少しだけ、高校の頃より拡がった行動範囲の淵に位置する喫茶店。昼のピークを過ぎて、帰る客もいなくなった店内はBGMがうっすらと流れている。今日の店長はロックの気分だったようで今はビートルズが相互不理解を嘆いている。本日のバイト二人、真純とケースケが一旦バックに引っ込んだ店長の代わりに店番をしつつ進めた食器の片付けも程よく終わりを迎えた。ケースケのカップを拭く手が一瞬とまり、目線が壁の時計に移る。
「んー、そろそろ14時か……ヒロトきたら俺上がるわ」
「分かったよ。大して仕事残ってないしもう着替えてもいいぞ」
「や、一応時間までは仕事だからな。ちゃんといるって」
拭き終えたカップを静かにトレーの上に置いた。オーナーの趣味で集められたティーセットはイギリスの骨董から日本の窯元まで様々な色形で大して知識のないバイトにもそれなりの価値が察せられるものばかりだった。チップならまだしも割りでもしたら大目玉は避けられない。
「はよー、ケースケ、マスミ」
「はよ、眠そうだけど大丈夫か?」
「完徹で課題終わらせて出してさっき起きたばっかでさ。あーくそ、目がしょぼしょぼする……」
ちょうど14時を回る頃に冬眠から覚めたばかりの熊のごとくヒロトがバックヤードから出てきた。まぶたが落ちてきそうになっているヒロトの肩をかるくたたき、じゃあお疲れと言ってケースケがバックに下がっていった。二人もお疲れと返して見送る。ヒロトはなんとかサロンエプロンを着ているものの緩慢な動きで、遅刻しなかっただけでも御の字といった様子だった。
「おはよう、ちゃんと起きてくれよ?カップを割らないようにね」
「流石に割らねーって。と、言いたいけどちょっと怖いから触らないようにしとく」
「それがいいや。まあボクがもう拭き終わるし、お客さんもいないからしばらく暇かな」
「じゃちょっと寝るわ。10分したら起こして」
「じゃあボクの練習台よろしくな」
「りょーかい」
そう言って奥の作業台に伏せたヒロトに注意をさきながら拭いたカップとソーサーを棚に戻す。色ごとに分けられ、整列されたカップたちは店のインテリアでもある。カウンター席からはじっくりと眺められるように設計されていたし、別の壁にも月ごとに代わる代わる飾られていた。華奢な持ち手のティーカップは細い金線の飾りが細やかで地の青を彩っていた。しっかりとした厚みのコーヒーカップは鮮やかな燕の赤をアクセントに映えさせている。ペアのカップが揃うと元あるべき姿を取り戻すように見えて真純はこの作業が嫌いではなかった。建具がシックなダークブラウンにまとめられた店内に色を添える。カップは客が選ぶこともでき、目の肥えた客に評判のサービスだった。
何度か往復して空になったトレーを重ねてカウンターの裏にしまった。それから練習をするべく、細口のやかんに水を入れて火にかける。この店ではネルドリップでコーヒーを淹れていて――慣れれば量を作れることと柔らかい印象のコーヒーになることが決め手らしい――商品として出せるレベルになるには少し時間がかかる。真純は店長曰く、修得が早い方ではあるもの、
ポットに湯を注いで温めて、洗ってあるネルフィルターと
シューと細い口から蒸気が溢れる。余計な気体が抜けていく音から静かに沸騰する音に変わっていく。火からおろして静かに万遍なく注ぎ、コーヒーを蒸らす。気持ち多めに時間を取ってから二回目のお湯を注いだ。ムクムクと粉がふくらみ、良い香りが漂う。続けて3回ほど円を描いて湯を切らさぬように足した。下のポットにはしっかりと黒い液体が溜まり始めている。ちょうどよい時間が経ったのでヒロトに声をかけた。
「おーい、10分経ったぞ」
