なによりも、私自身のために。
七月初旬の暑い日曜日。鞄を背負い、手に黒の鉛筆と色鉛筆、それとノートを持って学校の玄関から出ます。
日差しが肌に強く照り付けてくる。校舎のすぐそばにある木の影に入り込みます。
もう汗が吹き出してきています。それを拭いながら、グラウンドを見渡しました。
壮快な金属音。野球部の人がボールを打った音。
そこから少し離れてサッカー部の人、二、三人がひとつのボールを追いかけています。
その外側を囲うように陸上部の人たちが十人くらい走っている。走っている人たちの中にいる、私の大切なお友達――このちゃんはすぐ見つかりました。
手に持っていたノートをめくる。
鉛筆画が描かれているノートの、まだ何も描かれていないページを見つけると、私はあたりを付け始めす。
全体像をイメージする。このちゃんの走る姿を捉え、どう描くかを決める。
背景は突き抜けた青空と、土のグラウンド。
音楽は運動部の人たちの掛け声とセミの鳴き声、遠くに聞こえる車の音。
走っている姿を一枚の静止した紙の中に、一瞬の姿をイメージとして固定。
たくさんの動を一つの静とするべく、白い紙に線を引き始めます。
このちゃんがトラックのカーブを曲がり、一番近づいてきた直線のところでこのちゃんが手を振ってきます。
「なに描いてるのーっ!?」
大きく、元気な声で訊ねる。
「ひみつですーっ!」
冗談めかして答えます。ちょっとした、いたずら気分。
このちゃんは楽しそうに走っていた。楽しそうで、一生懸命な表情。
走るときに一つにまとめている、風に流れる長い髪。少し高めの身長。
走っているこのちゃんは、綺麗でかっこいいです。
まだまだ下手で、頭の中で固めたイメージと離れてしまうのがもどかしい。
それでも、描いてて楽しいのはこのちゃんが楽しそうに走っているからかな?
しばらく、細かい部分にこだわっているうちに顧問の先生の声がかかります。
走っていた人たちが集まり、少し先生が話したあとその人たちが解散していきます。
このちゃんが駆けよってきました。
「もう終わりですか?」
「うん、ちょっと待っててっ」
この暑さで走っていて汗だくになっていながら、このちゃんは元気です。
私に声をかけると、すぐ校舎の中に走っていきました。
このちゃんを待つあいだ、ノートを見直していた。気が向けば描いている鉛筆画は、中学に入ってからはこのノートで三冊目。
気が向いたときに目に留まった人や物を描くだけで、だれかに見せるわけじゃないけれど。
突然、ノートが抜き取られる。
ノートを目で追うと、制服に着替えたこのちゃんが私から奪い取ったノートを見ていました。
「おおっ~、ずいぶん描いてるね」
「わっ、わっ」
慌ててノートを取り返そうとするものの、軽くかわされてとても取り戻せそうにありません。
「ほんと上手だよ! すごーいっ! しかも解説つき。絵日記みたい!」
目を輝かせながら、私の描いた鉛筆画を眺めるこのちゃん。
「恥ずかしいです、このちゃんっ」
「えへへ、ごめんね。でも、本当に上手だよ! もっと見たいな」
「むー、このちゃんがそういうのなら……下手でも、笑わないでね?」
「合点でい!」
「なんですかその返事っ!?」
「なんとなくそんな気分で!」
「気分なんですか!?」
*
五月七日
絵:大きなお弁当箱とこのちゃん
今日はクラスの皆と遠足に行きました。
お昼ご飯は、給食じゃなくてお弁当です。
このちゃんはよく食べます。私の二倍くらい食べます。
まずお弁当箱が大きいです。
それととてもおいしそうに食べます。だからよく育つのかな?
このちゃんって、とても幸せそうに食べるよねって言うと、だってお腹がすくからと返ってきました。
結局よく分かりません。
今日のお弁当はお母さんに言って、自分で作ってみたんだと言ってました。
私はあまりお料理の経験がないから、やっぱりこのちゃんはすごいです。
私もお料理の練習をしようかな?
