ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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 雲間(くもま)から差し込む帯状(おびじょう)の朝日を(すが)め見ながら、胸にぽっかりと穿(うが)たれた喪失感(そうしつかん)に打ちひしがれる。

 (はる)遠方(えんぽう)に望む景色には、討伐されて事切れたステージⅤが横たわっている。その(さま)は、ある一人の男の宿願(しゅくがん)が果たされる事なく(つい)えた事実を否応なしに示していた。

「――アンドレイ……コチェンコヴァ……」もう二度と会う事は(かな)わぬ者達の名を(つぶや)く。全てから置き去りにされた疎外感(そがいかん)が、マーク・メイエルホリドの罅割(ひびわ)れた心を無遠慮(ぶえんりょ)に締め上げる。

 傭兵との死闘の末に敗北したマークは、瓦礫(がれき)と共に奈落(ならく)へと叩き落とされるはずだった。両腕を広げて自身を(むか)えに来た死神を受け入れ、刻一刻(こくいっこく)と迫る死の感覚を今か今かと待ち()びていた。

 だが――何の因果(いんが)か、運命はマークを生かす道を選んだ。重力に(したが)って落下し続けていくさなか、不可解な風切(かざき)(おん)鼓膜(こまく)を叩いたのだ。(つむ)っていた目を反射的に開けて、音の出どころを探り、それが壁面(へきめん)に備えつけられた換気口(かんきこう)である事に気づいた。

 その時に脳裏を(かす)めた感情を、自分自身でも説明できない。気がつけば体は自然と動いていた。コンクリート(へん)昇降機(しょうこうき)(さく)欄干(らんかん)――目についたあらゆる物体を足場にして宙空(ちゅうくう)を駆け抜け、マークは手はギリギリのところで換気口の(へり)を掴んでいた。

「…………」光量(こうりょう)を増し始めた陽光(ようこう)に思わず目を細める。

 また――死にそびれてしまった。

 あの時、生にしがみついたのは自身であるにも関わらず、マークの胸中(きょうちゅう)には(ねば)ついた後悔の感情がつっかえたまま離れない。

 茫然自失(ぼうぜんじしつ)の状態のまま(きびす)を返して歩き始める。靴底(くつぞこ)が硬い大地を踏み締める度に、爪先(つまさき)から指先に(いた)るまでが(ひど)く痛む。里見(さとみ)蓮太郎(れんたろう)や傭兵との連戦で負った負傷(ふしょう)の数々が、全身の痛覚を着々と(むしば)んでいる。

 軍服のジャケットの内側を漁り、応急処置用の神経ブロック(やく)を取り出すと、そのまま口に含んだ。白い錠剤(じょうざい)の表面が唾液(だえき)で溶け出し、何とも言えぬエグ味が味蕾(みらい)を刺激する。水もなしに無理矢理嚥下(えんげ)し、袖口(そでぐち)で口許を(ぬぐ)う。

 樹海の方々(ほうぼう)から聞こえてくる(うな)り声は、()たして野生動物かガストレアか。いずれにしても、武器を失い深傷(ふかで)を負った今、攻撃性を向けてくる生物に出会ったが最後、無事で済む保証はない。

 そして、ここはガストレアの庭にも等しい未踏査領域(みとうさりょういき)。その上、(もっと)も近い内地である東京エリアでさえも数百キロ先にある。足となる車両もなく、那須鉱山も陥落(かんらく)した今、人間にとっての安全地帯などどこにもない。

 完全なる孤立無援(こりつむえん)状態であるにも関わらず、不思議と(あせ)りは感じない。

 もはや全てがどうでも良かった。

 もう自分には何も残っていない。

 導くべき仲間も、守るべき子供も、介錯(かいしゃく)するべき親友も――何もかもが両手から(こぼ)れ落ちた。

 ハリボテよりも(うす)っぺらい表層(ひょうそう)だけになった自分が、この世に存在し続ける意味を見出せない。このままガストレアの(えさ)となって、一片(いっぺん)痕跡(こんせき)さえも残さず果てるのが、敗者に相応(ふさわ)しい末路なのではないかとさえ思えた。

 その時だった。「――失敗者には死を。それがこの組織における不変の規律(きりつ)だ」突如(とつじょ)として、耳腔(じこう)が意味を成した言葉を(とら)える。すぐ近くに生きた人間がいるという事実に、元軍人としての本能が、虚脱感(きょだつかん)さえも上回って反応する。

 一瞬にして足音を殺し、自らの発する気配の輪郭(りんかく)を周囲へ溶け込ませ、声の出どころへと近づく。

 ()(しげ)った草葉(くさば)の中に身を隠し、その先に広がる光景に視線を注ぐ。

 ――あの子は……。

 見覚えのある顔だった。飴色(あめいろ)の髪を右結びのサイドテールにして、ゴシックロリータに身を包んだ西洋人形のような少女。

 間違いない。五翔会(ごしょうかい)のエージェントである継麻(つぐま)貞蔵(ていぞう)のイニシエーター、志籐(しとう)夏樹(なつき)だ。(うつ)ろな瞳の奥に、言い知れぬ恐怖心を(とも)した少女は、その場にへたり込んだまま動けなくなっている。

