ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣 作:鏡之翡翠
「ヒヒヒッ。ずいぶんと手こずったようだね」頭上から
ネストは
巨大樹から伸びた枝に腰掛け、長い脚を組む
「……まさか最初に再会するのがお前になるとはな」とネストは溜息混じりに
「風の
「何の用だ」
影胤を
「勘繰り過ぎさ」と仮面の怪人は含み笑いと共に肩を
ネストは値踏みするように影胤に視線を送る。嘘は言っていないだろうと、ひとまずは納得する。
「それにしても、良かったのかね? 彼女を見逃して」
「構わない。上にモニターされているバイタルサインについては偽装済みだ。連中にとって、
「そうではない」影胤はすかさず否定した。「私は君について
「何が言いたい」
「
影胤のその問いを合図に、場の空気が一気に張り詰める。
ネストと仮面の怪人――二人の放つ絶対零度の視線が、否応なしに
「この場でお前を殺す」とネストは告げる。「それで話は収まる。違うか?」
「ヒヒッ。さすがは
ネストは影胤に悟られぬよう、静かに周囲を見渡す。今のところ、奴の
それであれば十分に勝機はある。
ネストは呼吸を整え、腰を落としながら『
明確な臨戦体勢への移行――しかし、それを受けても、影胤は枝に腰掛けたまま
こちらが口を開く前に、仮面の怪人は言う。「その血の気の多さは、しっかりと里見君にも受け継がれているようだね。今ここで君と踊るのも悪くはないが、さっきも言っただろう? 今日は君個人に用がある訳じゃない。拳を収めたまえ」
「…………」
「心配せずとも、君の
毒気を抜かれて、そのまま拳を下ろして構えも解く。意識だけはしばらく影胤を注視していたが、やはり彼が動く様子はなかった。
「ところで『腕』の代えはあるのかね?」と影胤が問う。
「問題ない。少しばかりの小言に耐えれば良いだけだ」
「バラニウムの義肢で戦場を駆ける
影胤が言っているのは、先の戦闘でネストと事を構えたリトヴィンツェフ一派の生き残りの事だろう。最初の発言で薄々は気づいていたが、やはり一部始終を見ていたらしい。
するとネストの頭上で場違いな着信音が鳴る。どうやら影胤の携帯電話のようだ。彼は優雅な手つきで端末を取り出して、頭の横に
「
影胤は立ち上がると、あとはネストには目もくれずに去っていった。枝から枝へ飛び移りながら、一瞬で森の奥へと消えていく。
その姿を見送りながら、ネストは肺に滞留していた空気を吐き出す。
森の
この感覚には――覚えがある。
まどろみの泥の中を
「…………
「――気がついたか」しかし聞こえてきたのは、記憶にあるのとは全く別の声だった。それを合図に夏樹の意識が一気に現実へと引き戻される。
最初に視界に飛び込んできたのは、
取り乱しそうになる夏樹を、声の主はこちらを見やる事もなく、しっかりと落ちぬように支える。
「……マーク・メイエルホリド」と夏樹は男の名を呼ぶ。「……あなたに私を
「あの
「……気に入りませんね」
徐々に思い出してきた。自分が意識を完全に
ネスト相手にあそこまで立ち回れた者を見たのは初めてだった。グリューネワルトの自信作だった
一瞬の攻防の中でマークはネストに組みつき、バラニウムの義手を肩口から
マークに覆い被さったネストが、彼に何かを耳打ちするとマークの四肢から力が抜け落ちた。微動だにしなくなったマークを捨て置いて、ネストがこちらへと近づいてきて――。
「…………」夏樹が覚えているのは、そこまでだった。「……私はネストに処分されたのではないですか」
「そうであるとも言えるし、そうでないとも言える」
「馬鹿にしているんですか」
「事実を伝えたまでだ」とマークは、ぶっきらぼうに言う。「お前達がネストと呼ぶ男は、お前の死を偽装するための策を打った。仮死状態にする薬をお前に打ち、心臓を一度完全に停止させる事で、モニターされているバイタルサインを
「……先ほどから胸が痛むのはそのせいですか」
「当然、使われたのはバラニウム製のメスだ。
「……女の子の体見た事についての弁解は?」
「あいにくと
「はあ……もう良いです」夏樹は
「ああ。どさくさに紛れて
「何のために」
「いつかのお前のためだ」
「……馬鹿みたい」と夏樹は自身の右肩に目をやる。「そう簡単に失った四肢を
「そのための苦労は共にしてやる。いつかの未来に
「……何でですか」不意に疑問が口を突く。「私達は敵同士でしょう? あなた達の計画の邪魔をしようとした異分子です。ネストに処分される状況なんて、願ったり叶ったりのはず。なのに何で……ボロボロの体に
「――選んでみたくなったんだ」
「え?」
「かつての自分が選べなかった道を歩いてみたくなった。理由なんてその
「何ですか、それ……」鼻の奥にツンとした痛みが突き刺さる。熱くなってくる
「否定はしないさ」とマークは天を
木々の隙間から差し込む朝の光が、二人の立つ場所を照らし出す。足許に落ちた二つの影は、森の奥まで伸び、やがて樹木の織り成す暗闇に寸断された。
「それでも……それまでは誰かをこの手で抱き締めるのを許してもらいたい。いつか全てを失う日が来るのだとしても――自分の手には確かな
その時だった。頭上で強い風が吹き込み、ガサガサと葉や枝を震わせた。一拍置いてから、それは地上を一息に駆け抜ける。
肌を