五月十日
絵:葉桜になった桜の木
学校には桜の木があることが多いです。私の学校にも桜の木が何本もあります。
葉桜になった木を眺めていると、このちゃんが話しかけてきました。
入学式の桜は綺麗だったと話していると、このちゃんは楽しそうに同意してくれました。
「サクランボの実はならないのかな? 私サクランボ好きなんだ」
このちゃんは雰囲気を壊すようなことを言いました。このちゃんはちょっと食い意地が張っています。
「このちゃん。サクランボは、観賞用の桜にはできないんですよ」
私がそう返すと、このちゃんはちょっと残念そうでした。
でも、そんなこのちゃんを見て私はちょっと微笑ましい気持ちになりました。
*
「ゆきちゃん!? これだと私が食いしん坊さんみたいだよ!?」
「違うんですか?」
「断固異議を申し立てます! 私は食いしん坊さんではありません!」
「ふふっ。では、そういうことにしておきますね」
「ゆきちゃん、笑ってる! 笑いながら言われても納得できないよ!?」
*
六月十五日
絵:線の上に並ぶカエルたち。
今日の五時間目は音楽の授業だった。
後で、楽譜を目で追いながらメロディを思い出す。黒の線と音符が並んでいる楽譜。
そういえばなんで、音符を「おたまじゃくし」っていうのかな?
おたまじゃくしってカエルの赤ちゃんだよね。つい、カエルがならんだ楽譜を想像しておかしくなってしまいました。
六月十八日
絵:お米にいる神様達
お米一粒に七人の神様が宿っているとお母さんに教えてもらいました。
それじゃあ、今日食べたおにぎりには一体どれくらいの神様が宿っているのでしょうか?
もしかしたらすごくばちあたりなことをしてしまったのかもと、少しだけ――本当に少しだけ、心配になりました。
だって神様を食べちゃったのです。
そう言うとお母さんは「雪菜はいい子ね。神様なんだから食べられたって大丈夫なのよ」と言いました。
でも、神様はお米だけに宿っているのでしょうか?
お母さんは神様はなんにでも宿っていると教えてくれました。
ということは私のお腹の中は大騒ぎなのかも。
神様なのですから、みんないい人(人じゃないけれど)なので、きっとみんな仲良しです。
私の体で神様達はなにして遊んでるのかな?
*
「……笑うなら笑って良いですよ、このちゃん」
「……ゆきちゃん、かわいいね!」
「むー! 笑いをこらえながら言われても嬉しくないですっ!」
「笑って良いって言ったの、ゆきちゃんなのにーっ!?」
*
六月二十日
絵:イルカさん
テレビでイルカさんの番組を見ました。
イルカさんも家族や仲間たちがいて、助けあっているんだってことを知りました。
このちゃんに「イルカさんって超音波で会話してるんだって。すごいですよね」って言ったらなぜか、このちゃんが泳ぎたいって言い始めました。
もし海に行けたら、イルカさんと話せたらいいな。
*
「野生のイルカに近づくと危ないから、辞めた方が良いよ?」
率直に夢を壊されるようなことを、このちゃんに言われました。
「分かってますっ」
ちょっとだけいいなと思っただけなんだから。
「それはともかく、イルカの話をしていたら、泳ぎに行きたくなっちゃったなあ」
「今まで走っていたのに? 今度は泳ぎたいなんて、このちゃんは元気ですね」
「む。ゆきちゃんだって、去年のプールじゃあ私と競い合って泳いでたもん!」
「このちゃんには敵いませんでしたけどね」
「でも良い勝負だったよね!」
「ふふっ、そうですね」
運動でこのちゃんに勝てる気はしないですけど、このちゃんの笑顔を見ていると仕方ないなあと思ってしまいます。
このちゃんはちょっとずるいです。
*
七月二日
絵:勉強しているこのちゃん
数学の宿題をこのちゃんに教えてもらいました。
このちゃんは数学がとても得意です。なんと学年で一番でした。
私も成績は良い方だと思いますけど、このちゃんに教えてもらうことがあります。
特に今回の宿題はかなりの難問で、少し厳しいです。
このちゃんはクラスで人気なので、こうしてお勉強していると、このちゃんに教えてもらいたいって子が結構来たりします。
時々、他の子達の会話で脱線しかけるけれど、皆ちゃんと宿題に取りかかります。
それでも、宿題を全部解き終わるのに昼休みいっぱいかかってしまいました。
*
ノートを返してもらった後、暑さから逃れるようにこのちゃんのお部屋にやってきました。
「夏休みになったら、泳ぎに行こう!」
お昼ごはんを食べた後、このちゃんが元気に言いました。
このちゃんは中学生になっても、小学生の時と変わらず――ううん、それ以上に体を動かすのが大好きみたいです。
「小学生の頃の水着しか持ってないなあ、私」
「奇遇だね、私も小学校の時の水着しか持ってないよ!」
「それ奇遇って言うの?」
「えへへ~、ゆきちゃんとお揃い!」
「ふふっ、もうこのちゃんってば」
本当にこのちゃんはいつでも元気一杯です。私まで元気を貰っているみたい。
「そうだ! さっきみたいな絵を描いたノート、何冊あるの?」
「その一冊だけですよ」
とっさにうそを言ってしまいました。だってあまり見られたくないです。
「そんなことないよ! だってゆきちゃんずっと前からいつでも絵を描いてるもん!」
「捨てちゃいました」
「うそだーっ! 今度見せてよ」
「恥ずかしいですっ」
「そんなことないよ。とっても上手だったし」
「描き始めたころの絵なんて、見せられるものじゃないですっ」
「むー。ゆきちゃんの成長の記録が見たいのに」
「そ、そんなに言うなら、このちゃんをモデルに絵を描いちゃいますよ!」
「どんな脅し!? あ、でも描くならかわいく描いてね!」
そう言って謎のポーズを決めるこのちゃん。
「予想以上に乗り気ですっ!?」
「って、そもそもゆきちゃん、結構私を描いているよね!? 今更だよ!?」
「ノリツッコミですか!?」
そう言い合うこのちゃんは、私が側に置いていたノートをさっと取ってしまいました。
――って、そのノートは駄目です!
