ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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 肌を()でつける夜風(よかぜ)が不思議と心地(ここち)()かった。夜明けを目前に控えた東の空は、(うっす)らと色を取り戻しつつあり、(にじ)み出す暖色の光が、闇に慣れた目に()み入るようだった。

「人生の最期を飾るには絶好の日だな」言葉とは裏腹に、そこには何の感慨(かんがい)も込められてはいない。伊熊(いくま)将監(しょうげん)の赤熱する両目には、ただ討ち倒すべき障害の全容だけが写っていた。

 環形(かんけい)動物と酷似した縦長の体。グロテスクな躯体(くたい)の両サイドからは、いくつもの体節に分かれた脚が無数に伸びており、そのどれもが生理的嫌悪を催させる不気味な挙動をしている。一際太い前肢(ぜんし)は鎌状になっていた。

「……あれが天秤宮(リブラ)のウィルス(のう)か。気持ち(わり)い。見ているだけで吐きそうだ」

 ガストレアの下腹には、(うごめ)袋状(ふくろじょう)の部位が大量に散見(さんけん)される。(かえる)(たまご)をスケールアップしたような不気味極まる物体。その全てに、人類を例外なく致死(ちし)(いた)らしめる未知の病原菌(びょうげんきん)が内包されているのだ。

 パンパンに(ふく)れ上がった体組織は今にもはち切れそうで、目にした者に根源的な恐怖心を植えつけてくる。

 手にした大剣(バスターソード)を夜空に(かか)げ、(つか)(くだ)けんばかりに握り込む。緩慢(かんまん)ではあるが、迷いのないはっきりとした動きと共に、剣の切先(きっさき)を一点へと突きつける。那須鉱山(なすこうざん)頂上に鎮座(ちんざ)する『疫病王(えきびょうおう)』の名を(かん)するガストレアは、山肌を削りながら頭部を旋回(せんかい)させ、こちらを()めつけてくる。

 特有の赤く発光する虹彩(こうさい)が闇夜を照らし出す。左右で大きさの異なる眼球が、それぞれ意思を持っているかのごとく別々に動く。双眸(そうぼう)の下側に開いた口からは、黄ばんだ前歯と粘液(ねんえき)(まみ)れた(した)が覗く。

「さあ行くぜゾディアック。地獄までの道中、俺がお前を楽しませてやるよ」

 腰を落とし、壊れたブーツの底で地面を蹴り抜く。一瞬にしてトップスピードに達した躯体(くたい)が、一直線に天秤宮(リブラ)へと迫っていく。

 

 

『スコーピオンの首』が浮かぶ円筒形(えんとうけい)容器の後ろにあったのは、何の変哲(へんてつ)もないノートPCだった。本体側面のUSBポートには、変換ハブが刺さっており、それを介して大量のケーブルが伸びている。容器下部には一〇を超える接続端子(たんし)が備えつけられており、ハブから延長するケーブルは全てそこに繋げられていた。

 PCのモニターには、いくつかのウィンドウが表示されている。音声編集ソフトのような波形(はけい)を表示し続けるもの、数値パラメータが一秒単位で変化するもの、そして那須鉱山(なすこうざん)頂上に鎮座(ちんざ)するゾディアック・ガストレア『疫病王(えきびょうおう)天秤宮(リブラ)をリアルタイムで映し続けるもの――。

 すでに天秤宮(リブラ)将監(しょうげん)一騎討(いっきう)ちの火蓋(ひぶた)は切られている。近い内に、カメラ映像には惨憺(さんたん)極まる殺し合いの様が映写される事だろう。

 ――数値は、おそらく『首』のバイタルサイン……。波形は『指輪』を介して翻訳(ほんやく)された天秤宮(リブラ)の声ってところか……。

 表示された情報の解析そのものは外部に委託(いたく)してある。今現在、室戸菫(むろとすみれ)を始めとするガストレア研究者や、司馬重工(しばじゅうこう)の解析班、警察機関の専門家達が血なまこになって、ステージⅤを止める方法を探しているはずだ。

