肌を撫でつける夜風が不思議と心地良かった。夜明けを目前に控えた東の空は、薄らと色を取り戻しつつあり、滲み出す暖色の光が、闇に慣れた目に染み入るようだった。
「人生の最期を飾るには絶好の日だな」言葉とは裏腹に、そこには何の感慨も込められてはいない。伊熊将監の赤熱する両目には、ただ討ち倒すべき障害の全容だけが写っていた。
環形動物と酷似した縦長の体。グロテスクな躯体の両サイドからは、いくつもの体節に分かれた脚が無数に伸びており、そのどれもが生理的嫌悪を催させる不気味な挙動をしている。一際太い前肢は鎌状になっていた。
「……あれが天秤宮のウィルス嚢か。気持ち悪い。見ているだけで吐きそうだ」
ガストレアの下腹には、蠢く袋状の部位が大量に散見される。蛙の卵をスケールアップしたような不気味極まる物体。その全てに、人類を例外なく致死に至らしめる未知の病原菌が内包されているのだ。
パンパンに膨れ上がった体組織は今にもはち切れそうで、目にした者に根源的な恐怖心を植えつけてくる。
手にした大剣を夜空に掲げ、柄を砕けんばかりに握り込む。緩慢ではあるが、迷いのないはっきりとした動きと共に、剣の切先を一点へと突きつける。那須鉱山頂上に鎮座する『疫病王』の名を冠するガストレアは、山肌を削りながら頭部を旋回させ、こちらを睨めつけてくる。
特有の赤く発光する虹彩が闇夜を照らし出す。左右で大きさの異なる眼球が、それぞれ意思を持っているかのごとく別々に動く。双眸の下側に開いた口からは、黄ばんだ前歯と粘液に塗れた舌が覗く。
「さあ行くぜゾディアック。地獄までの道中、俺がお前を楽しませてやるよ」
腰を落とし、壊れたブーツの底で地面を蹴り抜く。一瞬にしてトップスピードに達した躯体が、一直線に天秤宮へと迫っていく。
『スコーピオンの首』が浮かぶ円筒形容器の後ろにあったのは、何の変哲もないノートPCだった。本体側面のUSBポートには、変換ハブが刺さっており、それを介して大量のケーブルが伸びている。容器下部には一〇を超える接続端子が備えつけられており、ハブから延長するケーブルは全てそこに繋げられていた。
PCのモニターには、いくつかのウィンドウが表示されている。音声編集ソフトのような波形を表示し続けるもの、数値パラメータが一秒単位で変化するもの、そして那須鉱山頂上に鎮座するゾディアック・ガストレア『疫病王』天秤宮をリアルタイムで映し続けるもの――。
すでに天秤宮と将監の一騎討ちの火蓋は切られている。近い内に、カメラ映像には惨憺極まる殺し合いの様が映写される事だろう。
――数値は、おそらく『首』のバイタルサイン……。波形は『指輪』を介して翻訳された天秤宮の声ってところか……。
表示された情報の解析そのものは外部に委託してある。今現在、室戸菫を始めとするガストレア研究者や、司馬重工の解析班、警察機関の専門家達が血なまこになって、ステージⅤを止める方法を探しているはずだ。
リカルドにできるのは、専門家達が導き出した解をパラメータに入力する事のみ。門外漢には、現地での実行要員くらいしか担える役目はないのが正直なところだった。
――まあ、おかげで……。
――時間は十分にある訳だ。
一息つくと、リカルドは画面から目を離して踵を返す。
すでに仲間達はいない。唯一残っていた藍原延珠も、つい先ほど黒衣の少年達のあとを追って出て行ったところだった。
「……良かったのか」横合いから息も絶え絶えのリトヴィンツェフが問うてくる。
「構わないさ」とリカルドは短く応じる。「新しい時代を作る世代に、意思を託せた。敗残兵の役割はここで終わりだよ」
リトヴィンツェフは苦笑する。「その言葉、自分自身にだけ言い聞かせている訳ではないな?」
「ああ。おたくにも言ってる」
「本気であのガストレアもどきが天秤宮を葬れると思っているのか?」
「全員で希望を繋いできた。里見がこじ開けた扉は、必ず未来へ続いてる」
「…………」
押し黙ったリトヴィンツェフは、白濁し始めた瞳孔で、リカルドの方を見つめてくる。「何だよ」と訊くと、「なぜだ」という問いが返ってきた。「なぜ……その先に自分がいない事に耐えられる?」と声のトーンが一段落ちる。「私は受け入れられなかった。命を賭して国のために戦い、その先に得られたものが敗北者としての烙印と、病理に蝕まれ滅びゆく運命だった事に……」
「――……はははッ」リカルドの口から、砂漠のごとく渇いた笑いが溢れた。「さすがは大義のために生きた高貴な軍人様だ。俺みたいな傭兵とは格が違うね」
「何を言っている……?」
突如としてリカルドの纏う空気が変わった事で、リトヴィンツェフの表情に翳りが灯る。
「リトヴィンツェフ、俺が何でこの戦いに参加したか知ってるか?」傭兵は抑揚のない声で投げかけながら、腰に手を回す。鋭利な金属がスライドされる硬質な音が流れる。「里見と一緒に戦っていく中で、確かに別の感情は芽生えた。それは嘘じゃない。何を犠牲にしても里緒ちゃんを守りたいと願った。もちろん、それも嘘じゃない。けどな――俺が武器を握った原点、そこで燃え滾るもんこそが最も俺を突き動かしてここまで連れてきた」
連戦に次ぐ連戦で刃溢れしたバラニウム製ダガーナイフを、くるりと手の中で弄びながら、藤沢リカルドはリトヴィンツェフの傍らで屈み込む。
「復讐だよ」と吐き捨てる。「テメエは横島を殺し、美梨ちゃんを苦しませて、里津ちゃんと里緒ちゃんの未来を引き裂いた。他人の不幸で腹を満たすおたくらをこの手でぶち殺すために、俺はあの夜から走り続けてきたんだよ。里見にだって譲る気はねえ。こいつは俺だけの自己満足だ」
「傭兵……貴様……」
「――アンドレイ・リトヴィンツェフ。ユーリャ・コチェンコヴァ。最期に耳かっぽじって良く聞きやがれ。他人様の人生踏み躙っておいて、楽に死ねると思うなよ。泣いて叫べ。全身全霊で命乞いしろ。その全てを捻り潰して、最低のフィナーレをくれてやる」