ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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 脅威的な跳躍力で縦横無尽にコンテナの残骸(ざんがい)を飛び越えていくイニシエーターを追撃する。

 マーク・メイエルホリドは手にした拳銃を立て続けに発砲しつつ、的確に距離を近づけていく。

 ――問題ない。

 ――多少頭が回ろうが、根本的には経験の浅い『子供』だ。俺の敵じゃない。

 周囲は未だ舞い上げられた粉煙(ふんえん)で覆われ、視界の大部分を(かすみ)で塗り潰している。五感の内の一つを奪われたデメリットはあるが、それは相手も同じだ。足並みを揃えた条件の上で、自分が遅れを取る事などない。

 ――あの傭兵は……。

 戦闘の切れ間を()って周囲を見回す。やはりミリタリージャケットの男の姿は見当たらない。先ほどの空コンテナの積み木崩しによって挽肉(ひきにく)になった――という可能性は意図的に(はい)していた。

 片割れの危機のために、明らかに安全性の確約されていない劇薬(げきやく)躊躇(ためら)いなく使うほどの信頼関係。出会って一日にも満たないあの二人の間で、どんなやり取りがあったのかは想像する事もできないが、その『何か』は間違いなく無視して良いものではない。

 あの鮫因子のイニシエーターは、必ず傭兵を助けようとする。

 あの傭兵は、必ず鮫因子のイニシエーターを助けようとする。

 敵対する関係でありながらも、マークには二人を結びつける絆の強さを明確に把握する事ができていた。あの傭兵は――藤沢(どうざわ)リカルドという男は、絶対に占部(うらべ)里緒(りお)を見捨てて逃げ出すような事はしないはずだと。根拠のない、しかし絶対的な確信がある。

 ――奴は必ず仕掛けてくる。

 ――それまでに――イニシエーターを()る。

 スライドが後退(こうたい)固定(こてい)され、撃発(げきはつ)の止んだ銃声が弾切れを知らせる。好機――里緒の赤い瞳がそう判断するや否や、それまでの慎重な立ち回りが嘘のように、コンテナの壁面を蹴り抜いて一直線に突撃してくる。

 (から)のマガジンが重力に従って落下するよりも早く、マークの(てのひら)には次弾を込めた弾倉が握られていた。寸分(すんぶん)の隙なく本体に叩き込み、遊底を解放する。一連の動作、僅か〇. 五秒。さらにコンマ五秒で照準を合わせ、引き金を引いた。

 一メートル先まで肉薄していた里緒の瞳が、驚愕に見開かれる。少女は汗を振り乱しながら体を(ひね)るが、音速の弾丸は逃さない。バラニウムの牙が、その右脇腹の肉を無慈悲に食い千切った。

 苦痛(くつう)に呻く里緒を尻目に、マークは塵芥(ちりあくた)ほどの容赦もなく攻め立てる。よろめく里緒の軸脚(じくあし)を蹴り抜き、支柱を失った矮躯(わいく)めがけて駄目押しの肘打ちを放つ。薄い胸を貫通させるような打突が突き刺さった。

「かッ、は……!?」

「――――――――」

 マークの攻勢は緩まない。里緒の後頭部を鷲掴みにしてコンテナの壁に叩きつけ、逃れる(すべ)を完全に奪う。続けざまに振り下ろされる無慈悲な鉄槌。一発、二発――。握り込んだ指の背に、柔らかな骨が砕ける生々しい感触が伝わる。生温い血が飛沫(しぶき)となってマークの皮膚を舐め上げた。

 力が抜け落ち、だらりと投げ出される四肢。少女の右手にあった曲刀(カトラス)が音を立てて落下した。

「……お前達にどんな思惑があったとしても、これが現実だ」

 血と涙と唾液(だえき)で、ぐしゃぐしゃになった里緒の顔を(にら)みつける。もはや整った顔立ちの面影すらない。彼女の尊厳を手ずから()り潰したという事実を前に、胸の奥がジクジクと痛む気がした。

