ラフマニノフの鐘を弾く世良真純というのがこの物語の初めとなった構想で、以降は後付の長い尾鰭です。尾鰭の最後まで美しく見せようと四苦八苦してこの1年半の間更新が止まっていました。
日本に残るという選択が正しかったかどうか真純にはわからない。しかし少女は後悔はしていなかった。母に一人前として認められたのが嬉しく、一人で生きるということを楽しんでいたからかもしれない。そもそもシックスフォームカレッジには間に合わないし、ファウンデーションに行く気もなかったので元々日本にとどまる気ではいたのだが。母が縮む前は普通に帰国して高校に入る予定だった。家だって準備していたしホテル暮らしになるはずではなかった。荷物……はもとより少なく、纏めてあってそのお陰ですぐに日本に来ることができた。まさか大元の組織が日本にあるとは思ってもみなかったが一般人より警戒する生活はいつも通りですぐに慣れてしまった。いつもよりちょっとだけ深く関わった群衆劇は少女が想定していたよりもあっさり終わりをむかえる。正義を掲げた側の大団円といっていい終幕には、高校生探偵は戻ってきて、死人が一人生き返り、二人の小学生が遠くに旅立った。喫茶店のバイトもいくばくもしないうちに独立するとかなんとかで消えて、少女の母も母として帰ってきた。目隠しを甘んじて受け入れていた少女に初めて母から与えられた選択肢が日本に残るか否か。母から離れることに不安はあったが、自ら選択させてもらえたことを喜んだ。少し考えてから、兄たちに倣って親離れに挑戦することにした。はたして順調に高校を卒業し、国立難関大学の合格を条件に一人暮らしまで実現した。大学生にもなっていつまでも新婚夫婦の家に転がり込んだままでは申し訳なく、ちょっと口うるさい兄から離れたかったというのもある。さんざん指に傷をこさえながら作っていた料理が今では一人分ならどうにか作れるようになった。大学こそ違うものの蘭や園子とでかけたり、はたまた新一と事件について議論を交わしたりと充実した大学生活はあっという間に過ぎていった。
大学生の夏休みもとうに終わり、後期の授業が始まった頃あい。季節はいつの間にか暑さを忘れて長袖がちょうどよい温度になっていた。避暑地として有名なこの地だが紅葉の季節も人気がある。ただ、今日はあいにくのくもり空で道路が混み合うほどの人ではなかった。流石に暑さは遠のいているが台風が近づいてきているため過ごしやすいとは言えないじっとり湿った空気の中、写真は手に入ったしこれからは観光でもしようかとバイクにまたがった。幾ばくもしないうちに雨が降り出すも、天気予報では告げられていなかったのだからすぐに通り過ぎると見当をつけ、コンビニに軒を借りる。このまま夜には家に帰る予定だったがこれでは泊まる場所を探すべきかもしれない。スマホで検索すれば駅前のビジネスホテルなら今からでも予約が取れそうだった。しかし愛車を濡らさないための屋内駐車場は駅前に直接行って探すしかなさそうだった。さて、と空を見上げればやや数を減らした雫が降り続けていた。
「あれ、世良か?」
「へ、工藤くん!なんでここに」
まあ捜査協力で、ちょっとと少しもたつくような話し方にまた何かを隠していることを察した。どうやって攻めてやろうか……と脳内でくるくるとこねくり回していると工藤から当然の問いが投げかけられた。
「そういうお前はなんでこんなとこにいるんだ?」
「バイトでさ。ちょっとこっちまで追いかけてきたんだ。そろそろ帰ろうかと思ってたんだけど、この雨じゃどうしようか悩んでるとこだよ」
ふうん、と少年が濡れ鼠になった全身を流した。ジャケットがかなり雨を弾いたのだろうが晒されていた首から水が染みてしまったらしい。
「これ、明日まで続きそうだぞ。嵐だってさ」
「え?そんなこと、天気予報で言ってたかなあ……泊まっていくのもバイクしまうとこがあるといいんだけど」
肩を落としてしょげている真純に救いの手を差し伸べるべく工藤は「じゃあさ、」と声をかけた。
それからスルスルと連絡がついて捜査員が借りている別荘の一部屋を貸してもらえることに落ち着いた。口ごもった理由は長兄である赤井も来ていたからのようで、身内に連絡せず来日したことを拗ねるのではと危惧されたらしい。流石にそんなことしないのに、と別の方向で拗ねる世良は赤井に声をかけられすぐに機嫌を直していた。彼らが捜査会議と言って客間に籠もる中、世良は館内をさまよっていた。濡れた服の代わりに近くのショップで買ったシンプルなワンピースはいつもと違いふわふわと裾が少女につきまとう。湿度が高いせいか、足音が響いているように感じる。捜査員の数からすると少し大仰なこの館は少女の与えられた部屋を除いてもまだ空きがあるようだった。ひとりで過ごすには物足りなさを感じる。
ふらり、と開けた扉の先はレッスンルームになっていた。年季が入ったグランドピアノは引っかかることもなくその蓋を持ち上げることができた。白鍵を押すとそこまで狂ってはいないようで思い通りの音が壁に吸い込まれていく。どうせこの近くにいる人間は現在己しかいないのだから、と少女はそのまま指を鍵盤に押し当てる。
