ここで全てが決する。
蓮太郎は薄く息を吐き出し、そして新鮮な空気を肺に取り込んだ。
腰を落として構えを取る。天童式戦闘術『百載無窮の構え』。天地は永久無限の存在である事を意味する攻防一体の型――。
拍動は加速している。全身を流れる血液に緊張が混じり、それが冷や汗となって噴出する。
だが――不思議と敗北の予感はなかった。あれだけ言葉によって人を手玉に取るのが得意なアンドレイ・リトヴィンツェフを前にして、蓮太郎の胸中には一切の悲観が存在していない。
周りを見回し、先ほど延珠に言った言葉を思い出す。
今の自分にはたくさんの仲間がいる。
傍らに並び立つ傭兵を――藤沢リカルドを見据え、「ありがとう、藤沢さん」と呟いた。「アンタがいなかったら、俺はここまで来れなかった」
「そいつは、こっちの台詞だな」とリカルドは口角を上げる。「里見――お前がいたから、俺は生きて里緒ちゃんを助け出せた。ただの敗者でしかなかった俺が誰かの命を救えたのは――間違いなくお前のおかげだ」
「……ありがとう」ともう一度礼を述べる。そうして静かに目を閉じ、ゆっくりと瞼を開ける。視界の中央に捉えるのは、地獄から伸びる手に全身を絡め取られた悲劇の体現者と、その従者。「――皆、最後に子供の我儘を聞いてくれ。俺を――いや、俺と延珠をリトヴィンツェフ達のところへ連れて行ってくれ。必ず、ここで終わらせる」
「了解だ、大将」とリカルドが笑って答える。
「あの人達は里津姉の仇。手を抜く理由はないよ」と里緒。
「元よりそのつもりだ」とSATの隊長が言う。「君のおかげで、俺達は警察官としての本分を取り戻せた。ここで少しでも、その恩を返してみせる」
「……蓮太郎」幾分か落ち着いた声で、延珠が後ろから歩いてくる。「お主らも……」とリカルド達を順々に見やる。「奴らが東京エリアを滅亡させようとしているのは分かっている……。けど、その上で頼みたい事がある……。妾に……ユーリャと話すチャンスをくれないか……?」
「延珠……お前……」
「無理を言っておるのは妾とて承知の上だ。ユーリャが他の者にとって仲間の仇なのも……。それでも……ユーリャは確かに妾の友達なのだッ……」
「……じゃあ、ユーリャは藍原さんに任せるよ」そう切り出したのは里緒だった。「藍原さんがユーリャと一対一になるように立ち回ってあげる。その代わり、絶対に彼女を抑え続けて。それが条件」
リカルドが訝しむ視線を相棒へと向ける。「……良いのか? 里緒ちゃん。ユーリャは――」
「良いの。何となくだけど……これが最善の方法な気がするの」
「……オーケー。里緒ちゃんが言うなら俺に反対する理由はない。SATのお二人さんはそれで良いか?」
「これは当事者達の問題だ」と隊長が答える。「俺に口を挟む権利はない」
「隊長に同じく」と隊員も上司に倣う。
XD拳銃が、九ミリ拳銃が、曲刀が、司馬重工製短機関銃と拳銃が――。
各々の携える牙が、世界の破滅を目論む復讐者へと突きつけられる。
仲間に囲まれた少年は、曇りなき瞳で一人の男を見据えながら宣言する。「決着をつけようぜリトヴィンツェフ。俺は延珠と――仲間達と一緒に未来へ進む。邪魔するんなら容赦はしねえッ!」
「私は仲間に報いるために進み続ける!」リトヴィンツェフも激昂と共に言い切る。「ここがお前達の終着点だ――――ッッ!!」
空気を破裂させる激音が轟いた。修羅のごとき様相をしたユーリャ・コチェンコヴァが、床材を蹴り砕き、弾丸と化して突っ込んでくる。
SATの二人が前へと踊り出ながら、短機関銃と拳銃で迎え撃つ。蓮太郎の眼前で強烈な銃口炎が明滅し、大量のバラニウム弾がばら撒かれる。弾幕の波が一気呵成にユーリャへと押し寄せる。
「――――――――ッッッ!!」活眼したユーリャが右手の鉤爪を不可視の速度で振るう。無数の軌跡の上で火花が踊り、殺到した弾頭がまとめて斬り伏せられていく。
SATの隊長が叫ぶ。「行けッ! リトヴィンツェフを叩くんだッ!!」
二人の特殊部隊員と延珠を置き去りにし、蓮太郎とリカルド、そして里緒が駆け出した。
迫り来る鬼神から発せられる圧を全面に受け、蓮太郎は脊髄を鷲掴みされる錯覚に陥る。チーターの因子を持つユーリャのトップスピードは、人間のそれを遥かに凌ぐ。彼女のへし折れた左腕が徐々に元の輪郭を取り戻していくのを見やりながら、全力を取り戻すまで、もう幾ばくの猶予もない事実を突きつけられる。
蓮太郎は砕けんばかりに歯を食い縛り、轢殺してくるような殺意の波動に耐える。
――皆を……延珠を信じろッ!