 リカルドにできるのは、専門家(スペシャリスト)達が導き出した解をパラメータに入力する事のみ。門外漢(もんがいかん)には、現地での実行要員くらいしか担える役目はないのが正直なところだった。

 ――まあ、おかげで……。

 ――()()()()()()()()()()

 一息つくと、リカルドは画面から目を離して(きびす)を返す。

 すでに仲間達はいない。唯一(ゆいいつ)残っていた藍原(あいはら)延珠(えんじゅ)も、つい先ほど黒衣の少年達のあとを追って出て行ったところだった。

「……良かったのか」横合いから息も絶え絶えのリトヴィンツェフが問うてくる。

「構わないさ」とリカルドは短く応じる。「新しい時代を作る世代に、意思を(たく)せた。敗残兵(はいざんへい)の役割はここで終わりだよ」

 リトヴィンツェフは苦笑する。「その言葉、自分自身にだけ言い聞かせている訳ではないな?」

「ああ。おたくにも言ってる」

「本気であの()()()()()()()()天秤宮(リブラ)(ほうむ)れると思っているのか?」

「全員で希望を(つな)いできた。里見(さとみ)がこじ開けた(とびら)は、必ず未来へ続いてる」

「…………」

 押し黙ったリトヴィンツェフは、白濁(はくだく)し始めた瞳孔(どうこう)で、リカルドの方を見つめてくる。「何だよ」と()くと、「なぜだ」という問いが返ってきた。「なぜ……その先に自分がいない事に耐えられる?」と声のトーンが一段落ちる。「私は受け入れられなかった。命を()して国のために戦い、その先に得られたものが敗北者としての烙印(らくいん)と、病理(びょうり)(むしば)まれ(ほろ)びゆく運命(さだめ)だった事に……」

「――……はははッ」リカルドの口から、砂漠のごとく(かわ)いた笑いが(こぼ)れた。「さすがは大義のために生きた高貴(こうき)な軍人様だ。俺みたいな傭兵(ゴロツキ)とは格が違うね」

「何を言っている……?」

 突如としてリカルドの(まと)う空気が変わった事で、リトヴィンツェフの表情に(かげ)りが(とも)る。

「リトヴィンツェフ、俺が何でこの戦いに参加したか知ってるか?」傭兵は抑揚(よくよう)のない声で投げかけながら、腰に手を回す。鋭利(えいり)な金属がスライドされる硬質な音が流れる。「里見と一緒に戦っていく中で、確かに別の感情は芽生(めば)えた。それは嘘じゃない。何を犠牲にしても里緒(りお)ちゃんを守りたいと願った。もちろん、それも嘘じゃない。けどな――俺が武器を握った原点、そこで燃え(たぎ)るもんこそが最も俺を突き動かしてここまで連れてきた」

 連戦に次ぐ連戦で刃溢(はこぼ)れしたバラニウム製ダガーナイフを、くるりと手の中で(もてあそ)びながら、藤沢(どうざわ)リカルドはリトヴィンツェフの(かたわ)らで(かが)み込む。

()()()()」と吐き捨てる。「テメエは横島(よこじま)を殺し、美梨(みり)ちゃんを苦しませて、里津(りつ)ちゃんと里緒(りお)ちゃんの未来を引き裂いた。他人の不幸で腹を満たすおたくらをこの手でぶち殺すために、俺はあの夜から走り続けてきたんだよ。里見(さとみ)にだって(ゆず)る気はねえ。こいつは俺だけの自己満足だ」

「傭兵……貴様……」

「――アンドレイ・リトヴィンツェフ。ユーリャ・コチェンコヴァ。最期に耳かっぽじって良く聞きやがれ。他人様(ひとさま)の人生踏み(にじ)っておいて、楽に死ねると思うなよ。泣いて叫べ。全身全霊(ぜんしんぜんれい)命乞(いのちご)いしろ。その全てを(ひね)(つぶ)して、最低(最高)のフィナーレをくれてやる」

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