「……何を……言ってやがる……ッ!?」黒衣の少年の途切れ途切れの声に、リカルドも含めた、その場にいる全員が息を飲む。
ぐったりと項垂れる全ての黒幕たる男は、「……聞こえなかったか?」と挑発するように告げた。「残念ながら、もう天秤宮が活動を止める事はない。私がそうプログラムした。私達とお前達が繰り広げていたのは壮大な茶番でしかなかったのさ」
「プログラム……?」とリカルドは胸中に浮かんだ疑問をそのまま吐露する。「『ソロモンの指輪』はガストレアと意思疎通を図るための装置だろ? そいつに命令を強制する機能でもあったって事か?」
「『指輪』じゃない」リトヴィンツェフはすかさず否定した。「重要なのは『首』の方だよ」
「スコーピオンの声帯が?」
リカルドの問いに、首肯が返ってくる。
「お前達も知っての通り、『ソロモンの指輪』はまだ研究段階の代物だ。これ単品でガストレアとの交信ができた事例はほぼない。それは相手が天秤宮であっても同じだった。……私がやった事は簡単だ。天秤宮に天蠍宮が生きていると誤認させ、その内に秘めたかつての意思を刺激したのさ」
「…………ッ!」
蓮太郎が冷や汗を噴き出しながら絶句するのを横目に、リカルドは一歩前へと出る。「どういう事だよ!? その言い方じゃまるで……!」
「……ふっ」とリトヴィンツェフが短く笑う。もたげていた頭が静かに持ち上がり、真っ赤に充血した眼球が露わになる。血の滴る口角を吊り上げ、「教えてやったらどうだ?」と黒衣の少年を見やる。「今の序列なら、ある程度の情報にもアクセスできているだろう。それに蛭子影胤テロ事件の際、お前は間違いなく『あれ』を見ているはずだ」
「……それッ、は……!」
「里見、何か知ってるのか?」
リカルドや里緒、磯貝の視線が一斉に蓮太郎へと注がれる。
歯噛みする少年は僅かな逡巡ののちに、おもむろに口を開き始めた。「俺もまだ……確信を持ってる訳じゃない」と苦々しく切り出す。「ステージⅤの……ゾディアック・ガストレアの正体は――変異した人間かもしれないんだ」
「は――」リカルドは頭をハンマーでぶん殴られたような錯覚に陥った。「……嘘、だろ……?」
「『七星の遺産』……影胤の奴がスコーピオンを召喚する触媒に使ったものを俺は見た事がある」少年の目があからさまに泳ぐ。その行動が、次に紡ぐ言葉の意味の重さを否応なしに示していた。やがて、「……壊れた三輪車だった」と彼は言った。「何の変哲もない……ただの……」
「それが……ステージⅤが元人間だとする根拠か?」
蓮太郎はかぶりを振る。「さっきも言った通り、確信がある訳じゃない。俺の持ってるアクセスレベルじゃ、そこまでの事は分からなかった。けど……俺にはあの三輪車がガストレアそのものにとって特別な意味を有していたとは、とてもじゃないが思えないんだ」
立ちこめる不穏な空気に当てられたのか、全員の口許が引き結ばれる。
その時だった。「――アンドレイ・リトヴィンツェフ。お前は真相を知っているのか」と磯貝が短機関銃の銃口を突きつけながら問いかけた。「お前の民警許可証がまだ効力を持っていた時のIP序列は七七位だったな。今の蓮太郎よりも上だ。お前は何を知っている?」
「ははッ。私が真相に辿り着いていたとして――それをおめおめと教えてやる義理があると思うか?」
「言っておくが、そちらが死なない程度に銃弾を叩き込む事に抵抗はないぞ」
「試してみるか?」
促すようなリトヴィンツェフの視線に、磯貝は銃口を下げる事で応えた。「お前を倒したのはこの少年だ。警察にどうこうする権利はない」
白人の男はつまらなさそうに鼻を鳴らす。
――リトヴィンツェフが簡単に口を割るとは思えない。
リカルドは内心で現状を分析する。
――いずれにせよ、天秤宮召喚の真相は闇の中って訳か……。
「里見」と黒衣の少年を呼ぶ。「もう一度聖居に連絡してくれ。ウィルスの放出まで、もう時間がない。万が一の場合、聖天子様を東京エリアから脱出させないといけない」
蓮太郎が携帯電話を取り出そうとしたところで、SATの広野が制止して言った。「聖居への報告は俺達でやる。あんた達は引き続きリトヴィンツェフから情報を引き出してくれ」
端に歩いていく広野と磯貝を見送り、リカルド達は再度リトヴィンツェフを注視する。
目の充血は言わずもがな、発汗や血管の隆起も再発しており、もはや息をするのもやっとの状態に見えた。
「……最期に教えろよリトヴィンツェフ」と蓮太郎は言う。「お前の復讐に意味はあったのか? 自分達がされた事を何の関係もない人間に無理矢理押しつけて……それでいったい誰が救われるって言うんだよ……!?」
「……くくく。違う。違うな里見蓮太郎。私達が求めていたのは救いなんかじゃない」
「じゃあ……!」
リトヴィンツェフは掠れた声で告げる。「お前の言葉を借りるなら、私は……私達が救われなかった意味が欲しかったのさ」
「何だよそれ……! 理解、できねえよッ」
