*
訓練終了のアナウンスが鳴る。見渡す限りの砂漠だった景色が、極彩色のノイズに分解され、本来の様相を浮き彫りにさせていく。
室内全体が特殊ゴムでできたキューブ状の空間――そこかしこに空薬莢が散らばり、少し離れたところには先刻まで使用していた短機関銃と拳銃が転がっている。
司馬重工本社ビル地下五階『VR特別訓練室』。
二〇三一年の最先端技術をふんだんに投入して作り上げられた仮想戦闘訓練施設である。
同社の資金力を湯水のごとく使って整備されたこの場所は、警察から自衛隊、はたまた民警に至るまで、様々な組織の戦力底上げに貢献している。
疲弊し切った様子の磯貝俊夫は、乱暴にヘッドギアを脱ぎ捨てると、その場へ仰向けに倒れ込む。先ほどまで鮮明にあったはずの砂粒の感触は、今やどこにもない。合成樹脂特有の独特の臭いが鼻腔を突く。
今もなお全身を駆け巡る激痛は、この仮想戦闘訓練施設によってもたらされる仮初の痛みではあるが、やはり根性だけで耐えられるものではない。VR上で何十発もの弾丸を浴びせかけられた四肢の筋肉は、未だに不自然な痙攣を起こしたままだ。
磯貝の耳に取りつけられたヘッドセットから、「凄いやん、隊長さん!」と司馬未織の興奮した声が届く。「本当惜しかったなあ。あと一人やったのに……!」
磯貝が挑戦していたステージ名は『インポッシブル』。三〇人の兵士が配置された難攻不落のプログラムで、高練度の連携、長距離狙撃などを織り交ぜた怒涛の攻勢によって挑戦者を蜂の巣にするのだ。
かつて磯貝は特殊部隊の精鋭達と共にこのステージに挑み、ものの数十秒で全滅判定を喰らった事がある。
今日はそのリベンジのために訪れたのだが――。
「やはり彼のようにはいかないか」と力なく笑った。「まだまだ遠いな、あの背中は」
「そんな事ないで。敵兵が最後の一人になるまで追い詰めたのは、里見ちゃんを除けば、隊長さんが初めてや」
「あの少年はこれをクリアしたんだろう。……俺はまだ、彼の足元にも及ばない」
擬似痛覚の震えが治まったのを確認すると、短機関銃と拳銃を拾い上げ、前者をスリングで肩に掛け、後者をホルスターに格納する。空薬莢はのちほどスタッフが回収してくれるらしい。業務提携している分、サービスは行き届いているようだ。
訓練室を出ると、種々様々な機器に囲われたコントロールルームに出る。そこには、派手な色の和服に身を包んだ司馬重工の令嬢以外にも、三人の人影がいた。
「お疲れ様です、隊長」と広野が頭を下げ、「御苦労さん、精が出るな」と阿久津義建が、ひらひらと手を振る。
寸胴体型の多田島茂徳は、呆れたように顔をしかめて、「那須鉱山での傷、まだ治ってねえんだろ」と言った。「無理すんじゃねえ」
「居ても立ってもいられなくてな」磯貝は愛想笑いと共に弁明し、「それにしても」と話題を変える。「――珍しい組み合わせだな。何かあったのか?」と真剣な眼差しで問いかける。
「横島一秀が死んだ」多田島は端的に告げた。
その名には覚えがある。
磯貝が今回の事件を追っていくに辺り、最初に接触した人物だった。
多田島と共に訪れた洋上刑務所に収監されていた虜囚であり、『第三次関東会戦』のさなか民衆を煽動し、外周区に住む『呪われた子供達』を虐殺した黒幕。そしてアンドレイ・リトヴィンツェフに心酔し、彼の脱獄のための手引きをした者でもある。
「死んだとはどういう事だ」磯貝は努めて冷静に訊く。「あの刑務所は二四時間体制での監視システムが組まれているはずだ。自殺も他殺も起きようが――」
「昨夜、洋上刑務所に侵入した奴がいる」と被せるように多田島が言った。
「――っ!」磯貝のこめかみから汗が伝う。
洋上刑務所はつい先日、リトヴィンツェフ一派の襲撃を許したばかりだ。今回の一件と、それが否応なしに結びつけられていく。
阿久津が一つ頷いて、「残念だが、お前の考えている通りだ」と言う。「SATの招集がかからなかった時点で想像はつくだろうが、今回のは大規模な襲撃じゃない。単独犯による潜入といった方が正しい。実際、横島一秀の死が分かったのも今朝の事だしな」
「マーク・メイエルホリド。先の事件に関わってたお前なら知っている名前だろ」多田島は引き継ぐように言葉を重ねる。
磯貝はさらに面食らう。「その者は藤沢君が倒したはずだと……!」
「実際のところ、本人かどうかも定かじゃない。監視カメラに、それらしき人物は映っていなかった」寸胴体型の刑事は首を横に振って、携帯端末の画面を差し出してくる。「代わりに、被害者の側にこいつが残っていた」
そこには血に塗れた一枚の紙切れが表示されていた。日本人では一文字たりとも判別できない筆記体で、短い文章が書き込まれている。
「――『親愛なる友とその相棒、散っていった仲間へ捧ぐ』。……メイエルホリドの名前と一緒に書かれていた内容だ」