――俺の相手はリトヴィンツェフただ一人だッ!!
右義足のカートリッジに点火。ドーム内を炸裂音が反響し、体全体が押し出される感覚。右脚を起点に爆発した推進力が、意識より速く四肢を駆動させる。並走していたリカルドと里緒をも後方に捨て起き、ぐんぐんと加速していく。
骨格が関節ごとバラバラになりそうな感覚になる。義眼が自身の知覚時間を圧縮し、ユーリャの動き一つ一つを克明に映写する。しかし蓮太郎の注意は、銀髪のイニシエーターではなく、その向こうにいるプロモーターへと向いていた。
コンマ一秒以下の世界で、溢れ出る獰猛さで表情の隅まで塗り潰した男と、視線が交錯した。その血走った虹彩の奥で燃え盛る焔に、体が、覚悟が滅却されてしまいそうになる。
ユーリャとすれ違う瞬間、直上から彗星のごとく飛来した延珠が、編み上げ靴の底を地面へ叩きつけた。靴底に仕込まれたバラニウムの鉄板が、爆砕音を奏でる。タイムラグさえもなく床材のコンクリートが捲れ上がり、それはすぐに礫の津波へと変貌した。
「――ユーリャあああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――ッッ!!」延珠の怒号が、あらゆる障害を貫いて迸り、ユーリャへと突き込まれる。
少女達の激突を視覚の端で見届け、蓮太郎はすぐさまリトヴィンツェフへと視点を固定した。
今の一瞬の隙間を縫って肉薄してきていたリトヴィンツェフが、慟哭と共にハンマーを振りかぶる。自らを押し潰さんとしている世界の不条理を、こちらから逆に叩き潰す――。漆黒のスレッジハンマーを振るう怪物からは、そんな理不尽に抗う革命者の覚悟が見て取れるようだった。
だが――。
「――――ッ!!」蓮太郎は右拳を引きながら握り込む。超バラニウムの義手の内側を這う人工筋肉が軋み上がり、次いで一気に膨張する。装備者の意思に呼応して、薬室と、その下に残されていたカートリッジ全てに火が灯される。
まとめて撃発。擬似神経を引きちぎるような衝撃が腕の内側で弾ける。
――喰らいやがれッ!!
――天童式戦闘術一の型一五番ッ!
ガトリングガンの炸裂音を思わせる爆音が立て続けに木霊し、腕部に装填されていた薬莢全てが排出。薄く色づいた硝煙も排出口から噴き上がり、役目を終えた空薬莢が最期の輝きを放つ。
踏み砕く勢いで軸足で床を踏みつけ、破壊力の権化と化した右拳を解放。「『雲嶺毘湖鯉鮒・全弾撃発――――――ッッッ!!」
下から捻り込むように放たれた壮絶極まる打ち上げが、今まさに振り下ろされんとしていたスレッジハンマーを捉え切る。拳の背と打突部のシルエットが重なった直後、超新星爆発を想起させるような轟音が鳴り響いた。
蓮太郎とリトヴィンツェフを中心に発生した衝撃波が、周囲一帯の物体へと波及し、万象の輪郭をビリビリと震わせる。
真っ白い閃光が駆け巡り、痛覚をオフにしているはずの右腕が灼熱に包まれる感覚に苛まれる。ガタつく腕に力を込め、自らを追い詰める事象の全部を払い飛ばすように叫ぶ。「うおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!」
残像を棚引かせながら、義手が振り抜かれる。スレッジハンマーごとリトヴィンツェフの腕が弾き飛ばされ、一切の推進力を失う事なく、武器の持ち主の胸部へ喰らいつく。コートの下に着込まれていたボディアーマーを瞬刻の内に粉砕し、生身の肉体に突き刺さる。
リトヴィンツェフの紺碧の眸子がぐるりと反転し、水栓を全開にしたかのごとく喀血する。操り人形の糸が切れるように、四肢がだらりと投げ出され、膝から崩れ落ちていく――。
蓮太郎は荒い呼吸を刻みながら、倒れゆく男を睨めつける。「これで……ッ」
全弾撃発からの直撃。生身で受ければ最後、体細胞から骨、内臓に至るまで無事では済まない。リトヴィンツェフの皮膚と筋肉は文字通り叩き潰され、心臓は破裂同然のダメージを負ったはず。