 その理由のいくつかは(はた)から見ていても明白だった。

 彼女の右腕は肩の付け根から綺麗(きれい)さっぱり失われており、千切(ちぎ)れた袖口(そでぐち)には(おぞ)ましい量の血が()み込んでいる。

 出血そのものも(おさ)まっている様子はなく、明らかにバラニウムの武器によって負わされた致命傷だった。適切な処置が(ほどこ)されていない事は自明(じめい)。もはや右腕の再生は望めないだろう。

 そして――半死半生(はんしはんしょう)の少女の眼前には、謎の青年が(たたず)んでいた。

 すらりとした長身をさらに際立たせる白のロングコートに目許を隠すバイザー。日本人離れした銀髪は、染めているのか地毛なのかは定かではない。

 青年は表情筋一つ動かさずに、夏樹(なつき)へと拳銃の銃口を突きつけている。

 処刑(しょけい)、あるいは粛清(しゅくせい)の現場――目の前で繰り広げられる光景を、そう結論(けつろん)づけた。

 マークは息を押し殺しながら、青年を見据(みす)える。

 ――……強いな。

 青年の発する雰囲気一つ一つが、彼が只者(ただもの)でない事を否応なしに示していた。里見(さとみ)蓮太郎(れんたろう)は元より、もしかしたらリトヴィンツェフやユーリャよりも――。脳裏(のうり)()ぎった嫌な推測に、思わず生唾(なまつば)を飲み込んだ。

志籐(しとう)、お前の監督責任は本来継麻(つぐま)にあるが」と青年は抑揚(よくよう)のない声で告げる。「彼はもういない。本来の役割を放棄して里見蓮太郎に固執(こしつ)した結果、何の関係もない警察達に敗れた。――結果に対する責任は誰かが取らなければならない」

「……貞蔵(ていぞう)さんは――」

 夏樹が何かを言いかけるが、青年は取り合う余地(よち)もないとばかりに言葉を被せる。

「ああ、お前達の任務は『フッケバイン』と『スクイドオクトパス』が引き継いでいる。スコーピオンの首は保存の観点から断念(だんねん)したが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。上には最低限の義理は果たせたよ」

 驚愕(きょうがく)に目を()いたのは少女ではなくマークの方だった。

 ――指輪が……奪われただと……!?

 理性が無意識に理解を(こば)んでいた。里見蓮太郎とアンドレイ・リトヴィンツェフの戦いが決着してから、天秤宮(リブラ)が討たれるまで、幾許(いくばく)猶予(ゆうよ)もなかったはずだ。研究物を設置していた第0採掘場は、すでに土砂の下に埋まっているはず。あの状態から、いったいどうやったというのか。

 湧き出る疑問と疑念(ぎねん)は尽きる事を知らない。

 だが、青年の言葉に(うそ)()ぜられている気配は感じられなかった。

「…………」マークは物思いに(ふけ)るように目を()せた。

 確かに、元々ソロモンの指輪はマーク達がロシアの研究所から強奪したものだ。研究物の本来の所有権は、リトヴィンツェフにある訳でも、ましてやマークにある訳でもない。

 しかし、それとこれとは話が別だ。理屈じゃなく、感情の問題なのだ。

 この研究物は――ソロモンの指輪は、もう他の勢力の手に渡って良いものではない。アンドレイ・リトヴィンツェフの悲願が(つい)えた以上、指輪はスコーピオンの首諸共(もろとも)消え去る(さだ)めでなければならない。

 青年が先ほど口にした聞き()れない文言(もんごん)は、おそらく五翔会(ごしょうかい)エージェントのコードネームか何かだろう。彼らも機械化施術(せじゅつ)を受けた強化人間だとすれば、やはり今のマークに勝ち目はない。

 思わず奥歯を噛み締めたところで、自分の過ちに気づく。押し殺していたはずの自身の気配が()れた。夏樹、青年双方(そうほう)の視線がこちらへと向く。

 マークは潜伏(せんぷく)(あきら)め、草むらを()き分けて、二人の前に姿を(さら)す。

「……リトヴィンツェフ一派の者か」と青年は(つぶや)く。「まだ生き残りがいたとはな」

「彼女を殺すのか」

 マークの問いに、青年は、「――ああ、そうだ」と(わず)かな間を置いてから返答した。「これはこちらの問題。口出しは無用だ。すでに俺達は最低限の目的を果たしている。もうそちらに興味はない。このまま立ち去るなら見逃しても構わない。どこへなりとも消えると良い」

 やはりというべきか、淡々(たんたん)と話す青年の言葉に、他人を(あざむ)こうとする意図は()み取れない。本当に、もう五翔会はマーク達への興味をなくしてしまっているのだろう。