「……まさか」
「こいつは俺の勘だが」と断りを入れてから、多田島は続ける。「この事件はまだ終わってねえ。月並みだが、俺達警察が一丸となって立ち向かわなきゃならねえ」
阿久津が腕を組みながら、「先の里見の冤罪事件、そして今回のリトヴィンツェフのテロ事件を受けて、警察の内部改革を早急に進めていく必要がある」と言った。「俺は今後、新しい部隊を創設するつもりだ。SATを筆頭に、各特殊部隊、各部署から選りすぐりの人材を集めて発足する。すでに多田島や広野、今回那須鉱山で機械化兵士連中と戦った部隊員の参加が決まっている」
三人の視線が磯貝へと注がれる。彼らの瞳は一様にこう語りかけていた。『もちろん、お前も加わるよな?』と。
磯貝は苦笑し、「当たり前だろう」と答えた。「俺も参加させてくれ。これで大手を振って東京エリアのために戦える」
「決まりだな」と阿久津が笑う。
「へえ。良い事聞いたわあ」いたずらっぽい笑みを浮かべながら、未織が割り込んでくる。「それならウチも一枚噛ませてもらわんとな。駄目とは言わせへんよ?」
「何のためにここで話したと思ってる?」阿久津は不敵に笑む。和服の少女を横目で見やり、「当然、おたくらに全面的なバックアップを頼むつもりだ」と言う。
「決まりやな」今度は未織が言った。「これから忙しくなるわ」
「そいつはありがたい事だが」多田島が張り詰めていた表情を変えながら、「あんた、こんなところで油売ってて良いのか?」と話題を変えた。
「?」当の未織は何の事かさっぱりといった様子で小首を傾げる。
「今日は勾田町の花火大会だぜ。ほら、ちょうど完成したばっかりの高層ビルがあっただろ。そこの展望台から見える花火はさぞ綺麗だろうな」
いきなり何の話をしているんだと言わんばかりに、未織の眉根が寄せられていく。頭の上には疑問符がいくつも浮かんでいた。横で聞いている磯貝も同様の気持ちだった。阿久津と広野の二人は、どこか底意地の悪い顔で笑いを堪えている。
多田島は間髪容れずに決定的な文言を叩きつける。「今日、行くらしいぞ。里見が。お友達と一緒に」
その瞬間――未織の両目が肉食獣のように活眼したのを、磯貝は見逃さなかった。
「こうしちゃおられへん! ウチも行く! 木更に里見ちゃんは渡さへんで――ッ!!」
先ほどまであった品のある大和撫子然とした雰囲気はあっけなく霧散し、疾風のごとくコントロールルームを退室していく。
磯貝はそんな彼女を呆気に捉われた表情で見送る事しかできなかった。
「そんじゃ、俺達も行くか」ニヤつく多田島は、親指で建物の外を指す。
「もう良い場所取ってるんですよ」広野が言う。「里見君達と違って、特等席とまではいきませんけどね」
「色々あったが、今日くらいは羽を伸ばしても構わんだろ」と阿久津も脱力しつつ言った。
「……そうだな」と磯貝は応じる。
踵を返して部屋を出ていく三人を追って、磯貝もあとに続いた。
誰にも見せない相貌は、全ての憑き物が落ちたように晴れやかだった。
*
『……カメラの向きは……これで大丈夫か。
なかなか緊張するもんだな。
……さて。
今、これを見てくれているのが美梨である事を願ってるよ。
これで他の人だったら恥ずかしくてたまらないからな。
まあ、とにかくだ。
この向こうにいるのが、美梨だと思って話す事にするよ。
まずはどこから話そうか……。
そうだな、ありきたりだけど――。
お前がこの映像を見ている時、俺はきっと、もうこの世にいないんだと思う。
民警として生きる事を決めた時点で、どこかで命を落とす覚悟はしてきたつもりだ。
でも……美梨、お前と日々を過ごしていく中で、その覚悟はどんどん揺らいでいった。
お前を一人残して逝くのが怖くなった。
もちろん、お前が先に逝ってしまう事も――。
ただ、どちらかが死ぬのであれば、それは何となく俺の方が先だと思ってる。
だから、先にこれを残しておこうと思った。
俺に何かがあったとしても、お前が道を見失わないように。
美梨――お前には、まだまだ可能性がある。
「呪われた子供達」である事を悲観する必要はない。
たとえ今は辛くても……必ず未来は良い方向に舵を切ってくれる。
東京エリアには、聖天子様を筆頭に、そのために死力を尽くしてくれる人達が大勢いる。
だから、何があっても、自分から可能性を捨て去る事だけは、絶対にしないでほしい。
俺がいなくなっても、その先に道は続いていく。
時には見失う事もあるかもしれない。
後戻りしたくなる時もあるかもしれない。
その時は俺の事を思い出してくれ。
必ず――俺が道を照らし出すからさ。
…………………………………………………………………………。
……ふう、こんなところかな。
上手く言えたかは分からないけど、とにかく伝わってくれたら嬉しいよ。
