東京エリアを囲うように佇むモノリスが近づいてくる。
縦に一. 六一八キロメートル、横に一キロメートルもの長大さを誇るバラニウム金属の壁。それが一定間隔で無数に屹立し、人類最後の生存圏を成り立たせている。
もう二度と戻る事は叶わぬと覚悟していた場所――自らの視界が今もなお、その光景を捉えている事実に、言いようのない非現実感があった。
航空自衛隊の武装ヘリに搭乗していた藤沢リカルドは、朝日の下で輝くビル群を見下ろしながら、むず痒さに体を揺する。「……はあ」
「――何だよその溜息は? 藤沢、もっと喜べよ。せっかく戻ってこれたんだぞ」操縦席から訝しむ声が投げかけられる。その声色はどこか馴れ馴れしく、リカルドに対する遠慮などほとんど感じられなかった。
リカルドは口をへの字に引き結んで頭を抱える。
何の偶然か、那須鉱山を脱出し、未踏査領域で彷徨っていたリカルドを真っ先に見つけたのは、自衛隊時代からの顔馴染みだった。
「何て言い訳しようか考えてたんだよ」とリカルドはムッとしながら言う。「一度は死ぬつもりで、あの場所に残った。自分の我を通すために皆を傷つけた。……今さらどんな顔して会えば良いってんだ」
「ははっ。心配しなくても、そんな小さい事気にしてんの、たぶんお前だけだよ」
「何だって?」
「藤沢、俺はお前が生きてるのを知れて嬉しかったよ」と操縦士の隊員は言った。「関東会戦のあと、自衛隊を辞めたお前がどうなったのか、ずっと気になってたんだよ。まさかあの英雄と一緒に東京エリアを救っていたなんてな」
「……買い被り過ぎだっての」とリカルドは居心地悪そうに呟く。「俺はただ自分勝手な理由で銃を握っただけだ。そこに他人に誇れる目的は一つもねえ。本物の英雄には遠く及ばねえよ」
「そう思ってるのも、きっとお前だけだぜ」顔見知りの隊員は楽しそうに笑う。「少なくとも俺にとっては、お前は紛う事なき英雄だよ。あんたの凱旋を手伝えて光栄だ」
「言いやがる……」呆れたように頬杖を突き、再び窓の向こうに視線を落とす。そして思わず目を丸くした。「……!」
操縦席から揶揄うような声が飛ぶ。「どうやら言い訳を考える時間はないみたいだな」
ヘリが降下を始める。みるみる内に空が遠くなり、地上が近づいてくる。着陸場所は内地ではなく、モノリス外周近辺だ。
リカルドは観念したように、大きく息を吐き出した。「全く……」と頭を乱暴に掻く。「もう少し余韻って奴を大切にしてもらいたいもんだぜ……」
「最後に好き勝手しようとした罰だと思っとけよ」
「うるせえ」
「ほら、行ってこい」
隊員に促されるまま座席から立ち上がる。それと同時にヘリの固定脚が大地を捉えて着陸した。爆音に近かったローターの回転音が徐々に小さくなり、すぐに聞こえなくなる。
意を決して搭乗口の扉を開ける。ひんやりとした風が頬を叩き、リカルドの意識を否応なしに現実へと引き摺り込む。
「里緒ちゃん……里見……皆……」
モノリスを背にして集まっている人影の輪郭が、少しずつはっきりとしてくる。
共に最終決戦に臨んだ仲間達だけではない。天童木更に片桐玉樹と弓月、その横には室戸菫に司馬未織。少し離れたところには、聖天子や天童菊之丞、警察の多田島警部に阿久津警視もいる。
「藤沢さん!」「リカルドッ!」
蓮太郎と、美梨に肩を貸された里緒も歩み寄ってくる。彼らの表情に浮かんでいるのは、一様に溢れんばかりの歓喜であった。
里緒の両目から堰を切ったように涙が流れる。脚に重傷を負っているにも関わらず、黒髪の少女は力強く地面を蹴ってリカルドの胸に飛び込んできた。小さな体を受け止めると、彼女の体温がゆっくりと皮膚に染み渡っていく。
「ごめん……里緒ちゃん」
「……絶対に……許さないからっ……」嗚咽と共に、少女は声を震わせる。「あたし達は……一蓮托生なんでしょ……? だったら……リカルドが死ぬ時は、あたしも一緒に連れて行ってよッ……!」
「はは……そんな事したら、あの世で里津ちゃんに八つ裂きにされちまうっての……」
腕の中にあったのは、抱き締めれば簡単に折れてしまいそうなほどの手足――。こんなにも頼りないものに、自分は一生涯消えない傷を刻もうとしていたのかと、今さらながらに後悔が押し寄せる。
啜り泣く里緒を抱き留めたまま、美梨の方を見やる。
「美梨ちゃんにも悪い……横島の仇……討てなかった」
ボブカットの少女はかぶりを振る。「秀貴さんは……きっと復讐なんて求めてないです。ただ……藤沢さんが生きていて良かったって……そう思っているはずですよ……」と目許に大粒の涙を浮かべながらも、精一杯の笑顔を形作った。
「そうかも……しれないな……」空を仰ぎ、この世の住人ではなくなってしまった友人に想いを馳せる。横島秀貴が再びリカルドと邂逅する事があれば、何と言うだろうか。何となく、美梨の言った事をそのまま叩きつけられるような気がした。
「――藤沢さん」
少年の真っ直ぐな呼びかけに、リカルドは上空に向けていた視線を戻す。
黒衣の少年の相貌には、安心し切ったような穏やかな色が灯されていた。
「里見……」
「これ、返すよ」と蓮太郎は右手に持った何かを差し出してきた。それはスライド部分に桜の刻印が入った拳銃――見間違えようもなく、リカルドの九ミリ拳銃だった。
リカルドは、しばしの逡巡ののちに、九ミリ拳銃を受け取った。
共に戦場を駆け抜け続けてきたもう一人の相棒。自衛隊を脱隊する際に、少しばかりの小細工を弄して、返却する事なく連れてきた、まさに体の一部。自分の血と汗が染みつき、僅かに表面が変形した銃把は、どこまでも手に馴染む――。
「――ありがとうな、里見」無意識に口許が綻んでいた。「俺と一緒に戦ってくれて――」
「それは俺の台詞だよ、藤沢さん」と少年は首を横に振る。「アンタが隣にいたから、俺は折れずに戦えたんだ。藤沢さんは間違いなく、俺にとってのヒーローだ」
「はははっ……。だから皆、買い被り過ぎなんだよ」そう言いながらも、リカルドの表情は隠し切れぬ喜びに満ち溢れていた。それを揶揄する者など、この場には誰一人としていなかった。
「藤沢さん――アンタを待っている間、ずっと言おうと考えてた事があるんだ」と黒衣の少年はおもむろに切り出した。
何の事かと首を傾げる傭兵に、少年は曇りなき瞳を向けながら続きを紡ぐ。
「俺は、これからもアンタと共に戦いたい。だから――里緒も連れて、俺達と一緒に天童民間警備会社で働かないか?」
東京と仙台だけでなく、いくつもの勢力を巻き込んだ戦いは幾人かの犠牲と共に幕を閉じた。
事件の発端となった研究物も、憎しみを増幅させた黒幕も、それに乗じて利益を掠め取ろうとした者も、人間の思惑に振り回され続けた哀れな怪物も、己の命と引き換えに怪物を討ち倒した名もなき英雄も、その全てを底のない深淵の下へ飲み込んで――。
長かった晩夏が、静かに終わりを告げる。