不可解な感覚だった。つい先刻まで体内を蹂躙し尽くしていた、暴力的な苦痛は何処かへと消え去っていた。
「――ここに来るまで、ずいぶんと時間がかかりましたね。全く待ちくたびれましたよ」
不意に耳を突く懐かしい声。それに導かれるように、ゆっくりと瞼を開ける。
落ち着いた色合いの長袖ワンピースを身に纏った少女が、編み込みのあるブロンドヘアを揺らしながら、こちらを見つめていた。
「……あ」知っている顔だった。ガストレアウィルスに体を蝕まれ、あらゆるものを失い続けながらも、決して忘れなかった一つの記憶。その象徴が、今目の前で佇んでいる。「夏世……」と少女の名を呼ぶ。
「はい、将監さん。お久しぶりです」千寿夏世は小さな口許を綻ばせて応じた。
将監は周囲を見回す。辺りには何もない。白一色の無が見渡す限り、どこまでも続いている。匂いもなく、ここが屋内なのか屋外なのかさえ判然としない。
「……? どうしました?」と夏世が訝しげにこちらを覗き込んでくる。
「お前は……」将監は言い淀みながらも、言葉を紡ぐ。「ただの幻、だろ。本物のお前はとっくに死んでる。ここにいるのは……死にゆく俺が見ている偽物だ」
「それの何が問題ですか?」
「はあ?」
「私が本物でも偽物でも、もう将監さんには関係ないでしょう? 今さっき将監さん自身が言った通りです。あなたは天秤宮の致死性ウィルスに当てられて肉体ごと朽ち果ててしまいました」
「…………」
「これは走馬灯の代わりですよ。死に際に振り返る思い出もない将監さんへのご褒美です」
言葉に含まれる毒も寸分違わず記憶と合致する。
「こうして話せる時間もごく僅かです。将監さんが死ねば、きっと私も消えてしまうでしょうね」
「……恨んでるか、俺を」
夏世は小首を傾げて、「なぜ、そう思うんですか?」と訊き返してくる。
「俺が……お前に生き方を強制しなければ……お前はあの時死なずに済んだんじゃねえかって……」ずっと胸に渦巻いていた感情を吐露する。「戦う事だけに価値を見出させた。俺達にはそれしかできねえって思わせた。俺はお前に他の道を示してやる事ができなかった。……夏世、お前を殺したのはガストレアじゃなく……俺だったんじゃねえかってッ……!」
「心外ですね。将監さんはそんな風に思ってたんですか」やや驚いた様子を見せながらも、幼い少女はあっけらかんと返していた。「私は将監さんのイニシエーターになった事を後悔した事なんて一度だってありませんでしたよ。粗暴で、戦い方も前時代的で、脳味噌まで筋肉でできたような戦闘狂で――――」
でも、と夏世は儚げに微笑んで続きを口にする。
「――私はそんな不器用な将監さんが嫌いじゃありませんでしたよ」
「はは……ずいぶんと俺に都合の良い幻想だな」
「お互い様でしょう? あなたが私にとって都合の良い『罪悪感の逃げ場所』になってくれたから、私は人殺しになっても生きてこれた」
「……夏世」
「最期くらい私のプロモーターとして胸を張ってください」そう言って少女は自らの腕を伸ばして、将監の手首を掴んだ。「――正しいのは私達、そうでしょう?」
「……そうだな」
夏世に手を引かれるがままに歩き出す。
二つの靴音だけが何もない空間に反響する。上下左右、どの方向を見渡しても地平線さえ見えない太虚。だが不思議と自分がどこへ向かおうとしているのかは理解できた。
「そうだ将監さん」と夏世は思い出したように切り出す。こちらに背を向けたまま、幼い少女は楽しそうに言う。「将監さんが突っかかってた里見さん、あの人、友達少ないみたいですよ」
「納得しかねえな。あの不幸面だ。誰もお近づきになんかなりたくねえだろうよ」
「将監さんと似てますね」
「うるせえよ」
こちらの反論を無視して、夏世の声だけが投げかけられる。
「だから私が友達になってあげたんですよ」
「――…………」
「私を撃つ前、里見さんは言ってくれました。『俺はお前を忘れない』って。だから私は安心して逝けました」
「――そうか」
「里見さんはきっと世界を救ってくれます。そしてガストレアのいなくなった新しい時代に、私達の魂を連れて行ってくれる――。その時が来るまで、私達はあるべき場所で彼を待ち続けましょう」
残らない足跡は絶えず続く。
目的地は未だ遥か遠くにある。しかし将監の心にはもう焦燥も寂寥もなかった。
彼女が側にいる限り、無限の時であっても、その心を削り切る事は叶わない。
そんな確信だけが、確かにあった。