それから……もし、この映像を、藤沢、お前も見ているんだったら、頼みがある。
……――美梨を、俺の代わりに守ってやってくれ。
お前は『第三次関東会戦』で自衛隊としてガストレアに敗北した事に負い目があるみたいだが、俺からすれば、あの戦場に最後まで立ち続けたってだけで尊敬の念しか湧いてこないよ。
俺が言っても説得力はないかもしれないが……お前は弱くなんかない。
里見蓮太郎達みたいな規格外の力がなくても、お前は自分の信念のために戦える人間だ。
それだけは――言い切ってやる。
……さて、そろそろ時間だ。
じゃあな、二人共。
これからも元気でやっていってくれ――』
*
モニターに表示されていた映像が途切れる。
横島民間警備会社の事務所には、冷えた夜風が吹き込み続けていた。伊熊将監に破壊された窓は当然、修理などされておらず、室内の調度品も乱雑に散らばったままだった。
あの瞬間から時が止まってしまったままの空間で、谷塚美梨の流した一滴の涙だけが、現実と共にあった。「……秀貴さん……」とその名を呼ぶと、込み上げてきたものが溢れ出すように涙腺が決壊した。「……うううっ。うッ。うあああああああああああ――――――ッッ!」
*
「お別れはできたかい?」という声が、事務所から出てきた藤沢リカルドを出迎えた。廊下の壁に背を預けて立つ三ヶ島影似だった。彼の傍らには、仏頂面黒づくめのイニシエーターの加倉井咲良もいる。
「まあな」とリカルドは答える。「美梨ちゃんの方は……まだ、そっとしておいてやろう。もう少し時間が掛かりそうだ」
「時間なら、いくらでもあるさ」三ヶ島は遠い目と共に言った。「死者との訣別に近道なんてない。……それが子供なら、なおさらだよ」
「…………」
リカルドは三ヶ島の左腕を見つめる。肘から先が歪に失われた腕部。それこそが、三ヶ島が将監と訣別するために支払った代償なのかもしれなかった。
「それにしても……良かったのか」とリカルドは不意に訊いた。「ここを買収だなんて……」
「横島さんの残した遺言書には、財産全てを谷塚さんに譲ると記されていた。ご丁寧に、この会社の全株式と事業用資産も含む――という注釈つきでね」三ヶ島は流れるように説明していく。「だが、もちろん未成年の谷塚さんでは相続人になる事は認められても、今後の会社経営なんてできるはずもない。能力的にも、法律的にも。だから――誰かが守ってやらねばならない。彼女が過去に踏ん切りをつけて、自らの意思、自らの足で歩けるようになるその時までね」
横島秀貴が死亡した事で、本来であれば美梨の身柄はIISOに返還され、一定の期間を置いたのちに次のプロモーターに引き渡されるはずだった。
民警許可証を取得してプロモーターになる者達は、お世辞にも褒められた人格の者ばかりではない。イニシエーターを戦いの道具として消耗品同然に扱う者や、彼女達をガストレアウィルス保菌者として憎悪をぶつける者さえいる。美梨にあてがわれる『次』の人間が、どういう者なのかは、言うまでもなく運任せでしかなかったのだ
そんな彼女の最後の防波堤として名乗りを上げたのが三ヶ島――正確には彼が代表取締役を務める三ヶ島ロイヤルガーダーだった。
三ヶ島は、自社の民警許可証持ち社員のイニシエーターにするという名目で美梨を引き取り、瞬く間にIISOとの契約も更新し直して、彼女を保護してしまった。そうして彼女の未成年後見人として、その財産を管理する事となり、横島亡き後の会社を買収して、自社の子会社として組み込んだのだった。
もちろん遺書には未成年後見人を指定する文言はなく、三ヶ島が後見人になれる法的根拠は薄かったが、そこは彼が自身の手腕で解決してしまったのだろう。具体的にどういう手法を取ったのかは、あえて聞かない方が良さそうだ。
「なあ三ヶ島さん、何でそこまでしてくれたんだ?」代わりに、ずっと気がかりだった事を投げかける。「今回の件、おたくには滅茶苦茶感謝してる。けど、おたくにそこまでする義理はないはずだ。横島の会社を買い取ったところで、少なくともあと一〇年は利益が出る見込みもない。別に美梨ちゃんと関わりがあった訳でもない。なのに……」
「心外だね。義理ならあるさ」しかし三ヶ島は意外そうに返してきた。「両手の指じゃ数え切れないほどにね」
「それは……」
「――彼女はたとえ一時だったとしても、将監の相棒だった。ガストレアウィルスに飲まれた将監の勘違いから始まり、半ば拉致に近い形で連れ回されていたとしても。私としては、それだけで谷塚さんを助ける十分な理由になる」
「ははっ……おたくんとこが東京エリアでも有数の民警会社になれた理由が、少し分かった気がするよ」
観念したように肩を竦めるリカルドを、三ヶ島は値踏みするように見つめる。「ところで」と経営者の男は、何かを思い出したように切り出した。「――あの話、どうするつもりだい?」
