雲間から差し込む帯状の朝日を眇め見ながら、胸にぽっかりと穿たれた喪失感に打ちひしがれる。
遥か遠方に望む景色には、討伐されて事切れたステージⅤが横たわっている。その様は、ある一人の男の宿願が果たされる事なく潰えた事実を否応なしに示していた。
「――アンドレイ……コチェンコヴァ……」もう二度と会う事は叶わぬ者達の名を呟く。全てから置き去りにされた疎外感が、マーク・メイエルホリドの罅割れた心を無遠慮に締め上げる。
傭兵との死闘の末に敗北したマークは、瓦礫と共に奈落へと叩き落とされるはずだった。両腕を広げて自身を迎えに来た死神を受け入れ、刻一刻と迫る死の感覚を今か今かと待ち侘びていた。
だが――何の因果か、運命はマークを生かす道を選んだ。重力に従って落下し続けていくさなか、不可解な風切り音が鼓膜を叩いたのだ。瞑っていた目を反射的に開けて、音の出どころを探り、それが壁面に備えつけられた換気口である事に気づいた。
その時に脳裏を掠めた感情を、自分自身でも説明できない。気がつけば体は自然と動いていた。コンクリート片や昇降機の柵や欄干――目についたあらゆる物体を足場にして宙空を駆け抜け、マークは手はギリギリのところで換気口の縁を掴んでいた。
「…………」光量を増し始めた陽光に思わず目を細める。
また――死にそびれてしまった。
あの時、生にしがみついたのは自身であるにも関わらず、マークの胸中には粘ついた後悔の感情がつっかえたまま離れない。
茫然自失の状態のまま踵を返して歩き始める。靴底が硬い大地を踏み締める度に、爪先から指先に至るまでが酷く痛む。里見蓮太郎や傭兵との連戦で負った負傷の数々が、全身の痛覚を着々と蝕んでいる。
軍服のジャケットの内側を漁り、応急処置用の神経ブロック薬を取り出すと、そのまま口に含んだ。白い錠剤の表面が唾液で溶け出し、何とも言えぬエグ味が味蕾を刺激する。水もなしに無理矢理嚥下し、袖口で口許を拭う。
樹海の方々から聞こえてくる唸り声は、果たして野生動物かガストレアか。いずれにしても、武器を失い深傷を負った今、攻撃性を向けてくる生物に出会ったが最後、無事で済む保証はない。
そして、ここはガストレアの庭にも等しい未踏査領域。その上、最も近い内地である東京エリアでさえも数百キロ先にある。足となる車両もなく、那須鉱山も陥落した今、人間にとっての安全地帯などどこにもない。
完全なる孤立無援状態であるにも関わらず、不思議と焦りは感じない。
もはや全てがどうでも良かった。
もう自分には何も残っていない。
導くべき仲間も、守るべき子供も、介錯するべき親友も――何もかもが両手から溢れ落ちた。
ハリボテよりも薄っぺらい表層だけになった自分が、この世に存在し続ける意味を見出せない。このままガストレアの餌となって、一片の痕跡さえも残さず果てるのが、敗者に相応しい末路なのではないかとさえ思えた。
その時だった。「――失敗者には死を。それがこの組織における不変の規律だ」突如として、耳腔が意味を成した言葉を捉える。すぐ近くに生きた人間がいるという事実に、元軍人としての本能が、虚脱感さえも上回って反応する。
一瞬にして足音を殺し、自らの発する気配の輪郭を周囲へ溶け込ませ、声の出どころへと近づく。
生い茂った草葉の中に身を隠し、その先に広がる光景に視線を注ぐ。
――あの子は……。
見覚えのある顔だった。飴色の髪を右結びのサイドテールにして、ゴシックロリータに身を包んだ西洋人形のような少女。
間違いない。五翔会のエージェントである継麻貞蔵のイニシエーター、志籐夏樹だ。虚ろな瞳の奥に、言い知れぬ恐怖心を灯した少女は、その場にへたり込んだまま動けなくなっている。
その理由のいくつかは側から見ていても明白だった。
彼女の右腕は肩の付け根から綺麗さっぱり失われており、千切れた袖口には悍ましい量の血が染み込んでいる。