「見てみろ。お前がこれだけ痛めつけられても、あの男はお前を助けにくる様子もない」そんな事ある訳がないと分かっていながら、心にもない言葉がつらつらと出てくる。「しょせんは負け犬の傭兵だったというだけの事だ。口では何と言おうが、結局は自分の命が可愛くて仕方がない。責務から逃げ出した軍人は――二度とかつての(こころざし)を取り戻す事はできないのだから」

「……また、リカルドを通して……自分を見てるの?」息も絶え絶えになりながら、それでもなおボロボロの少女は言葉を返す。骨格ごと歪んだ口許が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。「確かに……リカルドは……逃げたかも、しれない。関東会戦を経て、自分の力不足を突きつけられて……国防の責任を……一度は投げ出したのかもしれない」

「……それは紛れもない事実だ。俺もあの男も、軍人の風上にも置けぬ敗残兵。そこに違いなどない」

「違うよ……全然、違う……」

「何だと?」

 赤く()れ上がった少女の(まぶた)が、薄っすらと開く。その隙間から覗く澄み切った瞳が、これ以上なく(まぶ)しく感じられた。

「失うだけが……人生じゃない」里緒は言う。「リカルドは……自衛隊員としての尊厳を失って……新しい仲間も失って……それでも前に進み続けて、新しい自分を手に入れた。あたしだってそう。里津姉を――自分の半身を失って……でも、この戦いを通じて、それと同じくらい大切なものを掴み取れた」

戯言(ざれごと)だ!」無意識に声を張り上げていた。少女の言葉を上から叩き潰すかのごとく、「失ったものは戻ってこない!」と内から湧き上がる感情に流されるがまま(まく)し立てる。「この手から溢れ落ちたものは、もう二度と意味を成さなくなる! それを別のもので埋め合わせるなど、単なる独りよがりの傲慢(ごうまん)に過ぎない! お前達が掴んだと思っているものは、ただの幻想だ! 傷ついた自分を慰めるために生み出しただけの、粗雑(そざつ)玩具(がんぐ)以上の何物でもない!!」

「そうやって自分に言い聞かせてるの? 天秤宮(リブラ)故郷(ベラルーシ)を滅ぼされてから歩んできた人生で手に入れたものが……本当に全部幻だったと思っているの?」

「…………ッ!」

「たとえ復讐のために集まった仲間達だったとしても……本当に何の情も湧かなかったの?」里緒の崩れた顔が徐々に生気(せいき)を取り戻していく。彼女の中に根を張るガストレア因子が急激な再生を促しているのだ。「……そんな訳ない」とかぶりを振る。「あなたの目にはずっと迷いがある。あたしはリトヴィンツェフって人の事を良く知らない。でも、あなたの仲間達が彼に心酔してる事は分かる。その上で――あなたはリトヴィンツェフのやる事全てに賛同している訳じゃない。そうでしょう?」

「……もし、そうだとして」一瞬でも少女の言葉に意思を揺さぶられた自分から目を逸らす。「俺のやるべき事に変わりはない。俺はアンドレイの障害になる者を排除するだけだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「迎えに行く人って――ユーリャ・コチェンコヴァの事でしょ?」

「……!?」胸中を正確に見透かされたような指摘に、鼓動が跳ねる。

「この事実こそが……あなたが冷徹な『武器』じゃなく、心を捨て切れなかった『人間』である事の証明。そして人間は一度全てを失おうとも、立ち上がれる事の証左。リトヴィンツェフの『道具』として使い捨てられそうになっている子供を救い出そうとしている事が……あなたの両手にあるものが幻想なんかじゃない事をどうしようもなく示している」

「ッ……! これ以上は――時間の無駄だ!」

 激昂と共に、華奢(きゃしゃ)躯体(くたい)を地面へと叩きつける。苦鳴(くめい)(こぼ)す彼女の眉間(みけん)めがけて拳銃を照準。迷いを断ち切るように引き金へと人差し指を伸ばす。

 その時だった。「――ほら。やっぱりリカルドはあたしを見捨てない」

 突如として鼓膜を千切りにするような爆音が鳴り渡る。低音混じりの体の(しん)にまで響いてくるような大音響。それがエンジンの作動音だと、遅ればせながら察する。

『――待たせたなああああああッッ! メイエルホリドさんよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――――――――――――ッッッッッ!!』