「…………」リカルドの表情が引き締まる。三ヶ島が何について訊いているのかは、詳細を語られずとも分かっていた。「心配ない」と短く言った。「ちゃんと答えるよ」
「それなら早く行くと良い。彼が待ってる」
「でも、美梨ちゃんが……」
「大丈夫」と三ヶ島は迷わずに言う。
「私達がいますので」咲良も続く。「……花火は、ここからでも良く見えますからね」
「……恩に切る」リカルドは頭を深く下げ、身を翻す。
二人に見送られながら、雑居ビルをあとにする。
相変わらず子供に見せられない内容のチラシが散乱したエントランスを抜け、寂れた扉を開けて外へ出る。
「お疲れ、リカルド」
「……! 里緒ちゃん?」とリカルドは目を丸くする。「里見達と先に行ってたんじゃなかったのか? それにその格好……」
街灯の薄明かりの下で佇む里緒の服装は、リカルドが良く知るものとは打って変わっていた。
グレーと黒の中間色のような飾り気のない浴衣。黒のショートヘアは後ろの方で結え上げられ、普段の髪型では隠れているうなじが良く見える。僅かに汗ばんだ肌がやけに色っぽく見えた。
里緒は儚げに笑って、「木更さんに着付けてもらったの」と言った。「似合うかな?」
「ああ、凄く可愛いよ」
「ほんと?」
「嘘なんて言わないさ」
里緒の顔が年相応に綻ぶ。スキップでもしそうなほどに軽やかな足取りで、こちらへ近づいてくる。「一番最初にリカルドに見せたかったんだ。だから木更さんには、あとで合流するって言って出てきたの」
「ははっ、天童社長にはあとで礼を言っとかないとな」
「谷塚さんは……どうだった?」と里緒は少し躊躇いながら問うてくる。
「大丈夫だ」リカルドは迷わずに答えた。「美梨ちゃんはきっと立ち直れる。横島がいなくても、必ずまた自分の足で歩き出せるよ」
「……そっか」
二人並んで、夜の勾田町を歩く。元々この近辺は人の少ない区画ではあるが、今日はいつにも増して閑散としている。たまに車が通り過ぎていくくらいで、誰かと擦れ違う事は一度もなかった。おそらくは大多数の住民が、夏祭りに赴いているからだろう。
「ねえ、リカルド」
「ん、何だ?」
「この日常は……東京エリアの平和は、あたし達が守ったんだよね?」
「……そうだな。俺と里緒ちゃん、里見達――全員で守り通した世界だ」
「そこに……里津姉は含まれるかな……」
「当たり前だろ」とリカルドは、少女の頭をポンポンと叩きながら言う。「あの夜、里津ちゃんが俺を生き延びさせてくれた。そんで、俺と里緒ちゃんを巡り合わせてくれた。あの子がいなかったら、俺達は里見と一緒に戦う土俵にすら上がれなかったんだ。東京エリアを救った連中の中には、間違いなく里津ちゃんの名前もあるはずだ」
「そうだったら……良いな」
「きっと里津ちゃんも、空の上から俺達を見ててくれてる。いつかあの子のいる場所に行った時に、胸を張って再会できるようにしないとな」
こちらを見上げてきた里緒が、消え入るような笑みを返してくる。
あの夜、救えなかった命。彼女と瓜二つな外見の少女。
リカルドは思う。占部里緒の存在は、どうしようもなく弱かった自分への罰であると同時に、これから生きていくのための道標――無二の希望でもあると。
願わくば、自分が倒れるその時まで、彼女には側に立っていてほしい。
胸の内に湧いた感情を、隣の少女に悟られぬよう握り締める。
*
勾田公立大学附属病院、そこの霊安室兼研究室にて、部屋の主である室戸菫は驚きに目を見開いていた。
「これは……!」
菫が凝視するPCのモニターには、傍らの電子顕微鏡で拡大されたものの姿が克明に表示されている。
その正体は、ある人物の血液から採取した細胞だった。
那須鉱山での決戦から一週間ほど経ったあと、三ヶ島影似がここを訪ねてきた。彼から手渡された注射器のシリンダーには、満杯の赤い体液が充填されていた。
体内侵食率が五〇パーセント近くまで上昇しながらも、最後まで人としての形を保ち続けた、とある男の血が――だ。
いつもは幽霊のように青白く、生気のない肌をしている彼女だが、今日ばかりは気分の高揚と比例して、僅かに頬が上気していた。
「期待……はしていなかったんだがね」と携帯電話を取り出し、黒衣の少年の番号を探そうとしたところで、ふと我に返る。かぶりを振り、「……いや、今日はやめておこうか」と天井を仰いだ。「確か今日だったね。勾田町の花火大会は――」
勝利の美酒に舌鼓を打っている最中に横槍を入れるべきではないだろう。そう思い直して、菫は端末を白衣のポケットへと押し込んだ。
「…………」と黙り込んだ菫は、何の気なしに霊安室の出入り口に目をやる。会場は少しばかり離れているが、大学病院の屋上からなら、多少は打ち上がる煙火も望めるだろう。
今日くらい、外に出てみても良いかもしれない。何となく、そんな事を考えていた。