出血そのものも治まっている様子はなく、明らかにバラニウムの武器によって負わされた致命傷だった。適切な処置が施されていない事は自明。もはや右腕の再生は望めないだろう。
そして――半死半生の少女の眼前には、謎の青年が佇んでいた。
すらりとした長身をさらに際立たせる白のロングコートに目許を隠すバイザー。日本人離れした銀髪は、染めているのか地毛なのかは定かではない。
青年は表情筋一つ動かさずに、夏樹へと拳銃の銃口を突きつけている。
処刑、あるいは粛清の現場――目の前で繰り広げられる光景を、そう結論づけた。
マークは息を押し殺しながら、青年を見据える。
――……強いな。
青年の発する雰囲気一つ一つが、彼が只者でない事を否応なしに示していた。里見蓮太郎は元より、もしかしたらリトヴィンツェフやユーリャよりも――。脳裏を過ぎった嫌な推測に、思わず生唾を飲み込んだ。
「志籐、お前の監督責任は本来継麻にあるが」と青年は抑揚のない声で告げる。「彼はもういない。本来の役割を放棄して里見蓮太郎に固執した結果、何の関係もない警察達に敗れた。――結果に対する責任は誰かが取らなければならない」
「……貞蔵さんは――」
夏樹が何かを言いかけるが、青年は取り合う余地もないとばかりに言葉を被せる。
「ああ、お前達の任務は『フッケバイン』と『スクイドオクトパス』が引き継いでいる。スコーピオンの首は保存の観点から断念したが、ソロモンの指輪の奪取については成功した。上には最低限の義理は果たせたよ」
驚愕に目を剥いたのは少女ではなくマークの方だった。
――指輪が……奪われただと……!?
理性が無意識に理解を拒んでいた。里見蓮太郎とアンドレイ・リトヴィンツェフの戦いが決着してから、天秤宮が討たれるまで、幾許の猶予もなかったはずだ。研究物を設置していた第0採掘場は、すでに土砂の下に埋まっているはず。あの状態から、いったいどうやったというのか。
湧き出る疑問と疑念は尽きる事を知らない。
だが、青年の言葉に嘘が混ぜられている気配は感じられなかった。
「…………」マークは物思いに耽るように目を伏せた。
確かに、元々ソロモンの指輪はマーク達がロシアの研究所から強奪したものだ。研究物の本来の所有権は、リトヴィンツェフにある訳でも、ましてやマークにある訳でもない。
しかし、それとこれとは話が別だ。理屈じゃなく、感情の問題なのだ。
この研究物は――ソロモンの指輪は、もう他の勢力の手に渡って良いものではない。アンドレイ・リトヴィンツェフの悲願が潰えた以上、指輪はスコーピオンの首諸共消え去る定めでなければならない。
青年が先ほど口にした聞き慣れない文言は、おそらく五翔会エージェントのコードネームか何かだろう。彼らも機械化施術を受けた強化人間だとすれば、やはり今のマークに勝ち目はない。
思わず奥歯を噛み締めたところで、自分の過ちに気づく。押し殺していたはずの自身の気配が洩れた。夏樹、青年双方の視線がこちらへと向く。
マークは潜伏を諦め、草むらを掻き分けて、二人の前に姿を晒す。
「……リトヴィンツェフ一派の者か」と青年は呟く。「まだ生き残りがいたとはな」
「彼女を殺すのか」
マークの問いに、青年は、「――ああ、そうだ」と僅かな間を置いてから返答した。「これはこちらの問題。口出しは無用だ。すでに俺達は最低限の目的を果たしている。もうそちらに興味はない。このまま立ち去るなら見逃しても構わない。どこへなりとも消えると良い」
やはりというべきか、淡々と話す青年の言葉に、他人を欺こうとする意図は汲み取れない。本当に、もう五翔会はマーク達への興味をなくしてしまっているのだろう。
渡りに船――そのはずだ。素直に受け取れば。
だが――。
そのはずなのに――。
――…………。
旧品川地区で継麻貞蔵と対峙した際の、彼の言葉が想起される。
――『それだけの実力があるのならば、食い扶持に困る事などないはずだ』