 地を揺るがす轟音。それはもはや単一の音源ではない。コンテナの壁が内側から膨張し、悲鳴を上げる金属音と、全てを圧し潰すようなエンジンの咆哮が混ざり合い、拡声器によって増幅されたリカルドの絶叫が空間そのものを震わせる。

 それを知覚したのも束の間、マークの背後に(そび)え立っていた海上コンテナが内側から弾け飛び、絶大な容積を有する鉄の箱が散弾のように四方へ飛び散った。

「何……がッ!?」降って湧いた命の危機に、反射的に背後を振り向く。視界に現れたものの正体を目の当たりにし、背筋が凍る。「荷役用(にやくよう)のフォークリフトか!」

 大型トラックほどの巨体を有するそれは、港湾(こうわん)などで使用される規格外のサイズの荷役用(にやくよう)車両(しゃりょう)だった。塗装の()げた鈍色(にびいろ)無骨(ぶこつ)な車体に、前後でサイズの異なるタイヤ。前輪は直径四メートルに迫り、人間など簡単に()き殺せるレベルだろう。それより小さい後輪でさえ、人が巻き込まれれば死は免れられないはずだ。車体側面に敷設された階段の先には、アクリル板で囲われた操縦席が見え、そこに座っているのは見間違えようもなく、あのミリタリージャケットの傭兵だった。

 車体前面には、地面に対して垂直になるよう取りつけられた金属製の(マスト)。フィンガーバーのついた荷受け枠(バックレスト)が組み合わせられており、バーからL字に伸びる三メートル近い(フォーク)は、鉄骨のごとき肉厚さを誇る。突進するにあたって邪魔なためだろうか、爪はバックレストごと操縦席近くまで持ち上げられていた。

 ここに搬入されたコンテナを荷役するための、積載可能重量三〇トンオーバーのモンスターマシン。

 それが人間一人を()き潰さんと急速接近してくる。

 全身の血液が煮え立つような緊張のさなか、マークは思考回路だけを意識的に冷却して、無いに等しい時間を最大限に使って次の一手を考える。

 ――後輪が操舵輪(そうだりん)のフォークリフトといえど、あの巨体だ……!。

 ――小回りが()くような代物(しろもの)じゃない……!!

 ――ならば……!

 攪拌(かくはん)された空気を顔中で受けながら、足裏に力を込めて横へ飛ぶ。ほぼ同時に車両が到達。一瞬前までマークがいた場所を一直線にフォークリフトが駆け抜ける。風圧だけで彼方(かなた)へ吹き飛ばされそうになる。

 すかさず重機側面の突起(とっき)(つか)んでしがみつく。そのまま身体能力に任せてよじ登ると、操縦席へ続く階段の最下部に躍り出た。

 巨大車両は今もなお駆動を続けており、地面からダイレクトに伝わる振動が足許をおぼつかなかくさせてくる。

 ――あのイニシエーターが今の一撃で地面の染みになったとは考えにくい。

 ――おそらくは……。

 マークの想定はすぐさま現実となって返ってくる。爆音に紛れて、頭上から軽やかな反響音。

 同じく乗り込んできていた里緒が直上から急襲。鉄製の外壁を(なます)()りにしながら急降下してくる。

「――ッ」弾かれたように拳銃を持ち上げて発砲。射出されたバラニウムの弾頭が、甲高い悲鳴を鳴らしながら破断されていく。

 ――動きながらでも銃撃を撃墜してくるか……。

 ――凄まじい成長速度だ。

 マークが後退したのと同時に、降り立った里緒が曲刀(カトラス)を振り抜き、鉄網(てつあみ)状の床材を両断する。グラインダーで金属を()で上げたような眩い閃光が拡散。飛び散った鉄屑がさらに光を反射し、網膜を焼き焦がす。