*
「困ります、聖天子様ッ!」
後ろから政策秘書官の加瀬清美の上擦った声が追いかけてくる。それを半ば無視しながら、聖天子はずんずんと歩を進めていく。
純白の少女の服装は、国家元首としての正装であるドレスではなく、素朴な雰囲気のワンピースとパーカーであった。改めて説明するまでもなく、蓮太郎の家に転がり込んだ際に借り受けた変装用の服である。すでにクリーニングと補修は済ませてあり、衣服は新品同然の輝きを取り戻していた。
「お戻りくださいッ! 本当にッ、本当にお願いしますッ……!!」もはや清美は、年甲斐も職務も放り出して泣きそうになっていた。「またいなくなられては……私達も今度こそクビにされてしまいますッ」
そこでようやく聖天子の足が止まった。彼女は一つ溜息を吐くと、白絹のような髪を揺らめかせて踵を返す。
一瞬だけ清美の顔が晴れるが、それはすぐさま絶望の淵に叩き落とされた。
聖天子の一喝が凛と響き渡る。「私には此度の功労者達を労う義務があります。それは今このタイミングを置いて他にありません。これは国家元首たる私が決めた事です。あなた方に止められる筋合いはないはずです」
ぴしゃりと言い放つなり、再び身を翻して歩き出す聖天子。膝から崩れ落ちる清美の事など、もう見えていなかった。
数多の聖居職員、乱入してきた白スーツの羽柴をも問答無用で振り切り、聖居の出入口までやってくると、袴姿の偉丈夫が待ち構えていた。
天童菊之丞は、いつもと変わらぬ固い面持ちで、こちらを見下ろしている。「ずいぶん強情になられましたな」
「今回の一件で学んだのです」と純白の少女は言う。「時には周りの制止も押し退けて、自らの信ずる道を行く事も必要であると」
「それは加瀬や羽柴の解雇と引き換えにしてでも、成し遂げねばならぬ事ですかな?」
「この程度の些事で、彼らを犠牲にする事はいたしません。私の一存でどうにでもできます」
「…………」
「…………」
しばしの間、揺らがぬ視線を交錯させる二人。やがて根負けしたように菊之丞は一歩退いた。珍しく、老翁の口許に笑みが滲む。
「菊之丞さん……?」
「ふふっ……全く、似てきましたね。あの方に……」どこか嬉しそうな様子の菊之丞は、老いを感じさせぬ確かな足取りで、聖天子の脇を擦り抜ける。去り際に、「――東京エリアの条例では、未成年者は午後一一時以降の外出は禁じられております。必ず、門限までに戻ってくるように。良いですね」とだけ言い残して。
「……分かりました」少女は微笑と共に答える。
聖居を出ていく彼女の歩みは、あの時とは異なり、どこまでも軽やかだった。
*
「なあ延珠、良い加減機嫌直せって。良いじゃねえか。皆一緒の方が楽しめるだろ」
「ふんっ」と不機嫌全開の声色で、そっぽを向く延珠。「蓮太郎は何にも分かってないのだ。木更のおっぱいと浴衣姿に鼻の下伸ばして……」
「伸ばしてねえよッ!」とっさに声を張り上げてしまい、周囲から奇異の目を向けられる。取り繕うようにして咳払いして、昂った感情を落ち着かせる。
蓮太郎と延珠がいるのは、花火大会会場近辺の神社だった。夜空には提灯の明かりがぼんやりと浮かび上がり、屋台の電球が煌々と辺りを照らしている。溢れ返った人々の足音と祭囃子が混ざり合い、鼓膜が休む暇を与えない。近くに牛串を売っているテキ屋があるせいか、先ほどから肉の焼ける芳醇な香りが漂ってきていて、胃袋さえも休まらない。
普段のブラックスーツ然とした制服とは異なり、ラフな長ズボンと半袖シャツ姿の蓮太郎は、所在なさげに頭を掻く。
改めて延珠を見やる。彼女の装いも、普段とは大きく異なっていた。
ウサギ柄の可愛らしい浴衣に身を包み、髪もツインテールではなく二つ結びのお団子ヘアとなっている。お気に入りの大きな髪留めは健在だ。
蓮太郎達が今回のテロ事件を無事解決した事で、夏祭りと花火大会は予定通り実施される事となった。
昔の依頼人から、事前に新設高層ビルの展望台への無料チケットを受け取っていた事もあり、延珠の喜びようは半端ではなかった。
だが、そこはまだまだ年端も行かぬ子供。その件について、木更やティナ、さらには菫や多田島、聖天子にまで口を滑らせてしまい、状況は一変した。
端的に言えば、これを知った天童民間警備会社の面々総出で出向かう事になってしまったのである。
これに延珠の機嫌は激変。餌を詰め込んだリスのように頬をむくれさせ、こうして現在に至るのだ。
どうしたものかと頭を捻っていると、人混みの向こうからこちらを呼ぶ声がした。目線を向けると、両手に食べ物の容器を携えた木更とティナが近づいてくるところだった。彼女達の格好も、艶やかな浴衣である。
「木更さん」
