ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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 不可解な感覚だった。つい先刻(せんこく)まで体内を蹂躙(じゅうりん)し尽くしていた、暴力的な苦痛は何処(いずこ)かへと消え去っていた。

「――ここに来るまで、ずいぶんと時間がかかりましたね。全く待ちくたびれましたよ」

 不意に耳を突く(なつ)かしい声。それに導かれるように、ゆっくりと(まぶた)を開ける。

 落ち着いた色合(いろあ)いの長袖(ながそで)ワンピースを身に(まと)った少女が、()み込みのあるブロンドヘアを揺らしながら、こちらを見つめていた。

「……あ」知っている顔だった。ガストレアウィルスに体を(むしば)まれ、あらゆるものを失い続けながらも、決して忘れなかった一つの記憶。その象徴(しょうちょう)が、(いま)目の前で(たたず)んでいる。「夏世(かよ)……」と少女の名を呼ぶ。

「はい、将監(しょうげん)さん。お久しぶりです」千寿(せんじゅ)夏世は小さな口許(くちもと)(ほころ)ばせて応じた。

 将監は周囲を見回す。辺りには何もない。白一色の()が見渡す限り、どこまでも続いている。匂いもなく、ここが屋内なのか屋外なのかさえ判然(はんぜん)としない。

「……? どうしました?」と夏世が(いぶか)しげにこちらを(のぞ)き込んでくる。

「お前は……」将監は言い(よど)みながらも、言葉を(つむ)ぐ。「ただの(まぼろし)、だろ。本物のお前はとっくに死んでる。ここにいるのは……死にゆく俺が見ている偽物(ニセモン)だ」

「それの何が問題ですか?」

「はあ?」

「私が本物でも偽物(にせもの)でも、もう将監(しょうげん)さんには関係ないでしょう? 今さっき将監さん自身が言った通りです。あなたは天秤宮(リブラ)致死性(ちしせい)ウィルスに当てられて肉体ごと()()ててしまいました」

「…………」

「これは走馬灯(そうまとう)の代わりですよ。()(ぎわ)に振り返る思い出もない将監さんへのご褒美(ほうび)です」

 言葉に(ふく)まれる毒も寸分違(すんぶんたが)わず記憶と合致(がっち)する。

「こうして話せる時間もごく(わず)かです。将監さんが死ねば、きっと私も消えてしまうでしょうね」

「……(うら)んでるか、俺を」

 夏世(かよ)小首(こくび)(かし)げて、「なぜ、そう思うんですか?」と()き返してくる。

「俺が……お前に生き方を強制しなければ……お前はあの時死なずに済んだんじゃねえかって……」ずっと胸に渦巻いていた感情を吐露(とろ)する。「戦う事だけに価値を見出(みいだ)させた。俺達にはそれしかできねえって思わせた。俺はお前に他の道を(しめ)してやる事ができなかった。……夏世、お前を殺したのはガストレアじゃなく……俺だったんじゃねえかってッ……!」

心外(しんがい)ですね。将監さんはそんな(ふう)に思ってたんですか」やや(おどろ)いた様子を見せながらも、幼い少女はあっけらかんと返していた。「私は将監さんのイニシエーターになった事を後悔(こうかい)した事なんて一度だってありませんでしたよ。粗暴(そぼう)で、戦い方も前時代的で、脳味噌(のうみそ)まで筋肉でできたような戦闘狂(せんとうきょう)で――――」

 でも、と夏世は(はかな)げに微笑(ほほえ)んで続きを口にする。

「――私はそんな不器用(ぶきよう)将監(しょうげん)さんが嫌いじゃありませんでしたよ」

「はは……ずいぶんと俺に都合の良い幻想(げんそう)だな」

「お(たが)(さま)でしょう? あなたが私にとって都合の良い『罪悪感(ざいあくかん)の逃げ場所』になってくれたから、私は人殺しになっても生きてこれた」

「……夏世」

「最期くらい私のプロモーターとして胸を張ってください」そう言って少女は自らの腕を伸ばして、将監の手首を掴んだ。「――正しいのは私達、そうでしょう?」

「……そうだな」

 夏世に手を引かれるがままに歩き出す。

 二つの靴音(くつおと)だけが何もない空間に反響する。上下左右(じょうげさゆう)、どの方向を見渡しても地平線(ちへいせん)さえ見えない太虚(たいきょ)。だが不思議(ふしぎ)と自分がどこへ向かおうとしているのかは理解できた。

「そうだ将監さん」と夏世は思い出したように切り出す。こちらに背を向けたまま、幼い少女は楽しそうに言う。「将監さんが突っかかってた里見(さとみ)さん、あの人、友達少ないみたいですよ」

「納得しかねえな。あの不幸面(ふこうづら)だ。誰もお近づきになんかなりたくねえだろうよ」

「将監さんと似てますね」

「うるせえよ」

 こちらの反論を無視して、夏世の声だけが投げかけられる。

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「――…………」

「私を撃つ前、里見さんは言ってくれました。『俺はお前を忘れない』って。だから私は安心して()けました」

「――そうか」

「里見さんはきっと世界を救ってくれます。そしてガストレアのいなくなった新しい時代に、私達の(たましい)を連れて行ってくれる――。その時が来るまで、私達はあるべき場所で彼を待ち続けましょう」

 残らない足跡(あしあと)()えず続く。

 目的地は未だ(はる)か遠くにある。しかし将監の心にはもう焦燥(しょうそう)寂寥(せきりょう)もなかった。

 彼女が側にいる限り、無限の時であっても、その心を(けず)り切る事は叶わない。

 そんな確信だけが、確かにあった。

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