――『別に「呪われた子供達」への偏見がある訳でもないのだろう?』
――『その手腕を別の立場で振るう選択は、本当になかったのか』
「…………」
マークと死闘を演じた傭兵の男はこう言った。
――『敵だらけの世界で、何度も傷つきながら孤独に戦い続ける子供がいる』
――『色んなもんが両手から溢れ落ちていって、取り戻せない後悔に打ちひしがれてもなお、歩みを止めるのを許されない奴がいる』
不意に、かつて敵対した幼い少女と視線が絡み合った。恐怖に歪んだ目許。生気の抜け落ちた青白い肌。極寒のさなかに放り出されたかのように、小刻みに震える唇と手足。捨て置けば最後、幾許もない命の灯火――。
いつかの過去が走馬灯のように呼び起こされる。ガストレア大戦終結後、ロシアに亡命したリトヴィンツェフと共に、当てもなく難民キャンプを彷徨っていた時の事が。
今となっては、最初にどちらが見つけたのかは覚えていない。
ただ、路地裏の一角に、ゴミのように打ち捨てられた少女がいた事だけは克明に覚えている。
薄い皮の下にある未成熟な内臓が、透けて見えそうなほどに痩せ細った体。焦点の定まらない濁った瞳と、今にも途切れてしまいそうな、か細い息遣い――。
当時、存在が認知され始めた『呪われた子供達』――彼女らの、余りにもありふれた最期だった。
何の感慨もなく素通りしようとしたマークとは対照的に、リトヴィンツェフは一寸の迷いもなく少女へ近づいていた。彼はそうするのが当然だとばかりに、蝿の集る矮躯の前で屈み込み、少女の眼前に手を差し出した。
半分死人と化した少女は、緩慢な動きで眼球を動かし、目の前に翳された手の平を見つめた。表情筋を動かすエネルギーさえ枯渇した少女の相貌に変化はなかった。
だが、マークは覚えている。
少女の淀み切った眸子の内側に、命の火が再点火されるように色が灯ったのを。曇り切った虹彩が紅く澄み渡り、まともな光源さえない路地裏を爛々と照らし出した。
針金のような腕をぎこちなく持ち上げ、彼女は――ユーリャ・コチェンコヴァは、リトヴィンツェフの手を力の限り握り返していた。
――ああ……。
――そうだったのか、アンドレイ……。
ずっと勘違いしていた。
リトヴィンツェフはあの時から、復讐のために策謀を巡らし、野望を実現するための駒としてユーリャを見出したのだと――そう思っていた。
――違った……。
――アンドレイ……お前は、ただ目の前で苦しむ子供を放っておけなかっただけなのか。
状況も何もかもが全く異なるというのに――眼前で涙を流す少女と、かつて路地裏で野垂れ死にかけていた少女の姿が重なる。
そうして、やっと自覚できた。自分がなぜ、復讐の道具としての道を突き進もうとしているユーリャを、止めようとしたかったのか。
余りにも情けなく、滑稽で独りよがりな理由に嫌悪感が湧く。
――俺はずっと後悔していたのか。
――あの日、あの時――自分がユーリャに手を差し伸べられなかった事を。
命のやり取りの最後に、傷だらけの傭兵が投げかけてきた言葉が脳裏に反響する。
――『……答えてくれよ。大人である俺が、そんな里見を助けたいと思う事は……そんなに過ぎた願いかよ……?』
「…………」その時に答えられなかった質問への返し。今なら何の迷いもなく叩きつけられる。「……ああ。過ぎた願いなはずがない。苦しむ子供を助けたいと願う心は――たとえ偽善であろうが否定される謂れなどない」
前へと躍り出る。青年と敵対するという確固たる意思を包み隠さず眼光に込め、真っ直ぐと彼を射抜く。
「……本気か?」と白髪の青年は目許を歪ませて訝しんだ。「自ら助かる選択肢を放棄するつもりか」
「仲間を使い捨てにするお前達には分からないだろう」
腰を落として構えを取る。震える足で土をにじり、両の拳を固く握り締めた。
自身もすでに満身創痍。武器は全て失い、仲間の援護も望めるべくもない。
それでも――この胸の内に再燃した覚悟に、嘘だけはつきたくなかった。