 ここぞとばかりに黒髪の少女が距離を詰めてくる。マークの引き撃ちなどものともせずに銃弾を斬り伏せ、懐へと潜り込んでくる。

 繰り出される神速の斬撃。揺れる足許によろめきそうになりながら、紙一重で鋭利な殺意を躱す。

 マークは攻撃後の里緒を見据える。強靭(きょうじん)な身体能力を持つ『呪われた子供達』といえど、この場所の条件の悪さは変わらない。彼女の右腕は曲刀と共に何もない宙空(ちゅうくう)()ぎ、慣性に従って現在進行形で振り回されている。当然、踏ん張る力も上手く機能しておらず、前のめりに倒れ込みそうになっている。

 狙うはガラ空きの腹部。踏み込みざまに掌底(しょうてい)を叩き込む。内臓が急速に収縮する感覚が手のひらに伝わり、里緒の呻き声。さらに爪先を振り上げて顎を蹴り抜いた。

 少女の赤い瞳がぐるりと裏返る。意識を刈り取るまであと一撃――。

 右拳を握り込んだ瞬間、背中に突き刺さる悪寒。

 本能に警告を叩きつけられるがままに、里緒への追撃を諦めてその場から距離を取る。階段上部からけたたましく鳴り響いた銃声が、自身の判断の正確さを示してきた。切れ目なく飛来してきた弾丸が、付近の壁や床に当たって弾ける。

 誰が仕掛けてきたかなど今さら問うまでもない。階段上部――操縦席から飛び出してきていた傭兵めがけて応射する。

 操縦席の陰に身を隠すリカルドの手に握られていたものを視認、すぐさま正体を見破る。

 ――九ミリ機関拳銃(きかんけんじゅう)……なるほど、まだ奥の手を隠し持っていたか。

 自衛隊正式採用の短機関銃(サブマシンガン)。九ミリ拳銃と同じく、9mmパラベラム弾を使用する火器で、毎分一一〇〇発以上の高い射速を持つ。弾薬消費の激しさ、連射時のコントロールの難しさを差し引けば、高い制圧火力を発揮できる優秀なサブウェポンだ。

 ――消耗を度外視した攻め……ここで出し切るつもりか。

 背後から掴みかかってきた里緒の顔面を銃把(じゅうは)の底で殴り倒し、そのままの勢いで階段を駆け上がる。面食らったリカルドが再度九ミリ機関拳銃を差し向けてくるが、先手を打つように拳銃を放つ。狙いは逸れたが、傭兵の動きが一瞬(にぶ)った。その隙に最上部まで上がり切る。

 肉薄。ミリタリージャケットの(えり)を乱暴に掴み上げ、自身の近くまで引き寄せながら拳打をぶち込む。リカルドの頬に拳が減り込み、鼻腔から血が吹き出る。操縦席を囲うアクリル版へ大柄な体躯を叩きつけ、続けざまに土手っ腹へと膝蹴りを突き込んだ。

 咳き込むリカルドの口の中に銃砲を()じ込み、引き金を絞ろうとしたところで、激甚な衝撃が重機全体を襲った。思わず拳銃を取り落としそうになる。

 そこでマークは気づく。

 ――操縦席が空席になっているのも関わらず、車両は前に進んでいる……!

 今しがたの衝撃はフォークリフト前面のマストが、積み上がったコンテナに激突した事で引き起こされたものだった。

 ――クリープ現象のまま進んでいる? いや違う。

 ――アクセルペダルを重石(おもし)か何かで固定しているのか!

 マークかリカルド、どちらかがどちらかを殺し、重機の操縦権を奪わなければ、車輪が駆動するのは止められない。

 そしてマークは知っている。フォークリフトが突き進む先――そこに何があるのかを。

 ――()()()()()()()()()()()

 ――この勢いで空コンテナを巻き込みながら突入すれば最後、昇降機を破壊して吹き抜けの下に真っ逆さまだ!