勝敗は決した。あとは残ったユーリャを撃滅するのみ。
そう確信し、踵を返した――。
「まだだ里見ッ! 奴から目を逸らすんじゃねえッ!!」
「――え」
どすっ、という鈍い衝撃。背中の一点に静電気が走ったような感覚がしたと思えば、それはすぐに炎熱を思わせる痛覚に切り替わった。
「があああッッッ!?」反射的にその場から離れ、痛みに上体を折り曲げながら背後を振り返る。ふらふらと立ち眩みながら血に濡れたナイフを携えるリトヴィンツェフを目の当たりにし、言葉に詰まる。「……――ッなんで……ッ!?」
胸部を陥没させたリトヴィンツェフの視点は、もはやどこにも定まっていなかった。皮膚中のあらゆる箇所から内出血を起こし、人体の許容範囲を超えた負傷を穿たれながらも稼働する様は、まさに亡霊――。
喉が干上がる。「伏せろッ!」というリカルドの一喝が鼓膜を叩き、半ば倒れ込むように伏臥する。ワンテンポ遅れて到着した傭兵は、九ミリ拳銃を連続して撃つ。
命中した凶弾が、リトヴィンツェフの肉体を弾けさせるが、当人はなおも倒れない。
先ほど彼が噛み砕いた錠剤の中に、強力な神経ブロック薬や、麻薬に近い成分の薬剤が含まれていたのかもしれない。
「……まだ、だ……」と意識を朦朧とさせる男は言う。「……まだ……このまま持ち堪えればッ……必ずマークが……私達、を……」
「リトヴィンツェフ……」
「私を殺し……私という呪縛からあの子を解き放つのは……マークだ……。だから私は……今ここで倒れる訳には……!」
うわ言のように溢し続けるリトヴィンツェフに対し、蓮太郎は目許を歪ませながら首を振った。違う。この男が理解していないはずがない。この場に蓮太郎の仲間達が集結した時点で、コンテナ倉庫を防衛していたマーク・メイエルホリドがどんな結末を迎えたかなど、改めて説明されるまでもないはずなのだ。
体も精神もとうの昔に限界を超え、死者から押しつけられた使命感のみによって突き動かされ続けてきた亡者のなれ果て。
蓮太郎は背中の激痛も構わず、今にも泣き出しそうな顔でXD拳銃を持ち上げた。
「――大尉ッ!」直後、背後から金切り声と共にユーリャが突っ込んでくる。延珠の攻撃から逃れ、立ち塞がったSAT達を払い除け、無防備を晒す事も厭わずに一直線に主人の元へと馳せ参じる。
すでにユーリャの負傷は再生が九割型済んでいた。里緒に斬りつけられた側頭部からの出血は止み、ぎこちない動きではあるが左腕も稼働している。
銀髪の少女の後方からSATが短機関銃で銃撃するが、その全てが刹那の内に撃墜される。
血のように紅い瞳孔が肉食獣よろしく閃き、蓮太郎を殺傷範囲に捉える。
もはや彼女を止めるものは何もない。蓮太郎は尋常ならざる焦燥に駆られながら、XDの銃把を握り込んだ。迎撃のために銃口を跳ね上げた瞬間、驚愕に目を剥いたユーリャと目線が交差する。「――なッ……!?」
ユーリャ・コチェンコヴァの横合いに回り込んだリカルドと里緒が、虎の爪の装着された双腕を拘束したのだ。慣性が矮躯を強引に動かそうとするが、傭兵と相棒の少女は、渾身の力で腕を掴み取ったまま踏ん張り続ける。二人の靴底が、凄まじい摩擦力を伴って地面と擦れ合い、焦げた匂いと煙を発する。
「離せえッ!」と銀髪の少女は体面もかなぐり捨てて叫ぶが、決死の表情の傭兵は、「離す訳がねえだろうが!」と吐き捨てる。
彼らが稼いだ一瞬の隙を突いて、内壁を走り伝いながら延珠が襲来。因子の開放と同時に、壁面を蹴り砕きながら陣形直中に突っ込んでくる。鮮紅色を帯びた虹彩が哀愁に潤む。「――ッああああああああッ!!」という苦痛に満ちた雄叫びを上げながら、回転ノコギリのごとく輪転。遠心力の塊と化した右脚部が大気を引き裂き、強烈なソニックブームを発生させる。
勢いそのままに放たれた回転蹴りが、ユーリャの腹部にぶち込まれた。その場にいる全員の耳を聾するほどの破裂音が轟く。「妾がッ――ここでお主を止めてやるッッ――――!!」