 渡りに船――そのはずだ。素直に受け取れば。

 だが――。

 そのはずなのに――。

 ――…………。

 旧品川地区で継麻貞蔵と対峙(たいじ)した際の、彼の言葉が想起(そうき)される。

 ――『それだけの実力があるのならば、食い扶持(ぶち)(こま)る事などないはずだ』

 ――『別に「(のろ)われた子供達」への偏見(へんけん)がある訳でもないのだろう?』

 ――『その手腕(しゅわん)を別の立場で振るう選択は、本当になかったのか』

「…………」

 マークと死闘(しとう)を演じた傭兵(ようへい)の男はこう言った。

 ――『敵だらけの世界で、何度も傷つきながら孤独に戦い続ける子供がいる』

 ――『色んなもんが両手から(こぼ)れ落ちていって、取り戻せない後悔に打ちひしがれてもなお、歩みを止めるのを許されない奴がいる』

 不意に、かつて敵対した幼い少女と視線が絡み合った。恐怖に(ゆが)んだ目許(めもと)。生気の抜け落ちた青白い肌。極寒(ごっかん)のさなかに放り出されたかのように、小刻(こきざ)みに震える(くちびる)手足(てあし)。捨て置けば最後、幾許(いくばく)もない命の灯火(ともしび)――。

 いつかの過去が走馬灯(そうまとう)のように呼び起こされる。ガストレア大戦終結後(しゅうけつご)、ロシアに亡命したリトヴィンツェフと共に、当てもなく難民キャンプを彷徨(さまよ)っていた時の事が。

 今となっては、最初にどちらが見つけたのかは覚えていない。

 ただ、路地裏(ろじうら)の一角に、ゴミのように打ち捨てられた少女がいた事だけは克明(こくめい)に覚えている。

 (うす)い皮の下にある未成熟な内臓(ないぞう)が、()けて見えそうなほどに()せ細った体。焦点(しょうてん)の定まらない(にご)った瞳と、今にも途切れてしまいそうな、か(ぼそ)息遣(いきづか)い――。

 当時、存在が認知され始めた『呪われた子供達』――彼女らの、(あま)りにもありふれた最期だった。

 何の感慨(かんがい)もなく素通りしようとしたマークとは対照的に、リトヴィンツェフは一寸(いっすん)の迷いもなく少女へ近づいていた。彼はそうするのが当然だとばかりに、(はえ)(たか)矮躯(わいく)の前で屈み込み、少女の眼前に手を差し出した。

 半分死人(しにん)と化した少女は、緩慢(かんまん)な動きで眼球を動かし、目の前に(かざ)された手の平を見つめた。表情筋を動かすエネルギーさえ枯渇(こかつ)した少女の相貌(そうぼう)に変化はなかった。

 だが、マークは覚えている。

 少女の(よど)み切った眸子(ぼうし)の内側に、命の火が再点火されるように色が(とも)ったのを。曇り切った虹彩(こうさい)(あか)()み渡り、まともな光源さえない路地裏を爛々(らんらん)と照らし出した。

 針金(はりがね)のような腕をぎこちなく持ち上げ、彼女は――ユーリャ・コチェンコヴァは、リトヴィンツェフの手を力の限り握り返していた。

 ――ああ……。

 ――そうだったのか、アンドレイ……。

 ずっと勘違いしていた。

 リトヴィンツェフはあの時から、復讐のために策謀(さくぼう)(めぐ)らし、野望を実現するための(ピース)としてユーリャを見出したのだと――そう思っていた。

 ――違った……。

 ――アンドレイ……お前は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 状況も何もかもが全く異なるというのに――眼前で涙を流す少女と、かつて路地裏で野垂(のた)れ死にかけていた少女の姿が重なる。

 そうして、やっと自覚できた。自分がなぜ、復讐の道具としての道を突き進もうとしているユーリャを、止めようとしたかったのか。

 余りにも情けなく、滑稽(こっけい)で独りよがりな理由に嫌悪感が湧く。

 ――俺はずっと後悔していたのか。

 ――あの日、あの時――自分がユーリャ(あの子)に手を差し伸べられなかった事を。

 命のやり取りの最後に、傷だらけの傭兵が投げかけてきた言葉が脳裏に反響する。

 

 ――『……答えてくれよ。大人である俺が、そんな里見(あいつ)を助けたいと思う事は……そんなに過ぎた願いかよ……?』

 

「…………」その時に答えられなかった質問への返し。今なら何の迷いもなく叩きつけられる。「……ああ。過ぎた願いなはずがない。苦しむ子供を助けたいと願う心は――たとえ偽善(ぎぜん)であろうが否定される(いわ)れなどない」

 前へと(おど)り出る。青年と敵対するという確固(かっこ)たる意思を(つつ)み隠さず眼光(がんこう)に込め、真っ直ぐと彼を射抜(いぬ)く。

「……本気か?」と白髪の青年は目許を(ゆが)ませて(いぶか)しんだ。「自ら助かる選択肢を放棄するつもりか」

「仲間を使い捨てにするお前達には分からないだろう」

 腰を落として構えを取る。震える足で土をにじり、両の拳を固く握り締めた。

 自身もすでに満身創痍。武器は全て失い、仲間の援護も望めるべくもない。

 それでも――この胸の内に再燃(さいねん)した覚悟に、嘘だけはつきたくなかった。

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