 片方が死ななければ、諸共(もろとも)挽肉(ひきにく)となる運命。あの傭兵がそこまで想定して攻勢を仕掛けてたのかは定かではないが、いずれにせよ、このままでは全員が重力と質量の合わせ技で、人間としての形さえ留められなくなるだろう。

「――――」動く。先手必勝。このまま傭兵を殺し切り、重機を停車させて離脱する。

 拳銃を跳ね上げた瞬間、目の前で空気を切り裂く異音。それがリカルドの放った蹴り上げだと気づいた時には、彼の安全靴の先端が銃を弾き飛ばしたあとだった。

「ははッ! これで丸腰だなあ!?」と傭兵は獰猛(どうもう)な高笑いを見せる。返す刀で、九ミリ機関拳銃の銃口がこちらへ向いた。間髪容れずの銃声。眼前でマズルフラッシュが連続で瞬く。

 しかしマークは半身になりながら、リカルドの側面へと回り込んでいた。全ての銃撃をいなし、距離を再度ゼロにしたマークは、未だ熱を持つ銃身に手刀を打ち込み、そのまま取り落とさせる。

 リカルドの硬直している隙を狙って短機関銃を拾い上げようと手を伸ばしたところで、視界外から飛び込んできた蹴りが銃本体を蹴り飛ばした。欄干の下を通って宙へ放り出された銃は、すぐに砂埃の中へ消えていく。

「おたくに渡すくらいなら、なくしちまった方がマシなんだよ――ッ!」リカルドが組みついてくる。僅かに反応が遅れたところで、白兵戦の主導権を握られた。傭兵の放ったボディーブローを受け止めた直後、もう片方の拳から繰り出されるアッパーカットが下顎に突き刺さる。

「――……づうッ!?」混ぜ返された視覚に、ちらつく星が混じる錯覚。脳が頭蓋骨の中を踊る。理性を抑え込んで胃液が迫り上がってくる。

 本能が距離を取ろうとして、たたらを踏みつつ後退しようとするが、そうは問屋が卸さなかった。

 筋肉質なリカルドのガタイが重戦車のごとく突っ込んでくる。大柄な体格を生かした渾身のショルダータックル。膨張した三角筋が鳩尾(みぞおち)の中央へ突き込まれ、甚大な衝撃と共に、肺の中の酸素が根こそぎ絞り出される。

 勢いは衰えない。リカルドのタックルは、マークを階段踊り場の端まで一直線に押し込んでいく。マークは足裏に力を込めて踏ん張るが、重戦車と化した屈強な肉体は止まらない。背中が頼りない鉄パイプの欄干に激突し、鈍い音と共に金属筒が大きく歪む。

 受け止めきれない。マークの体が後方へと(かし)ぎ、捻じ曲がった欄干の向こう側へと投げ出される。眼下に迫るのは、容赦なく回転し続ける巨大な前輪と、ヤスリのごとき路面だ。

「――ッああああッ!!」というマークの雄叫び。落下する直前に、右足の甲を欄干へと引っ掛け、強引に重力に反発する。一瞬の浮遊感を感じながら腹筋の力だけで上体を戻すと、(さび)だらけの手摺(てすり)を右手で鷲掴(わしづか)む。

 そのまま右手を支柱にして、逆立ち状に飛び上がる。独楽(こま)のごとく猛回転。追撃しようと拳を振りかぶっていたリカルドの側頭部めがけて、遠心力の限りを加えた蹴りをぶちかました。直撃。意識を沈め切るのには十分過ぎる一発だった。

 なのに――。「――ッ!」

「――捕まえたぜ」

 頭部を多量の血で濡らしながらも、はっきりとした意味のある言葉を紡ぐリカルド。彼は勝ち誇った表情で、マークの右脚を掴み上げていた。

「うおああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――ッッッッ!!」気合いの大喝(だいかつ)と共に、リカルドが両腕をフルスイングする。マークの躯体(くたい)が宙を舞い、今度こそ空中へと投げ出された。

 先ほどとは比べものにならない継続した浮遊感が全身を包んだ。周囲に手の届くものは何もない。思考回路に『落下死』の三文字が無限に増殖する。

「……ッ、まだ、だッ……!」反射的に声が()れる。「俺は! 必ずコチェンコヴァを迎えに行く! アンドレイの悲願を叶え、アンドレイに引導を渡すのは俺の役割だッッ!!」

 眼下に広がるのは地面だけではない。マークが投げ出されたのは、フォークリフトの側面ではなく前面。(マスト)に組みつけられた荷受け枠(バックレスト)から伸びるのは、鉄骨のごとき様相の(フォーク)だ。突進の妨げになる爪は、地上から離すように高く昇降させられている。つまりは虚空(こくう)に唯一残った足場。