「お待たせ、里見君、延珠ちゃん。とりあえず、こんなもので良いかしら?」と容器の片方を手渡してくる。焼きそばがギチギチに詰まったプラ容器の上に、これまたボリューム満点の唐揚げが入った紙コップが乗っている。
礼を言いながら屋台飯を受け取り、「それじゃあ行くか」と周りを促す。
「そうね、行きましょう」と木更も同意し、四人並んで歩き出す。
「藤沢さん達は?」
「あとで合流するって言ってたわ。先に寄っておきたい場所があるんですって」
「そうか……」
「それにしても驚いたわ。あの里見君が誰かを誘うなんて」
「悪い。社長に相談もせずに……」
「良いのよ」と木更が微笑む。「私も賛成よ。君がそんなに他人に信頼を寄せる事、なかなかないもの」
蓮太郎は罰が悪そうに頬を掻く。「受けてくれるかは、まだ分からないけどな」
「大丈夫よ、きっと」
「あの人の狙撃の腕は確かなものでした」とティナは頷きながら言う。「天童民間警備会社に入ってくれたら、凄く頼れる狙撃手にもなってくれるはずです」と唐揚げを頬張る。「もぐもぐ……私も負けていられませんね」
「ふふ、ティナちゃんもこう言ってる。もう私達の受け入れ体制は万全よ」
そうこうしていると、いつの間にか人混みの中を抜けて、神社の境内へ立ち入っていた。目の前には拝殿が厳かに屹立しており、祭りの様子を静かに見下ろしている。
屋台の立ち並ぶ参道とは異なり、周囲にはまばらにしか人がいない。歩き疲れたのか、座り込んで一休みしている者、蓮太郎達のように購入してきた惣菜を食している人々など、目的は様々なようだ。
蓮太郎は周りを見回し、拝殿に続く階段の一角が比較的空いているのを確認すると、延珠達を手招きする。コンクリート造りの階段に座り込み、横に焼きそばや唐揚げの容器を置く。
一息ついてから、そういえば飲み物を買っていなかったと今さらながら気づいた。
「ちょっと買ってくる」と言って立ち上がると、他三人の欲しいものを聞き出してから、その場を離れた。確かここに来る途中で、自販機があったはずだ。
再び参道に戻り、人の波に揉みくちゃにされながら進む。
少し脇道に逸れたところに、淡い光を放つ筐体を見つける。
近づいて財布を取り出そうとしたところで、「――里見」と横から呼び止められた。
聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいるのは、やはり知っている顔だった。「藤沢さん」
いつもの黒いカーゴパンツに、オリーブドラブのワークシャツを羽織った藤沢リカルドは、こちらにヒラヒラと手を振っている。彼の隣には、黒地の浴衣に身を包んだ占部里緒の姿もあった。
「直接会うのは久しぶりだな」とリカルドは控えめな笑みと共に歩み寄ってくる。彼は自販機で缶コーヒーを三本買うと、一本を里緒、もう一本を蓮太郎に投げ渡す。
蓮太郎が礼を言うのも待たず、リカルドは言った。「……少し話さないか。二人にだけ伝えておきたい事がある」
境内の隅の人目につかないところにやってきた蓮太郎は、そこで改めてリカルドと向き合う。彼に買ってもらった缶コーヒーはすでに半分ほど飲み終えていた。
頭上ではガサガサと木々が揺れる音が響いている。喧騒から離れたところは、やはり人の織り成す熱気が薄い気がした。首筋を撫でる空気は、どこか冷たい。
「里見、里緒ちゃん。まずは二人に謝らないといけない事がある」とリカルドは切り出した。「……あの時、俺が那須鉱山に残ったのは……自衛隊としての使命を果たすだとか、そんな高尚な理由じゃない。ただの個人的な私怨を晴らすためだった」
予想外の告白に、蓮太郎の言葉が詰まる。「……っ、それって……」
「俺は自分の手でリトヴィンツェフを殺したかった。だから皆を傷つけて、皆を騙してまで、あの場に残る事を選んだ」
「…………」
「里見――俺は、ずっとお前に対して拭い切れない劣等感を持ち続けてた。第三次関東会戦で、アルデバラン率いる大軍勢相手に一歩も退かずに互角に戦い続けるお前達を目の当たりにして……俺は、それまで自分の積み上げてきた、ちっぽけなプライドがズタズタに引き裂かれるのを感じた」
蓮太郎は返す言葉を見つけられない。
あの戦いの惨状は、蓮太郎自身も嫌というほどに身に刻まれている。東京エリアを守るために最後の作戦に臨み、数多の命が散っていった。蓮太郎のアジュバントも、最終的に薙沢彰麿を失った。
リカルドは自衛隊として戦ってガストレアに敗北し、最後は民警達に混じって戦って、多くの仲間の死をその目で見届け続けた。奪われた自尊心と、植えつけられたトラウマによる恐怖は、人一人の人生観を変えるのには十分過ぎるだろう。
「自衛隊をやめて傭兵稼業なんかに落ちて……誰にも誇れないクソみたいな生き方しかできなくなって……。けど、そんな中でも、自分を受け入れてくれる人達もいて……そいつらと一緒に生きていくのも悪くないなんて思い始めていた」
