その一報に、聖天子は肩の荷が降りていくのを実感した。
過度な緊張に晒され続けていた手足から、急激に力が抜けていく。
思わずその場に大の字で寝転がってしまいたい衝動に駆られながらも、まだやるべき事があると自らを律する。雑念を振り払うように、頭を左右に勢い良く振って、緩みかけた口許の筋肉を引き締め直す。
「稲生首相」と凜とした声色で、仙台の指導者に呼びかける。「今しがた聖居から連絡がありました。――那須鉱山に突入した民警と傭兵、そして駆けつけた警察特殊部隊がリトヴィンツェフ一派を鎮圧。『スコーピオンの首』と『ソロモンの指輪』を奪還しました」
その言葉に、稲生は僅かに目を丸くした。やがて事態を理解したのか、「はははははははははははッ!!」と高らかに笑い始める。「なるほど! これは一本取られたよ! お前さんは最初から時間稼ぎが目的だったという訳か!」
「……はい」と聖天子は控えめに首肯した。「騙すような形になってしまい申し訳ございません」
「構わん」稲生は満足げに否定する。それから自身の顎を撫でつけながら、「作戦に参加した民警は奴か? 名前は確か……そう、里見蓮太郎だ」と聖天子を見やった。
聖天子は再び首肯で返す。
「ずいぶんと頼り甲斐のある矛を手中に収めたものだ」と稲生は一人で頷きながら、「全く、いつかのあいつを思い出すよ」と笑った。
「あいつ……?」
聖天子が訝しげに首を傾げると、稲生は、「ああ」と答える。「先代聖天子。あいつにもいたのさ。一心に信頼を寄せる民警がな。あいつのやってきた無茶は全て、その民警の後ろ盾あってこそだった」
「初耳です……私はそんな話、一度も……」
「そりゃそうだろう。一国の統治者として、言論で戦う事を是としてきた人間が、その実武力にも頼っていた――そんな事、無垢なお前さんに教えるはずがない」
「…………」
「懐かしいな」と遠い過去を眺望するように、仙台の統治者は目を細める。「彼らは今どこにいるのだろうな。先代がいなくなってから、一度も姿どころか、噂さえ聞いた事もない。まるで最初から、そんな連中などいなかったかのように――」
「稲生首相……あなたはいったいどこまで先代聖天子の事を知って……」
「お前さんに付き従ってる老骨には及ばんさ」と自嘲気味な返事が返ってくる。「しかし……くははッ。やはりというべきか何というか――あの天童菊之丞は何も話したがらないか。全く、これだから年寄りは碌でもない。まあ、それを言ったら俺も大して変わらんが」
豪快に笑い始める男を、聖天子は何かに縋るように見つめる。「あのッ」と呼びかけようとしたところで、不意に笑みが引っ込み、すでに男の瞳には狡猾な政治家の色だけが灯っていた。
息を飲む聖天子に対し、稲生紫麿は端的に言う。「これより仙台エリアから自衛隊及びガストレア研究員を那須鉱山に派遣する。構わんな?」
「えッ、その……」
「何を惚けている。天秤宮のウィルス嚢が破裂するまで、もう一刻の猶予もない。すぐに『首』と『指輪』を解析し、ゾディアックを制御下に置かねばならん。お前さんも早く動け。この件は東京と仙台共同ですぐさま片をつける。でなければ、この状況を静観している他エリアや列強国が痺れを切らして、いらぬ事態を招くやもしれん」
もう話す事はないとばかりに、一方的に会話が打ち切られる。眼前に投影されていた稲生のホログラムが微動だにしなくなり、あっという間に光の粒となって消えていく。
その光景を見届けながら、聖天子は短く息を吸って自身の頬を叩いた。
直後に背後の扉が勢い良く開け放たれ、天童菊之丞や木更、片桐兄妹が雪崩れ込んでくる。
開口一番、血走った表情の菊之丞が叫ぶ。「聖天子様ッ! すぐに東京エリアを脱出する準備をしてくださいッ!!」
通信を切った事で、聖天子のホログラムが消える。
薄暗く、だだっ広い会議室の中央で佇む稲生紫麿は、不敵な笑みと共に身を翻した。「すまんすまん。ずいぶん長く待たせてしまった」と闇の向こう岸へと言葉を投げかける。「さて――私に何用かな? お嬢さん。まあ、改めて言われずとも予想はつくがね」
「……この状況が理解できていないのですか」暗闇のさなかで、華奢な輪郭がゆらりと動く。澄み渡るソプラノの声音は、声の主がまだ年端もいかぬ子供である事を突きつけてくる。「この辺り一帯の警備は全員無力化しました。稲生首相――もうあなたに逃げ場はありません」
「無力化だと? ははッ! 嘘は良くない!」笑い声を洩らしながらも、稲生の表情筋は全く動いていない。「――皆殺しの間違いだろ」
「……どちらにしても同じ事です」
「誰の差し金だ? ……ああいや、別に答えなくて良い。さっき言った通りだ、おおかた予想はつく。――斉武だろう? かつてティナ・スプラウトを使って聖天子を暗殺しようとしたように、今度は私を混乱のどさくさに紛れて殺ろうという訳だ。私の推測は間違っているかね? 『NEXT』の最高傑作にして序列二一位――リタ・ソールズベリーよ」
「…………」
「沈黙は肯定と受け取るが?」
稲生が研ぎ澄まされた眼光を刺し込むが、暗幕の向こうから返ってきたのは、呆れたような溜息だった。
「……その情報網には感服いたしますが」と少女は――リタ・ソールズベリーは感情の読めない声で切り出す。「もう一度言いましょうか? この状況が理解できていないようですね。あなたを守る盾はもうありません。逃れられぬ死の運命を前にして、なぜまだ冷静でいられるのですか――?」
「エインのラブドールごときには分からんだろうよ」稲生は侮蔑を込めて吐き捨てた。
対峙する少女から、怜悧な殺意が放射される。
機械化兵士施術を施された呪われた子供達を前に、やはり稲生の表情が崩れる事はない。
「リタ・ソールズベリー――お前さん、さっき警備は全員黙らせたと言ったな? まずそれが間違いだ。そして、それが分かっていない時点で、その鈍の刃が私の心臓に届く事はないのだよ」
「……!」
足音はなかった。
稲生の背後から幾人もの武装した兵士達が現れる。今までどこに身を潜めていたのか、どうやって息を殺していたのか――その全てが何も知らない第三者には想像もできぬほどに、余りにも突然に、そしてそこにいるのが必然かのように、彼らは泰然とした出で立ちで小銃を構える。
混じり気のない純白の軍服に、同色の目出し帽とヘッドギアを被り、目許はゴーグルで囲われているため一切確認できない。
それぞれが携える小銃は、既存のデザインとは大きく異なり、一人一人独自のカスタマイズが施されている。それだけが、統一された服装の彼らを見分ける唯一の記号となっていた。
「仙台エリア自衛隊、首相直属最精鋭部隊『白兎部隊』」と稲生は告げる。「実力は折り紙つきだ。ステージⅣクラスのガストレアだろうと、高序列のイニシエーターが相手だろうと、簡単にやられる連中じゃないぞ」
「…………」
「せっかく世界が面白い方向に進もうとしているんだ。こんなところで倒れる訳にはいかんのだよ。さあどうする? 五翔会。どちらの『作品』が優れているか、今ここで試してみるか?」