 混ぜっ返された空気の奔流(ほんりゅう)(あらが)いながら、手を伸ばす。指先が鉄骨の(ふち)に触れる。その瞬間に五指を力の限り握り込んだ。火事場の馬鹿力を体現するかのごとき驚異的な握力が、土壇場(どたんば)で命を繋ぎ止める。

 体操の鉄棒競技を思わせる動きで全身を()り子運動させ、勢いづけて上空へ飛び上がる。(はば)僅か五〇センチの足場へとギリギリで着地する。

 フォークを伝って操縦席付近の階段踊り場へ戻ろうとした直後、思わぬ光景に目を剥いた。

 こちらと同じく爪に飛び移ったリカルドが、まっしぐらに突っ込んでくる。彼の右手には逆手で構えたダガーナイフ。血走った眼光が(やじり)のような鋭利さを(もっ)てプレッシャーをかけてくる。

 同時に理解する。

 この宙空に舗装(ほそう)された死のレールこそが、互いの決戦の場となる事を――。

「来い! 傭兵――!」構えを取る。固く決意する。ここであの男を迎撃し、奈落(ならく)の底へ叩き落とす。

 距離を詰め切ったリカルドが繰り出してくる()ぎ払い。通常であれば後ろへ退がって()()()のが定石(じょうせき)だが、すでにマークの後ろに道はない。

 ――構わない。

 ――退がる道理など、もはや微塵もないのだから!

 マークは踏み込む。(やいば)のリーチのさらに内側へと潜り込み、リカルドの右手首を掴み取る。バラニウムの凶刃が皮膚に届く前に停止。

 リカルドがマークの拘束から、もがき抜けようと腕を引いたところで、強引にこちら側へと引っ張り込む。傭兵の四肢は自身の意思とは無関係に動かされ、神経伝達の遅れた体が体勢を崩す。

 右から繰り出す肘打ちで、リカルドの顎を打ち抜く。意識を揺さぶられた大柄な体がふらつき、たたらを踏む。

 休む事なく怒涛の追撃を叩きつけていく。鳩尾(みぞおち)に正拳。下顎に膝蹴り。最後に駄目押しの拳打を顔面へと見舞う。口腔と鼻腔から赤い体液を噴き、白目を剥くリカルド。もはや気絶寸前の崖っぷちまで追いやられた彼だが、その手に握られたダガーナイフが取り落とされる事はなかった。

「まだまだあああああああああああああああ――――――ッッ!!」満身創痍(まんしんそうい)の傭兵は口角(こうかく)から血の泡を吐きながらも、なおも食らいついてくる。

 両手で握ったナイフによる振り下ろし。黒光りする切先(きっさき)がマークの脳天を捉える直前で、マークの放った蹴り上げが、リカルドの両前腕へクリーンヒット。軍用ブーツの硬い先端が、皮膚の薄い部位を強烈に突く。 ――自分では気づいていないだろうが……。

 ――すでに動きが単調になっているぞ!

 このまま軸脚(じくあし)をスイッチして、今度こそ傭兵の意識を伐採(ばっさい)する蹴りをぶち込む――。そう決め打ちして振り上げた脚を戻そうとした時、「――――っ!?」とマークは驚きに目を見開いた。「何、がッ……!?」自身の体躯が意識に反して後ろへ(かし)いでいく感覚に襲われながら、眼球だけを足許へ向ける。

「――動きが単純になってんのは、おたくもだぜ。メイエルホリドさんよ」

 鉄骨の床を踏み締める軸脚――その上に覆い被さるように押しつけられているのは、安全靴のウレタン底。

 ――さっきの振り下ろしは俺の意識を誘導するためのフェイク!

 ――本命はこの踏みつけ――……!