直接言及こそしていないが、おそらくは横島秀貴と谷塚美梨の事なのだろう。
だが、彼らの迎えた末路は、蓮太郎も知るところだ。
「俺は……二人の未来を奪ったリトヴィンツェフとユーリャを許せなかった……。たとえ俺自身が奴らと同じ道を歩む事になったとしても……この手で復讐を果たしたかった……」
「……まさか」と蓮太郎は恐る恐る言葉を連ねる。「あのあと……殺したのか、リトヴィンツェフ達を……」
だが予想に反して、リカルドは首を横に振った。「駄目だったよ」と罪人が告解するかのように呟く。「……俺はどこまでも中途半端な奴でしかなかった。自分なりの覚悟を持って、あの場に残ったはずなのに――結局リトヴィンツェフの言葉に踊らされて、奴らをおめおめと見逃しちまった」
「……藤沢さん」
蓮太郎には、那須鉱山決戦後の最後の瞬間に何が起きていたのかは知る由もない。目の前にいる男が、どんな葛藤を経て、今ここに立っているのか――その全てを知る事はできないし、知る権利さえ持ち合わせていない。
だが――それを踏まえた上で、蓮太郎は、「でも、だからこそ藤沢さんは生きてここにいる」と言った。
リカルドの視線がゆっくりと持ち上がり、自嘲と迷いに満たされた瞳と目が合う。
「俺の身勝手な思いかもしれないけど、俺は藤沢さんが生きて帰ってきてくれただけで嬉しかった。……これ以上、仲間を失わなくて済んだ事に、心底ホッとした」
「…………」
「だから、藤沢さんは何も気に病まなくて良い」
「……ははっ、優しいんだな。里見は」と傭兵の男は力なく笑うと、一度蓮太郎から視線を外して空を仰ぎ見た。「さっきも言った通り、俺はどっちつかずの半端者だ。だからこそ、俺の抱える意思はどちらも本心なんだろう」
ややあって、リカルドは上げていた頭を静かに下げ直した。元自衛官らしい精悍な顔立ちに嵌まる双眸には、もはや微塵の葛藤も逡巡も残っていなかった。
「里見――天童民間警備会社に入る話、ぜひとも受けさせてくれ。俺に、これからも英雄の隣で戦わせて欲しいんだ」
*
蓮太郎と共に、天童民間警備会社の面々の待つ場所に向かうと、明らかに当初の予定人数よりも増えていた。
具体的には、派手な色の和服美人と、白一色の服装の美人が追加されており、天童木更と何やら言い合っている。
「未織? それに聖天子様!?」さしもの蓮太郎も驚きを隠せないようだった。司馬重工の令嬢の方はともかく、国家元首の方は本来そう簡単に外出できるような立場ではないはずだ。
リカルドの脳裏に嫌な予測が立つ。「……どうするよ大将」と横にいる蓮太郎を見やる。「もう俺は厄介事の匂いしか感じ取れないんだが……」
「……俺も同意見だ、藤沢さん」
心底面倒臭そうな顔で賛同する蓮太郎だが、運命はこの少年を弄ぶのをやめてくれないらしい。
里緒が現場を指差す。「気づかれたみたいだよ」
三人の視線が一斉にこちらを向く。その眼光は一様に肉食獣のごとき輝きを放っていた。
リカルドは内心で蓮太郎に黙祷を捧げる。
みるみる内に近づいてくる木更、未織、聖天子に、黒衣の少年はたじろぐ事しかできないようだった。
「ええと……木更さん、頼まれたの、買って、きた……」
「誰を選ぶのッ!? 里見君は!」と木更は、もの凄い剣幕で蓮太郎へ詰め寄ってくる。少年の腕に抱えられてるペットボトルの山には見向きもしていない。「里見君の体は一つでしょ! お祭り、誰と一緒に回るつもりなの!?」
「もちろんウチとやろ? 里見ちゃん?」未織も負けず劣らず、べったりと蓮太郎にくっつき、ほっそりとした指を艶かしく少年の首筋に這わせる。
さすがにザ・箱入り娘な聖天子はそこまで大胆に迫る度胸はないようで、「私は里見さんに、今回の件のお礼をしたいのです」と控えめに言う。「菊之丞さんからの許しは出ております。だから……私と共に来ていただけますよね?」
絶世の美女と言っても差し支えない三人に言い寄られているのを見ても、全く羨ましいと思えないのはなぜだろうか。
とりあえず里緒を連れて爆心地から逃れようとしたところで、さらなる乱入者が現れる。モデル・ラビットの因子で宙高く跳躍した延珠が、蓮太郎と木更の間に割り込むようにして降り立った。
もはや一寸の我慢もできないといった様子で憤慨する。「今日蓮太郎は妾とデートするはずだったのだ! おっぱい星人達はお呼びでないのだあああああああ――――――ッッ!!」
蓮太郎の手を引いて、その場から怒涛の勢いで離れていく。二人の姿はすぐに見えなくなった。
その場に残された年長者三人は、互いに顔を見合わせると、力が抜けたように笑い合う。
「ま、展望台の無料招待券は里見君と延珠ちゃんの分しかなかったし。結局よね」と木更は肩を竦めて、かぶりを振る。
「くやしいけど、やっぱ里見ちゃんの隣には延珠ちゃんが似合うわあ」「……聖居の権限で展望台のチケット、買っておくべきでしたでしょうか……」