短調の悲しげな響きが止むことのない、雨模様によくあっているような気がした。しかし、重厚な音から始まる前奏曲は音もない気配によって途切れることになった。ふわりと風が吹く。
「ラフマニノフ前奏曲Op.3 No.2。君がピアノを弾けるとは思いませんでした」
「会議はどうしたんだ?暇なんだな安室さん」
「ですから僕の名は降谷です。」
言ったでしょう、と聞き分けのない子供を叱る声音を出されると少女は頭の中でカチ、とスイッチが切り替わるのを感じた。
「安室さんで慣れたからな。なかなか変えられないんだ」
全く会うこともないし、と続ける。少々強めに扉を引く音がすると男はこちらに近づいてきたようだった。キャスターの近くで少女の顔を眺めている降谷は綺麗すぎる笑顔を浮かべている。
「続き、弾かないんですか。まさか途中までしかできないとか」
「そもそもあんたが入ってきたからやめたんだよ!言われなくても一曲弾く気でいたんだ」
僅かに覗く庭では気の早い秋薔薇がいくつか咲き始めていた。閉めているはずの窓から湿気がはいりこんでいるような気がする。頬に当たる空気は僅かに重く身体が強ばり自然と動きが小さくなった。鍵盤はなめらかに落ちてはハンマーが弦を弾き空気を揺らす。鐘の反響が雨音と重なり呼び込まれるように雷鳴が轟いた。ホワイトアウトした視界に少女は目をまたたかせるが別の生き物であるかのごとく指先は変わらず踊り続ける。鐘は最後に一際大きな響きを残してそのまま静まり返っていった。指は3,4秒の停止を経て膝に落ちると少女は口を開く。
「会議はもう終わったのか。じゃあシュウ兄や工藤くんも帰ってくるんだな」
「いえ、今は各所からの連絡待ちです。あと10分もしたらまた再開しますよ」
じゃあなんでここに来ているのだろう。その問いには答えてはくれないとわかっているので尋ねることはしなかった。かわりに別の言葉が漏れる。
「あと10分ならさっさと戻ったらどうなんだ」
ボクを探しにに来たわけでもないくせに、と続くはずの言葉は声帯を震わすことはなかった。鍵盤に少女のものではない影がかかる。演奏に集中しているうちにかなりそばに来ていたらしい。勢いよく振り返った少女の髪がたなびいた。
体温の低い指先が少女の頬を撫でる。ラムネの瓶に似た虹彩は少女をぼんやりと捉え右手は髪に伸ばされた。思わず少女は首をすくめるも腕は顔の横をすり抜けて癖で緩やかに巻いた髪を一房手にのせた。
「な…………にすんだよ!」
手から逃れるように身をよじる。
「髪、伸ばしているんですね」
返答にもなっていない一言に調子が崩れる。それ以上は手が追ってくることなく本人の元へ降りていった。
「あ、ああ園子くんが一緒に成人式で写真を撮らないかって言ってくれて。アレンジしたいから伸ばせって厳命されたんだ」
言われると気になって毛先をサラリと撫でる。自分でもよく我慢して伸ばしていると思った。きっと高校生のときだったらショートでも写真は撮れるとか言って煙に巻いていただろうとも。
「そうか、君も、もう大人なんですね」
「なんかおっさんくさいぞ。セクハラか?」
いえ、と言いかけて降谷は口を閉ざした。否定したところでこの娘が納得するとは思えない。数秒前に思ったことをそのまま口に出す。
「すみませんね。あれから随分と落ち着きを覚えたようで感慨深くなっただけです」
「ボクだって3年あれば成長するんだ。シュウ兄の妹を見くびるなよ」
睨みつけていた目線が男から窓へと動いた。真純は長兄を思い浮かべているのか少し顔がゆるむ。雨足は変わらずおもりでも引きずっているように強い音を立てて窓ガラスへぶつかった。再び指が鍵盤で遊び始めた旋律をよく聞けばわずかに左手のほうがずれている。
「まだ、痛みますか」
「…………まぁ、こういう雨の日は。痛むというか動かしづらいというか。と言っても、バイクを運転するのに支障が出るほどでもないし、ボクは気にしてない」
あの頃は見れなかったであろう、曖昧な、それでいてそれ以上踏み込ませない笑みは降谷をしっかりと捉えていた。先程までよりゆっくり、正しい運指を確認するように動き続ける。
「そう、ですか…………」
「ほら、さっさと戻ったらどうなんだ」
「こちらに混ざりたいとは思いませんか」
「うーん、ボクは呼ばれてないから、いいや。シュウ兄が居るってことは部外者に漏らせないようなこともあるんだろ?だからいいや」
素気なく誘いを断る聞き分けの良さは彼女の成長からくるものだろうか。降谷にはわからなかった。時計を確認して、彼はピアノから離れる。
「素敵な演奏をありがとうございました、ではまた」
「勝手に聞きに来ただけなのに、律儀だな」
気の強さは変わらない彼女らしくて、扉を閉じたあと何故か安堵の感情が降谷の胸中に広がった。夜半に雨音が止み、翌日には雲が一欠片残るばかりで深い夏の青空が広がっていた。