「おるああああああああああああああああああああああッッッ!!」

 マークの動きを阻害する方とは別の脚から繰り出される前蹴り。リカルドのブーツ状安全靴の底が臍部(さいぶ)を直撃する。

 意識の埒外(らちがい)から炸裂した刺激を受け、腹筋に流れる生体電気がショートした。筋肉が不自然に痙攣(けいれん)し呼吸が乱れる。

 このまま後ろへと投げ出されれば、両足が虚空(こくう)を踏み締める事となる。重力という見えざる手によって、ローラープレス機も真っ青の圧殺場に引き()り込まれてしまう。

 生傷(なまきず)が収縮する痛みを気合いで押さえつけ、手のひらを(フォーク)の背面に擦りつけながら急停止する。摩擦熱が皮膚表面を焦がすが気にしない。右脚をバネのごとく(きし)ませ、勢い任せに突進を敢行。

 今度はリカルドが乞嘆(きったん)する番だった。思わず退()がろうとした傭兵の(ふところ)へ潜り込むと、心臓部を狙った掌底(しょうてい)をぶちかました。瞳孔(どうこう)を限界まで開いたリカルドが再度喀血(かっけつ)

「終わりだ――ッ!」

 くず折れかかった傭兵の(うなじ)めがけて手刀を振り落とす。意識の背骨を砕き折られたリカルドが短い呻きを洩らしながら、その場へとうつ伏せに倒れ込んだ。

 吹き荒れる土埃を全身に浴びながら、マークは傭兵を見下ろす。ビクビクと手指を小刻みに痙攣させながらも、やはりダガーナイフの(つか)を完全に手放してはいない。

「……お前は良くやった」可能な限り平坦な態度を装ったが、自らの本心はこの傭兵をこれ以上なく賞賛していた。里見蓮太郎のような特別な力もなく、人並みはずれた技量がある訳でもない、単なる一般兵。それがマークをここまで追い詰めた事は、十分過ぎるほどに誇れる戦果だろう。「ここで眠れ。敗残兵に相応(ふさわ)しい結末を与えてやる」

 このまま敗者を狭い足場から蹴り落とそうとした時だった。

 

 突如として激烈(げきれつ)遠心力()が三半規管を殴りつける。

 

 靴底と足場の設置面にあったはずの摩擦力(まさつりょく)(またた)く間に失われ、うねる大気の奔流(ほんりゅう)の内側へと放り込まれる。一瞬の無重力が全身を包み込み、次に襲ってきたのは下へ下へと引っ張り込む力だった。

 自分が今どの方向を向いているのかさえ分からない。ルーレットよろしく回転する視界の端に、僅かな間、重機の操縦席が見えた。

 そこにいた人影――操縦桿(そうじゅうかん)を握る占部(うらべ)里緒(りお)の輪郭を視認し、起きた事態を否が応でも理解させられる。

 ハンドルを限界まで切って車体を急旋回(きゅうせんかい)させた――。

 先述の通り、フォークリフトの操舵輪(そうだりん)は後輪である。前進状態で旋回する際は、乗用車とは異なり、前輪を軸にしてコンパスのように回る。この小回りの効く取り回しの良さが利点ではあるが、同時に一つの危険性も(はら)んでいる。

 運転席のあるタイプの車体は通常『カウンターフォークリフト』と呼称(こしょう)され、(フォーク)で重量物を(すく)い上げた際に、後部が浮き上がらないように、(カウンター)が搭載されている。車体ごとに設定された積載可能重量に耐えるための(おもり)が、だ。

 リカルドが突っ込ませてきた重機の積載可能重量は三〇トンオーバー。金属や木材を詰め込んだ四〇フィート(一二メートル)コンテナを軽々と持ち上げられる性能を誇る。そんなスペックの車体に備えつけられた(カウンター)の重量は想像に難くない。

 それをアクセルベタ踏み状態のまま強引に急旋回させたのだ。

 次に起こる事態も、想像するまでもない。

 重機の抱える危険性が形を伴って顕現(けんげん)する。

 車体後部の重量物にマシン本体が振り回され、後輪が地面から浮き上がった。

 一瞬の内に車体が横倒し状態になり、アーク溶断を思わせる激しい燐光(りんこう)()き散らしながら、慣性のままに滑り進んでいく。

 同じく空中を突き進まされるマークは、視線の先に昇降機を確認する。このフォークリフトがすっぽりと収まる面積の極厚の鉄板が鎮座(ちんざ)していた。転落防止のための柵こそ備えつけられているが、この速度で突っ込めば針金程度の強度さえ期待できないだろう。昇降台自体も言わずもがな。徐行(じょこう)で乗り込む事想定の運搬機に、このスピードと衝撃は耐えられるはずがない。

