共に霧がかっていた視界が晴れる。ミリタリージャケットの内側から感じる硬質な感触に導かれるようにして、血塗れの手を伸ばす。鷲掴(わしづか)みした注射筒(シリンジ)のキャップを(くわ)え、噛み千切る勢いで引き抜き、躊躇(ためら)いなく注射針を脇腹へ突き刺した。

 容器に満たされていた薬液を――。室戸菫(むろとすみれ)の開発したAGV試験薬(しけんやく)を――。一時的に超人的な肉体再生力を得る代わりに、二〇パーセントの超高確率でガストレアへと変貌(へんぼう)する劇薬(げきやく)を――。一切の躊躇(ちゅうちょ)さえ見せず、(あま)さず体内へ注ぎ込む。

 直後――リカルドの全身を駆け抜けたのは、溶かした(なまり)を血管の隅々(すみずみ)まで注入されたような感覚だった。

 指先に至るまで灼熱(しゃくねつ)が一瞬で駆け巡る。次いで襲ってきたのは、心臓に溶岩を練り固めた(くい)を打ち込まれたような痛み。細胞の一つ一つが甲高い悲鳴を上げながら沸騰(ふっとう)したかと思えば、すぐさま瞬間冷却される。絶え間ない温度差の暴力によって、結合が緩んだ細胞同士が無理矢理引き()がされ、(いびつ)に繋ぎ合わされていくような破滅的感覚。

 肺の表面をコンクリートで固められたのかと錯覚するほどに、筋肉が収縮してくれない。息を吸う事も吐き出す事もままならないまま、取り入れた酸素だけが消費されていく。自動車の前照灯(ぜんしょうとう)をゼロ距離で明滅させられているかのごとく、視界が切れ目なく漆黒(しっこく)純白(じゅんぱく)に入れ替わる。

 ――里見(さとみ)……。

 攪拌(かくはん)される意識のさなかで、一つの名を(つぶや)く。

 ――お前も……この苦しみを味わったのか……?

 蛭子(ひるこ)影胤(かげたね)との激突の際、里見蓮太郎は重傷を負い、その傷を無理矢理治すためにAGV試験薬を使った。激甚(げきじん)な苦痛とガストレア化という最大級の副作用(リスク)を理解した上で――。

 たった一人の藍原延珠(少女)を孤独の深淵(しんえん)に落とさないために。

 ――俺は……。

 酸素の行き渡らなくなった脳が幻覚を見せてくるかのように、いつかの光景が連続でフラッシュバックする。

 戦火の中で力尽きた同僚達が。

 断末魔を叫びながら、異形に体液を注ぎ込まれる仲間達が。

 頭を振り乱し、言葉にならない悲鳴と共に不可逆(ふかぎゃく)変貌(へんぼう)()げていく隊員達が。

 かつて『人間だったもの』をマニュアルに(のっと)って迅速(じんそく)に処理していく自身の手許が。

 折り重なった死体の山の中心で、薄暗(うすぐら)い朝日を(おが)んだ時の無力感が。

 誇りと仲間を失って逃げ出した自分を、再び()の当たるところへ連れ出してくれた二人の民警が。

 人間の尊厳(そんげん)ごと根こそぎ(むし)り取られるように、命を奪われた横島(よこじま)秀貴(ひでき)が。

 悲劇に押し潰されながら、今もなお運命を(もてあそ)ばれ続ける、彼の忘れ形見である谷塚(たにつか)美梨(みり)が。

 どこの馬とも知れぬ男を信じて、家族を託して死んでいった占部(うらべ)里津(りつ)が。

 姉を見殺しにした男を、それでも信じてついてきてくれた占部(うらべ)里緒(りお)が。

 過酷な運命を一人背負わされ、自分ではない誰かのために、傷だらけになりながらも歩みを止めない里見(さとみ)蓮太郎(れんたろう)の後ろ姿が――。

 ――消させやしねえ……。

 ――希望を守り抜くための希望は……俺が守る――!!

 ――だからッ……!