激甚な破壊力に巻き込まれてもなおリカルド達は拘束を解かなかった。ユーリャの両肩口から関節の砕ける異音が鳴る。
延珠の右脚が振り抜かれ、解放された莫大な運動エネルギーが問答無用で小さな体を吹き飛ばした。最後まで足止めに徹していたリカルド達も同様に宙空へと投げ出される。
蹴りの勢いを殺し切れず、空中で大きく体勢を崩した延珠が、背中から地面に打ちつけられた。
すでに駆け出していた蓮太郎は、痛みに呻く相棒の横を通り過ぎながら、「あとは任せろ」と内心で告げた。延珠の覚悟を無駄にはしない。これで決める。
ユーリャの潰れた肩関節から伸びる両腕は、もう使いものにはならない。反撃はない。あと一撃――それで終わる。
「――うおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――ッッッ!!」
だが。
まだ末路を受け入れない者がいた。
掠れた喉から理性のなくなった絶叫を走らせながら、スレッジハンマーを携えたリトヴィンツェフが現れる。蓮太郎とユーリャの間に割り込むように仕掛けてきた男は、焦点の定まらない瞳で、それでもなお打ち砕くべき障害の前に立ち塞がる。
「――リトヴィンツェフ」
荒ぶるリトヴィンツェフとは対照的に、蓮太郎の声音は落ち着いていた。
憐憫を滲ませた目で亡霊を見つめながら、黒衣の少年は静かに言葉を紡ぐ。
「もう良い。俺がお前を救ってやる――」
万象を粉砕する怨念の鉄槌が振りかぶられる。それを視界に収めながらも、構わずに『水天一碧の構え』と共に攻撃動作に移行する。
柄を握り込んだリトヴィンツェフが死に物狂いで最後の一撃を放とうとした瞬間――突如として空中から発砲音が木霊する。未だ宙を舞う藤沢リカルドが、驚異的な制動力をもってして銃撃を敢行したのだ。
九ミリ拳銃から放たれた二発のバラニウム弾が螺旋を描きながら突き進み、リトヴィンツェフの肘関節を砕き抜いた。支えを失った両手から、漆黒のハンマーがあっけなく取り落とされる。
何が起きたか理解できていないといった顔で唖然とするリトヴィンツェフへと肉薄し、跳躍して体を半回転――脚部の残り薬莢を全て撃発させる。「天童式戦闘術二の型一一番――」
「ぶちかませええええええええええええええええええええええええええええええッッ!! 里見いいいいいいいいいいいいいいいいいいいい――――――――――――――ッッッッッ!!」
全ての景色を置き去りにしながら、爆発的推進力を得た右脚が振るわれる。
「『隠禅・哭汀! 全弾撃発』――――――――――ッッッッ!!」
全てを乗せたオーバーヘッドキックが炸裂し、ブラッククロームの義足爪先が的確にリトヴィンツェフの鳩尾を捉えた。肉も骨も砕き尽くし、甚大な威力に任せて体を吹き飛ばす。リトヴィンツェフは自身の背後にいたユーリャに背中から激突し、諸共コンクリートの地面を何度もバウンドする。
『スコーピオンの首』の収まる円筒形容器付近に叩きつけられた二人は、ぐったりと四肢を投げ出したまま動かなくなった。
先刻までの喧騒から一転。周囲は耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
小刻みに呼吸をする蓮太郎は、オーバーヒート寸前の右脚を引き摺りながら亡霊へと近づく。「……なあ」と眼前の男へ呼びかける。「アンタ言ってたよな。俺に、恐怖を怒りでマスキングしてるって――」
リトヴィンツェフからの応答はない。
構わずに黒衣の少年は続きを口にする。
「そっちだって同じだろ。天秤宮のウィルスに冒されていく目先の恐怖を、全てを巻き込んだ自殺っつう高揚感で塗り潰していただけなんじゃないか」
「……どうだろうな」やがて、息も切れ切れにリトヴィンツェフは答えた。
自嘲気味に笑う亡霊の顔は、少しだけ憑き物が落ちたように見えた。