「ほら、やっぱり私が結構描かれているもん! これは、モデル代をゆきちゃんに請求する権利が私にある!」
「わ、わっ! 返してくださーいっ!」
私は必死にノートを取り返そうとします。
「なるほどなるほど……私やクラスのお友達も多いけど、お兄ちゃんも描いているんだね」
「そ、そうですね。べ、別に他意はなくてですね、たまたま目に止まった人を心に留めて、後で描いているだけですから」
「へー、そうなんだ。やっぱりゆきちゃんの絵は凄いなあ。お兄ちゃんもだけど、私も絵があんまり上手くないから上手に表現できないけれど、うん、凄い!」
「ふふっ、そう言われると嬉しいですね」
「でも、結構お兄ちゃんの絵が多くない?」
「き、気のせいじゃないでしょうか? ほ、ほら私は家族以外の男の人の知り合いって、このちゃんのお兄さんぐらいしか知らなくてですね、他に男性のモデルがいないと言いますか――」
「それもそっかー」
顔が熱いのはきっと夏だからでしょう。私はそう思うことにしました。
*
七月十八日
絵:元気に泳ぐこのちゃん達
今日はこのちゃんやお友達と皆でプールに行きました。
やっぱりこのちゃんはとても元気に泳いでいます。とっても楽しそうです。
私も皆も、このちゃんの元気を分けてもらったように、一緒にはしゃいでしまいました。
太陽の光を反射してキラキラした水と、このちゃんの笑顔がとても輝いていました。
ただ、去年は保護者役としてこのちゃんのお兄さんが一緒に来てくれたのに、今年は中学生になったからか、このちゃんがお兄ちゃんがいなくても大丈夫だよと断ってしまいました。
お兄さんは部活もあって大変なのだろうけれど、少し残念です。
私がゆっくりと泳いでいると、このちゃんが「きゅーきゅー」と言いながら近づいてきました。
このちゃんどうしたのと訊くと、「イルカだよ!」と答えてくれました。
私がイルカさんとお話しできたら良いなって書いていたのを、覚えてくれていたみたいです。
でもこのちゃんの言っている「きゅーきゅー」という声が何を言っているか分かりませんでした。そう言うとこのちゃんはちょっと不満そうでした。
私もこのちゃんを真似て鳴き声っぽく言ったら、このちゃんは「分かった! ゆきちゃんはカレーが食べたいんだね!」と言いました。
それはきっと、このちゃんの気持ちだと思います。
*
七月二十五日
絵:屋台を巡り歩くこのちゃんとお兄さん
今日はこのちゃんと、このちゃんのお兄さんと夏祭りに行きました。
お兄さんの迷惑になるかなと思ったけれど、ちょっと勇気を出して、お兄さんも誘ってみました。
邪魔にならないかなとお兄さんは少し遠慮気味でしたけれど、このちゃんが「お兄ちゃんも、私と一緒に全ての屋台を制覇しようぜ、べいべーっ!」って良く分からないことを言い出して、そのまま押し切られて一緒に行くことになりました。
嬉しいけれど、それはそれとして、たまにこのちゃんは良く分からないことを言います。
祭りの会場を歩くこのちゃんとお兄さんは、二人並んでいるとやっぱり絵になります。
二人とも優しくて、温かい人だからでしょうか。私もなんだか穏やかな気持ちになります。
でも、お兄さんが浴衣を褒めてくれたときは、心臓がばくばくしてしまいました。どういう返事したのかよく覚えていません。
ちなみに屋体の完全制覇はもちろんしませんでした。
このちゃんもきっと、その場のノリで言っただけだと思います。
*
今日もこのちゃんは陸上部の練習でした。
「このちゃんは走るのが好きなんですね」
「え、どうして?」
「この夏の日差しでも、楽しそうに走ってますから」
「うーん、走るのも好きだけど、泳ぐのも好きだし、サッカーとかも好きだよ?」