 昇降機が破壊されたのちに眼下に残るのは、文字通りの底の見えない奈落(ならく)

 思考を切り替える。藤沢リカルドの撃滅から、死地からの離脱へと。病葉(わくらば)同然に振り回される体に振り絞った力を流し込み、失われていた平衡感覚を取り戻すと、足許近くにあったフォークの側面を蹴り抜いた。

 加速力を得た体躯が慣性に逆らって進み、地面と平行になっている車体側面に激突。凹凸や突起に皮膚をしこたまぶつけ、鈍い痛みが襲うが、再度足場を得るのには成功した。

 ここから安全に脱出するため、次の一手に思考リソースを割こうとし――目の前に現れた傭兵の姿に愕然(がくぜん)とする。

「おおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――――ッッッ!!」

 周囲の爆音さえ掻き消すような大喝。マークの脳内が一瞬にして疑問符で埋め尽くされる。この自身が生きるか死ぬかの状況で、なぜ――どうしてまだ戦える? 自分の命が惜しくないとでもいうのか? かつて我が身可愛さに、戦場から尻尾を巻いて逃げた一般兵ごときが――。

 傭兵の持つバラニウム製ダガーナイフの切先から放たれる黒い輝きが、湧き上がった全ての疑問を覆い隠す。そして暗幕を突き破って現れるのは、戦場にピリオドを打つための最後の一手――。

 ナイフによる刺突がマークの右脇腹を貫通した。神経を激痛が駆け抜ける。「……かはッ、傭……兵……ッ!」

 リカルドと視線が交差した。こちらを真っ直ぐ射抜く瞳に宿っているのは、絶体絶命の危機に晒された事による恐怖ではなく――打ち倒すべき敵に喰らいつく底なしの執念だった。

 ナイフが引き抜かれ、引き裂かれた肉の切れ間から血が(あふ)れ出してくる。四肢を稼働させるための、なけなしの燃料が失われていく感覚がした。

「……なあマーク。今度は俺から()かせてくれ」静かな声音で、傷に(まみ)れた男は告げる。「敵だらけの世界で、何度も傷つきながら孤独に戦い続ける子供がいる。世界の命運って奴を無理矢理背負わされて、手が届く距離にないものさえ守らなきゃいけない。色んなもんが両手から(こぼ)れ落ちていって、取り戻せない後悔に打ちひしがれてもなお、歩みを止めるのを許されない奴がいる」

 男は、血と汗に濡れた顔で、くず折れるマークを見据えた。

「――……答えてくれよ。大人である俺が、そんな里見(あいつ)を助けたい思う事は……そんなに過ぎた願いかよ……?」

「――――――――――――――――――――――」

 傭兵の問いに答える(いとま)はなかった。

 滑走し切った車体が昇降台に乗り上げ、柵に激突する。あらゆる衝撃が満遍(まんべん)なく昇降機を走り抜け、爆発的な破断音と共に、設備の接合部という接合部が断裂した。地響きを思わせる(うな)りが聞こえたと思えば、足場が急速に傾いていく。もはや摩擦力など効くはずもなかった。横転した巨大車両が徐々に滑落していく。

 一際大きな反響音が発せられ、それに呼応したかのごとく車体が虚空へと投げ出された。

 眼下に広がるのは、コンクリートで塗りたくられた内壁と、どこまでも続くような真っ暗な闇だけ。吸い込まれるような純粋な黒色は、宇宙空間に漂うブラックホールを想起させた。

「……俺は……」もはや抗う意味などない。重力に導かれるがままに四肢を投げ出す。

 共に落下した傭兵が、瓦礫(がれき)(つた)って現れた黒髪の少女に救出されるのを見届け、ゆっくりと(まぶた)を閉じる。あとに残ったのは、(いや)心地良(ここちよ)い浮遊感だけだった。

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