「――さっさと屈服(くっぷく)して俺を治し切りやがれ! ガストレアウイルスごときが! ――人間(俺達)を縛れると思うんじゃねえよ――――ッッ!!」

 どくん――と。脈動を止めていたはずの心臓が再び動き始める。斬り裂かれた体組織が塞がり、全身の血管へと新鮮な血液が送り届けられていく。失われかけていた手足の感覚が戻ってくる。

 五指を握り込み、問題なく動く事を確認すると、弾かれたように起き上がる。肉体は再生した。形象崩壊を起こす予兆はない。自分が賭けに勝った事を自覚する。

 見据えるは、里緒を殺害せしめんと拳銃を構えているマーク・メイエルホリド。

 弾丸のごとく駆け出す。薬の効力が働いているせいか、体が軽い。走り込みながら九ミリ拳銃を跳ね上げると、連続で引き金を引く。動きながらのため、狙いは()れたが、(うち)一発がマークの左肩に着弾した。鮮血の花を咲かせながらマークが(うめ)く。彼の視線がこちらへ向き、すぐに驚愕(きょうがく)に目を見開いた。

「……ッ、傭兵……!」

「里緒ちゃんから離れろ! クソ野郎が!」

 マークが後退し始めたのを確認するや、リカルドは駄目押しのように弾幕を張る。マークの足許で土煙が巻き上がり、粉っぽい空気が舞う。

 負けじとマークも反撃に転じる。拳銃の筒先(つつさき)の矛先をリカルドへと変えて発砲。リカルドは前傾姿勢を取り、左腕を(かか)げて頭部(急所)を守りながら一直線に突っ込んでいく。吐き出された銃撃全てが肉体へと喰らいつき、異物が体内を引き裂く激痛。だが、それも長くは続かない。試験薬の効能によって、瞬時に細胞の修復が始まり、すぐさま弾頭は体外へと押し出されていく。

 マークの相貌(そうぼう)に、明確な焦慮(しょうりょ)(とも)る。理解の範疇(はんちゅう)を超えた現象を前に、明らかに動揺を隠せていない。おそらくAGV試験薬の存在は認知していなかったのだろう。

 マークが距離を取るよりも先に、リカルドが肉薄し切る。左足の踏み込みと同時にブーツの底を擦らせ、体を反転。遠心力を加えた右回し蹴りを繰り出す。位置取り、インパクトの瞬間――その全てが噛み合い、安全靴の爪先(つまさき)がマークの左脇腹へと()り込んだ。バラニウム製の――金属製の先芯(さきしん)がジャストミート。確かな手応えと共に、マークが喀血(かっけつ)巨木(きょぼく)のごとく微動(びどう)だにしなかったマークの体勢が、初めて明確に崩れた。

 手を緩める事なく攻め立てる。

 リカルドはダガーナイフを抜き放ち、刺突と斬撃を組み合わせた連続攻撃を放つ。

 痛みと猛攻(もうこう)の圧力に耐えかねたマークが後ろへと退()がった。直後、「今だ――ッ!」というリカルドの合図が反響したかと思えば、うず高く積み上がったコンテナ(ぐん)の頂上から、曲刀(カトラス)を振りかぶった少女が急降下してくる。

 リカルドが弾幕を張った瞬間に姿を(くら)ましていた里緒の奇襲。致命傷を負ったリカルド(相棒)の予想外の復活というイレギュラーを前にしても、聡明(そうめい)な彼女は迷いなく自らの役割を全うしたのだ。

 すかさず九ミリ拳銃に持ち換える。回避の(いとま)さえ与えない必殺の重奏(じゅうそう)。この距離で死角からの斬撃と銃撃に対応する(すべ)はないはずだ。

 トリガーを引き(しぼ)ろうとしたその時――(すね)に鋭い痛みが突き刺さる。「……づッ!」マークの投擲(とうてき)したナイフが脚に喰らいついたのだと(さと)った瞬間には、刹那(せつな)の隙を突いてマークが動いていた。

 ――不味い……!

 マークは里緒の方など目もくれずに、こちらへ組みついてくる。すでに彼の眼光には、異常事態への狼狽(ろうばい)ではなく、立ち塞がる障害を打ち砕くための()らがぬ意思が(とも)っていた。

 ――俺に密着して里緒ちゃんに狙いをつけさせないつもりか……!

 ――させるかよ!

 リカルドの口腔(こうくう)から気合いの一喝(いっかつ)(ほとばし)る。首を後ろへもたげたかと思えば、その勢いを利用して渾身(こんしん)の頭突きをかます。リカルドとマーク、互いの額が音を立てて激突し、骨同士が鈍い音を鳴らす。

 さらに(たた)みかける。先ほどマークの投げたナイフを自身の(すね)から抜き放ち、傷口から溢れる鮮血すらも気に留めずに襲いかかる。自らのダガーナイフと(あわ)せての即席の二刀流。あらゆる角度から高速の斬撃を見舞う。

 ――近接戦でおたくに敵うとは思ってねえ。

 ――だが……!