「ふふっ、このちゃんらしいです」
「私らしいかぁ。でも、ゆきちゃんもいつも絵を描いているよね。ゆきちゃんらしいと私も思います!」
「くすっ、上手く返されちゃいましたね。でも、確かに私は絵を描くのは好きですし、私らしいと言われても不思議じゃないです」
「ゆきちゃんはいつから絵を描いているの?」
「そうですね……小学三年生の頃からでしょうか」
「三年生というと、ちょうどゆきちゃんと初めて同じクラスになった頃だねっ」
「はい、そうですね。なんだか懐かしいです」
私は、初めてノートに絵を描いた日のことを頭に思い描く。
とても下手で、でも今に繋がる、青空と飛行機雲をノートに描いた――始まりの日。
*
四月二十七日
絵:青空とひこうき雲
今日、なんとなく、いらなくなったプリントのあいたところに絵をかきました。
それを、となりの席の
へたではずかしいと思ったけど、朝霧さんは、とてもほめてくれました。てれくさいけれど、うれしかった。
そして「
私には、朝霧さんがどうしてそう言ったのか、よく分からなくて、うまく言葉をかえせませんでした。
下校のじかんになって、教室から出て帰ろうとしたとき、ふと上へのかいだんが気になりました。
私はすこしどきどきしながら、ぼうけん気分でかいだんを上っていきます。
四かいのさらに上。がんじょうそうなトビラがすがたを現します。
おそるおそる、冷たいノブに手をのばした。
ゆっくりとおすと、カギはかかってなく、あっさりと開きました。
うすぐらさになれた目にすこしまぶしい日ざし。
続けて、あたたかい空気がふきこみます。
とじかけた目を開いて、私はゆっくりとフェンスにちかよりました。
そして――私は、私の町を見わたしていました。
フェンスがはられた屋上のはしから下を見ると、何十人もの人たちが見えます。
私とおなじ小学生の子達の声が、どこかちがう世界の音のように聞こえてきました。
私と同じで、ちがう。そんな人たちのこえ。
頭上から空気をふるわせるような小さな音が聞こえてきます。
上を見るとひこうきがとんでいた。白いひこうき雲を作りながら山へむかっていきます。
ここはなんて広くて、たくさんの人たちがいるんだろう。
今、この世界には私しかいない。そんな気分です。
どうして朝霧さんは私のことをすごいと言ったのでしょうか。
だって、朝霧さんは算数もとくいで、かけっこもとっても速くて、まだ四月なのにもうクラスで大人気です。
私は、算数もかけっこも苦手です。朝霧さんの方が、ずっとすごいです。
答えは分かりません。私には分からないことばっかりです。
ふと、空をもう一度、あおぎました。まだひこうき雲はそこにありました。
だれにもおぼえられることなく、あのひこうき雲はもうすぐ消えてしまう。
そのひこうき雲を覚えていることができるのは、きっと自分だけなのでしょう。
すぐにカバンからノートとえんぴつを取り出します。
なぜか、さっき書いていたプリントの空いたところにかく気にはなりませんでした。
ノートに、青空にかかれたひこうき雲をのこしていく。
正体のつかめない、満たされたような気分と、もっと上手くかければいいのにというもどかしい思いがかけめぐります。
もっと、いろんなものをかいてみたいな。そう思いました。
私なりに、作っていきたいな。朝霧さんがすごいって言ってくれた、私の好きなことを。
*
「このちゃん」
「どうしたの、ゆきちゃん?」
「ありがとうございます」
「ふえ? なにが?」
「ふふっ、なんとなくです」
私はそう言って、このちゃんに笑いかけました。
今日は何を描こうかな。
描きたいものがたくさんあって、困ってしまいますね。
素敵な題材が、私の周りには沢山ありますから。