木更達を見やりながら、リカルドは横に気配が一つ増えているのを感じ取る。見下ろすように視線を移すと、ぎこちない箸遣いで、焼きそばを啜るティナの姿があった。
「ティナちゃんはあっちに参加しなくて良かったのか?」
「どうもあの人達を見ていたら、こちらが冷静になってしまって」とティナは言う。「今日の私はもぐもぐ……ごくん。……純粋に日本の夏祭りとやらを楽しみに来ただけですよ」
「どうやらティナちゃんの方が大人らしいな」リカルドは苦笑し、「それで、祭りは楽しめてるか?」と訊いた。
「はい。ご飯は美味しいですし、この独特の雰囲気も凄く興味深いです」
「そりゃ良かった。ちなみに言っとくが、ここの花火大会は凄いぞ。例年、とんでもねえ数の花火が打ち上がるからな」
「そんなにですか?」
目を丸くするティナに、リカルドは楽しそうに頷いてみせる。
「この感動を初見で味わえるのは、外国人の特権だろうな。特に今年は――絶対にいつもより気合いが入ってるはずだ」
「そう……ですね」
今年の勾田町夏祭りは、凄惨な戦争を回避する事に成功した祝祭の意味合いも強い。一度は開催も危ぶまれたからこそ、自治体がそこに掛ける想いは確かなはずだ。
「さて、里見達も行っちまったし、俺達も行くか」とリカルドは歩き出す。「良く見える穴場を知ってるんだ。ティナちゃん、皆を呼んできてくれないか」
*
その日の勾田町の夜空は、満天の光の華が咲き乱れた。
雲一つない藍鉄色のキャンバスの上に、七色の煙火が入れ替わり立ち替わり弾けていく。尺玉の炸裂する音が、絶え間なく街中に響き渡る。一瞬の輝きが幾重にも重なり、郷愁的かつ幻想的な情景を描く。
地上二〇〇メートルの展望台から眺望する打ち上げ花火は、生まれてこの方一度も味わった事のない感動を刻み込む。
「…………」高鳴る鼓動に胸を震わせながらも、藍原延珠の意識の半分は別のところにあった。
那須鉱山脱出前にユーリャ・コチェンコヴァと交わした最後の会話が想起される。
――一つだけ、気になっていた事があるんです。
――覚えていますか? 私と延珠が初めて出会った時の事です。
――海浜公園でボートに乗ってモノリスに近づいた時に、あなたは頭部の痛みを訴えていましたよね?
――……その時は、本人の体質もあるのだろうと流してしまいましたが……後日、気になって私なりに少し調べてみました。
――延珠。
――あなたに告げられている体内侵食率は、本当に真実なのでしょうか?
――あなたは自らの預かり知らぬところで虚構の型枠に押し込められていませんか?
――あなたの傍らにいる彼は――本当に信用に値する方なのでしょうか?
延珠は無言のまま自身の胸許に手を突っ込むと、紐で首に提げられた小さな金属板を握り締める。あの日、ユーリャから託された彼女自身の識別票だった。
金属板は外気の熱気と、延珠自身の体温で熱せられて、じんわりと温かい。
失われてしまった友人の残滓を手のひらに感じながら、隣にいる相棒の少年を見やる。
彼はまだこちらに視線に気づいていない。
それを分かった上で、延珠は儚げに微笑みながら口にした。
あの時、ユーリャ自身に告げた言葉を、もう一度。
「――妾は信じるのだ、蓮太郎を。たとえ、どんなに辛い現実があったとしても――蓮太郎は必ず妾を助けてくれるから。だから、きっと大丈夫なのだ」
少女の言葉は、花火の爆音に掻き消されて、少年へ届く事なく喧騒に溶けていく。
それでも構わないと、今だけは――そう、確信する事ができた。
*
二〇三一年一〇月四日、藤沢リカルド、民警許可証を取得。
同年同月九日、占部里緒の身柄が国際イニシエーター監督機構へ引き渡される。
同年同月一二日、当人達の強い要望を受け、占部里緒を藤沢リカルドのイニシエーターとして正式に任命。
先の天秤宮召喚に伴う一連の事件を解決に導いた功績を加味し、東京エリア国家元首、聖天子の進言と併せて、同ペアのIP序列を四一〇〇番からスタートする事を決定。
同年同月一八日、同ペアは里見蓮太郎の推薦を受け、天童民間警備会社へ入社した。
また、里見蓮太郎、藍原延珠ペアについては、今回の功績を天蠍宮撃滅以来の特一級戦果とし、序列を今現在の二一〇番から七五番へ引き上げる事とする。
追記:今回の里見、藍原ペアの序列上昇に伴い、同ペアにはレベル九の機密情報アクセスキーが付与される事となる。したがって、プロモーターが例の件について知る可能性が高い。その後の処遇に関して、別途取り決める必要があると思われる。
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・藍原延珠、ガストレアウィルスによる体内侵食率四四. 六%。
・予測生存可能日数消費まで、残り???日。