 マークの意識が二振りの(やいば)に逸れた瞬間、その土手っ腹に安全靴の底を突き込んだ。体重を乗せた強烈な前蹴りが筋肉の鎧を圧迫する。「……っぐッ……!」と(うめ)きながらマークの両脚が千鳥足(ちどりあし)を刻む。

「おおあああああああああああ――――――――ッッッ!!」続けざまに右腕を鈍器のごとく振り回し、バランスを崩したマークめがけてラリアットを繰り出す。鍛え抜かれた筋繊維の塊が、軍服の男の顔面を叩き抜く。マークがよろめく。今度こそ崩し切った。一瞬の攻防を制したリカルドは、すかさずバックステップで距離を調整。

 マークの直上(ちょくじょう)には、彼を殺傷範囲に収めた里緒の姿。赤熱した瞳がレーザー光のごとく攻撃対象を捉える。

 これで勝敗は決した――そう確信した瞬間だった。

 マーク・メイエルホリドは拳銃の銃口を頭上へと向けると、襲撃者を一瞥(いちべつ)すらせずに引き金を(しぼ)った。断続する銃声が()()()、薄闇の中に差し込まれた銃口炎(マズルフラッシュ)が明滅する。

 目標へと正確に撃ち込まれたバラニウムの弾頭が、少女の柔肌(やわはだ)を食い千切(ちぎ)る。左肩、右腿(みぎもも)から出血した里緒が、苦悶(くもん)の表情を(にじ)ませる。重力に任せて勢いづかせていた体勢は大きく崩れ、攻勢は不発に終わる。

 マークは左の靴底でガリガリと地面を(けず)りながら体を反転。勢いそのままに飛び上がるようにして、右脚の(かかと)を振り上げる。人体の可動域を越えるがのごとき、超大振りの後ろ回し蹴りが炸裂(さくれつ)した。落下するままの里緒の顔面にブーツの角が()り込み、今度は重力に反発するかのように矮躯(わいく)が跳ねる。

 ――この化け物がッ……!

 里緒のフォローのために九ミリ拳銃を向けた瞬間、発砲音と共に激痛が突き刺さる。「がッ……!?」数瞬遅れて、鳩尾(みぞおち)に銃弾を叩き込まれたのだと気づく。ブレる視界の端に、硝煙(しょうえん)(くゆ)らせる拳銃を携えるマークが写った。

 胸の中央で細胞が再生されていく感覚。痛みと一緒に弾頭が排出。そこから傷口が完全に塞がる――AGV試験薬の効能により、その一連の流れは(とどこお)りなく演出されるはずだった。しかし、漆黒(しっこく)の弾が地面を跳ねた直後、その流れは突如として寸断(すんだん)される。

 ()()()()()()()

 皮膚にぽっかりと穿(うが)たれた穴からは、とめどなく新鮮な体液が流れ出していく。

 その意味を理解し、背筋が粟立(あわだ)つ。

 ――薬効(やっこう)が……切れたんだッ……!

 受け入れ難い現実を認識するやいなや、四肢全体に言いようのない倦怠感(けんたいかん)が押し寄せてくる。

 脳から体への神経伝達が遅延(ちえん)する。その僅かな切れ目を突くようにしてマークが距離を詰めてきた。蛇のごとくしなる腕が、リカルドの左腕を絡め取り、瞬く間にナイフを奪い取られる。自身の得物を取り返したマークは逆手で構えたそれを一閃。神速の一撃がリカルドの胸の皮膚を斬り裂いた。

「ぐああッ!?」焼鏝(やきごて)を押しつけられたような灼熱の苦痛に、反射的に悲鳴が上がる。

「手品の(タネ)は尽きたか?」とマークの冷徹な問いが刺さる。「無駄な小細工だったな」

 間髪(かんはつ)()れずナイフの柄底(つかぞこ)を顔面にぶち込まれる。衝撃。脳がダイレクトに揺さぶられ、強烈な吐き気が襲う。たたらを踏んで後退したところに、駄目押しとばかりに正拳突きが炸裂。痛覚の(つぼみ)が問答無用で弾ける。