「何度でも言うさ。理解など求めていない」そう言ってリトヴィンツェフは天井を仰いだ。一面コンクリートの灰色しか広がっていないにも関わらず、まるで陽光を眇め見たように目を細める。「……長かった」と独りごちる。「これで、安心して地獄に行ける」
「勝手な事言ってんじゃねえよッ!」と激昂と共に少年はリトヴィンツェフの胸ぐらを掴み上げる。「自分だけで満足してんじゃねえ! 貴様の見限った世界は! 俺達にとっては生きるに値する場所だッ! そんな身勝手な理由で消費されて良い訳がないッ!!」
「ならどうする? 今から天秤宮と戦いに行くか? 近づく前に病原菌を撒き散らされて死ぬだろうがな」
「……ッ!」憤怒の表情で前歯を噛む蓮太郎。彼はリトヴィンツェフの襟から手を離しながら、「……もう、打つ手はないのか」と俯く。「このまま天秤宮が東京と仙台を滅ぼすのを見ているしか……」
「――いいや、まだ方法はある」突如、背後で野太い声がする。リカルドと蓮太郎が振り向くと、ボロボロのタンクスーツの巨漢が近づいてくるところだった。
「伊熊さん……」「将監……」
「俺が天秤宮と戦う」と伊熊将監は躊躇いなく宣言した。「俺の体は半分ガストレアだ。あのステージⅤがぶち撒けるウィルスは人間にしか効かねえんだろ。なら話は簡単だ。――俺なら、奴の撒く病原菌の弾幕を縫って近づける」
「なッ……」と狼狽を見せたのは蓮太郎の方だった。「何言ってんだ!? 相手はステージⅤだ! そもそもの戦闘力からして、他のガストレアとは違う! それにッ――」
「半分がガストレアだって言うなら、もう半分は人間だ」リカルドが言う。「仮にウィルスからの即死を免れたとしても、被弾した以上無事でいられる保証はない。天秤宮のウィルスは因果律を捻じ曲げるみたいに、必ず人間を死に至らしめる」
「……声が聞こえたんだよ」不意に将監は呟く。
「声……?」
蓮太郎が問い返すと、将監は慇懃に頷く。
「ガストレア因子に頭を支配されてた時からずっと……俺には天秤宮の声が聞こえてた。そいつは言語の体すら成してねえ叫びに近かったが、理性を取り戻した今なら分かる。あのガストレアは助けを――救いを求めてる。断言できる。俺なら奴を止められる」
将監の言葉に嘘を言っている気配は感じられない。少なくとも、彼が確信を持って推論を語っているのは間違いなさそうだった。
しかし、「……駄目だッ」と黒衣の少年は絞り出すように否定した。「仮に天秤宮を止められたとして……アンタはどうなるッ!? 三ヶ島社長は未搭載領域に乗り込んでまでアンタを助けようとしていたんだぞ! あの人の思いは無駄にするつもりか!?」
「……悪いとは思ってる」将監は歯切れ悪く答えた。「だがな」と首筋を乱暴に掻く。「一度自我を取り戻したからこそ、はっきりと分かる事がある。俺は――近い内、またガストレア因子に飲み込まれる」
「え……?」
「三ヶ島さんが投与したAGV試験薬は、確かに俺の中にあった因子を押さえ込んだ。だがそれも一時的なもんだ。……分かるんだよ」と将監は自身の胸に手を当てた。「この中に巣食ったガストレアは、今も俺を食い潰そうとチャンスを窺ってる」
「…………」
「良いか。俺は死者だ。伊熊将監っつう民警は、あの作戦の時に死んだんだ。ここに立ってんのは、そいつの記憶を持っただけの別人だ」
「そんな事ッ――」
蓮太郎が反論しようとするが、将監は被せるように断じる。
「俺はガストレアだ。そして人類の敵だ。それ以上の何もんでもねえ」
「…………ッ!」
これ以上の問答は必要ないと言わんばかりに、熊のごとき大男は踵を返した。右手に携えた大剣を肩で担ぎ、ゆっくりとした足取りで、自身の開けた天井の穴へ向かって歩いていく。
「将監ッ……!」
「ああ、そうだ」と男は振り返る事なく言う。「夏世の最期を見届けたのはお前なんだってな。……あいつは何て言ってた?」
「…………夏世は……アンタが無事だと信じたまま逝ったよ。……世界を救ってくれって……それだけを言い残して……」
「そうか」と短く答える。「……一つ頼まれてくれや。三ヶ島さんと谷塚のガキによろしく言っといてくれ」
「……ああ、分かった」
将監は礼も言わず、後ろ手に手を振って応えた。「そういや、お前、里見っつったか」と思い出したように黒衣の少年の名を呼ぶ。「ちょっとばかし良い目になったじゃねえか。……夏世の遺言、絶対に無碍にすんじゃねえぞ」
床材を蹴り砕き、跳躍する将監。一飛びで天井の出入口に舞い戻ると、無言のまま奥に消えていく。
その様を見届け、リカルドは、傍らで唇を引き結ぶ少年を見やる。「里見、生き残った連中を連れて脱出するんだ。天秤宮と伊熊さんがぶつかるんなら、おそらく――ここも長くは保たない。屋外採掘場付近に、警視庁のヘリが待機してる」
リカルドの言葉に対し、蓮太郎は何かが引っ掛かったような表情を浮かべた。「藤沢さんは……?」
「――俺は、ここに残る」とリカルドは迷わずに言い放った。「まだやるべき事があるんでな」