 チカチカと明滅(めいめつ)する視界のさなか、銃口を突きつけるマークの姿が飛び込む。まともな思考さえ回せなくなった頭が半自動的に警笛(けいてき)を鳴らす。

 半ば倒れ込むようにして回避挙動を取った。硬い床の感触が傷口に塩を塗るかのごとく染みる。直後に複数回の破裂音が鳴り、頭上で風切り音が抜ける。

 ――やべえ……。

 ――血を失い過ぎた……ッ。

 銃傷と裂傷から、凝固が間に合わぬまま流出していった血液が、なけなしの意識さえも一緒に持っていこうとする。

 ――まだッ……! 倒れる訳にはいかねえッ!!

「っづああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」

 肺から全ての空気を絞り出すようにして放たれる絶叫。強引に意識を覚醒させながら、無様に地面を転がる。発砲音と共に目の前で床材が弾け飛んでいく。

「――リカルド! 立って!」破砕音の(あられ)の中、差し込まれる(りん)とした叫び。戦線復帰した里緒が、マークの背後から急襲する。

 漆黒の刃が大気を裁断しながら()ぎ払われる。亜音速で繰り出された横一文字の斬撃は、マークが紙一重で上体を折った事で空振りに終わる。そのまま返す刀で、里緒の方を視認すらせずに打ち込まれる上段蹴り。再び軍用ブーツの角が顔面へクリーンヒット。鼻から多量の血液を噴き出しながら、小さな体が後方へ倒れ込んでいく。

「里緒ちゃ――」立ち上がろうとした瞬間、リカルドの顔にも鈍痛が叩きつけられた。自分以外の全てが掻き回される感覚。拳打を喰らったのか、蹴りを喰らったのかさえ判別できない。

 マークが(かかと)を反転させ、標的(ターゲット)を里緒へと移した。

 振り(かざ)されるバラニウム製ナイフ。宙に刻み込まれる軌跡の先には、無防備な少女。

 ――駄目だ! やめろッ、マークッ!!

 差し迫る里緒の死という現実に、全身の毛が逆立つ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。それだけはあってはならない。占部里津から託された彼女を失ってしまえば、今度こそ自分は――。

「――――――()()()()()

「「……――!?」」

 すでに抗う力のなくなったはずの少女から発せられた不適な宣言に、リカルドとマーク双方(そうほう)の両目が見開かれる。

 倒れ込みかけていた上半身が突如として前方へ引き戻され、燃え盛る瞳を(たた)えた里緒の獰猛(どうもう)な顔つきが()える。普段の冷静沈着で知的な相貌から一変、()えた獣のごとき荒々しさと共に大口を開ける。

 そして――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 イニシエーターの脅威的な咬合力(こうごうりょく)によって、さながら癒着(ゆちゃく)したかのごとくビタリと攻撃が止まる。口の端にバラニウムの凶刃(きょうじん)が食い込み、血が(つた)うが、些末(さまつ)な事とばかりに力が緩む気配はない。

 硬質な物体が砕ける音が、リカルドの耳にまで届いた。文字通り噛み砕かれたナイフの欠片(かけら)が、乱雑に宙を舞い踊る。近接戦の(かなめ)を失ったマークに対し、里緒は立て続けに攻めかかる。

 アクロバティックな動きから繰り出される曲刀(カトラス)乱撃(らんげき)。しかし敵も()る者。超至近距離からの連続攻撃を、マークは寸前で体を(ひね)って(かわ)していく。

 だが里緒の方も、すでにマークの身のこなしは計算の内のようだった。全く動じた様子のない彼女は、マークが懐へ潜り込んできた瞬間に、自身の顔を彼へと近づける。(すぼ)めた(くちびる)から吹きかけられた血液が、マークの顔一面を赤く汚した。

「……ッ!?」突然の目眩しに、マークが一瞬硬直する。

 そこを見逃す里緒ではなかった。すかさず構えを取り直し、曲刀を振るう。

 マークはとっさに身を(よじ)るが、切先が彼の左肩を捉えた。裂けた肉の間から勢い良く鮮血が溢れ出す。

 里緒は口の中に溜まった血の塊と、先ほどナイフを噛み砕いた際に折れた自らの歯を一緒に吐き出す。「……あたしに発現した因子は、里津姉と同じモデル・シャーク」先刻と変わらず、彼女らしからぬ不適な笑みを浮かべる口許からは、傷も欠けもない白いエナメル質が覗いていた。「――知ってる? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから鮫は一生涯に渡って硬質で鋭利な歯を維持できる」

躊躇(ちゅうちょ)なくバラニウムに噛みつけたのは、それが理由か……!」

 負傷に負傷を重ねた三人が向かい合う。各々から流れ出た血液が、濃厚な鉄錆(てつさび)の臭いを発し、辺り一面を染め上げる。小刻みな呼吸音が倉庫内に反響し、二酸化炭素が充満していくような錯覚。誰がいつ気を失ってもおかしくない状況で、それぞれが胸に掲げた信念だけで意識を繫ぎ留める。

 ――くそッたれ……。

 もう銃把(じゅうは)を握る右手にも、ダガーナイフを持つ左手にも(ろく)に力が入らない。

 AGV試験薬の副作用という特大のリスクを負っても。

 人間離れした身体能力を有するイニシエーターとの連携を(もっ)てしても。

 持ちうる限りのあらゆる手段を講じても崩し切れぬ傑物を前に、体よりも先に心が折れそうになる。

 どうすれば良い? これ以上何を賭ければ、この男に追いつける?

「……リカルド」不意に里緒の柔らかい声音が、こちらを呼ぶ。とっさに彼女の方を見やると、諦観を滲ませた表情と目が合った。「たぶん、あたし達の力だけじゃ……この人には勝てない。認めたくはないけど、きっと積み上げてきたものが違い過ぎるから」

「何を言って……」

「だから――活路は()に求めようと思う」

 その瞬間、リカルドは見た。

 里緒が(ふところ)から取り出したボロボロの無線機のボタンを押し込んだのを。

 直後に頭上の(いた)るところから、耳をつんざくような爆音が立て続けに木霊する。積み重ねたコンテナの接合部が爆炎に包まれながら浮かび上がり、子供の積み木遊びのごとく、見える範囲全ての空容器のバランスが崩れた。

 何が起きたのかを、リカルドはすぐに看破する。

 ――まさか……野営地から持ってきた爆薬(C4)か!?

 ――さっきまでの攻防の中で仕掛けていたのか!?

 そして何一つとして前後の事情を知らないはずのマークは、経験則から、頭ではなく脊髄(せきずい)で全てを察したのだろう。弾丸が解き放たれるかのごとき猛速度(もうそくど)で里緒へと突っ込んでいく。

「里緒ちゃん!」

「ここからはリカルドの番! あたしの手を取って――未来に連れて行って!」

「――――――――――!」

 雪崩(なだれ)のごとくコンテナが崩壊していく。大質量の群体(ぐんたい)が何の遠慮もなく転がり落ちてくる様は、脳に根源的な恐怖を呼び起こさせる。

 そんな中で――覚悟を決めた表情の里緒は、曲刀を携えてマークを迎え撃つ。一方のマークも、自らが圧殺される恐怖など感じていないとばかりに拳銃を撃ちまくりながら、里緒との距離をみるみる内に詰めていく。

 二人の激突が視界に映ったのも束の間。重力通りに落下した鉄製の箱の群れが、床材を砕き破り、その衝撃に負けてコンテナそのものがひしゃげ潰れ、あるいはバラバラに解体されていく。

 押し寄せてくる死の気配から逃げ惑うように、リカルドは安全圏めがけて駆ける。目の前で瓦礫がバウンドし、あわや轢殺(れきさつ)されそうになりながらも、爆薬の仕掛けられていなかった範囲へと飛び込んだ。

 転倒同然に額を床へ打ちつけ、鈍い痛みが頭を包み込む。

 すぐさま背後を振り返るが、視線の先に広がっていたのは周囲一体を覆い尽くす粉塵と、滅茶苦茶に散乱するコンテナの残骸だけだった。

「里緒……ちゃん……?」少女の死を予感して、無意識に名前が口を突いて出るが、直後に剣戟音(けんげきおん)と銃声が同時に聞こえてきて、里緒とマーク両名の生存を確定させる。

 ――あの子はまだ諦めてない……。

 おそらく里緒は明確な意図をもって自分達を分断した。

 リカルドがマークを倒すための一手を打つ事を期待して――。

「……ああ」とリカルドは小さく応答していた。「上等だ。やってやるよ」

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