眠気が勝るのか反応は帰ってこない。折角入れたコーヒーが冷める前に起こすべくヒロトに近づく。呼吸で上下するリズムを崩すように肩を揺する。相当疲れていたのだろう、何度か繰り返しやっと頭が動いた。
「ヒロト?起きろって」
「ん?あぁ……マスミか……ありがと」
「寝起きにピッタリのボク特製コーヒーが出来てるぞ」
「うい」
適当なマグカップに抽出の終わったポットから液体を注いだ。香りが立ち上り、またたく間に広がってゆく。ヒロトは何も入れずにそのまま一口飲む。
「あ゛ぁ゛ー……しみるわ。うまいよ、安定した味って感じ」
「ならよかった。これ飲んだら復活してくれよ?」
「わかったって」
自分も別のマグカップを用意して口をつける。酸味は控えめで、ローストの香ばしさのあとにすっと爽やかさが広がる。なかなかうまく出来たんじゃないか、と真純は口角をあげた。この店オリジナルのブレンドはカフェ・オ・レにはあまり向いていない。それもそのはず、客層は男性が多く更には官庁街にほど近いのもあり、純喫茶然としながらカフェインを求める客がいる。流石にエスプレッソのショットを飲むほどではないが、ドリップコーヒーのブラックはかなり人気があった。フードにしても軽食とは名ばかりのかなりボリュームのあるメニューが揃っている。ヒロトがカップの中身を勢いよくあおるとそのまま腕を伸ばす。
「あ〜!目がさめる!よし、今日も働くか!」
「その調子で最後まで頼む」
「あ、あー。善処するわ……」
「ははっ。程々にな」
軽口を叩きながらメンテナンスの続きを始めた。とはいってももうおおよそは済ませてしまっていて、軽く掃除をするくらいしかやることはなかった。真純はドリップの片付けをするべく置き去りになっていたろうとを手に取った。ネルフィルターからコーヒー粉を捨てるとほんのり香りが広がる。細かい残りは丁寧に水ですすいだ。その後バットの水を入れ替え、フィルターを浸しておく。使い終わったトーションを片付け、新しいものをカウンターに出した。真純はそのまま裏から備品の補充を始める。裏に行ったついでに鏡で身だしなみを整える。緩んできたポニーテールを一旦ほどき、結び直す。つつくと揺れる黒髪にだいぶ伸びた、と今朝と同じことを思った。
ホールの掃き掃除をしていたヒロトがドアベルに気づいた。
「いらっしゃいませー、1名様でよろしいですか?お好きな席へどうぞ」
珍しい時間の来客に、真純がお冷とおしぼりをトレーに乗せ席へと向かう。果たして入り口のすぐ横の席に座っていた人間は顔見知りであった。驚きのあまり落としそうになったトレーを強く握り直す。
「いらっしゃいませ、ごちゅうも、ん……は?」
「おや、お久しぶりです」
「なんであんたがここに来るんだよ。……注文決まったら声かけて」
少しよそよそしく、それでも前よりは軟化した態度でコップとタオルを机に置いた。降谷はメニューを手に取ることもせず世良の挙動を見ていた。どこかの風景がプリントされたシャツにカジュアルなジャケットを羽織り、この店よりも大手チェーン店のカフェでコーヒー片手に小説でも読んでいそうな雰囲気をしている。なんともいたたまれなく、すぐに裏へ引っ込もうとしていたが降谷に声をかけられそれもできなくなってしまった。
「君が作れるのはどれなんですか?」
「一応コーヒー、とサンドイッチなら」
すぐにメニューのサンドイッチに目を通す。少しくたびれたお品書きの裏面に数個あるだけの品に迷うものもなかったのか、空きあらば逃げようという空気が伝わってしまったか、間を置かずに注文してくる。
「そう。じゃあホットのブレンドとBLTにしようかな」
「ホットのブレンドとBLTだな?分かった」
「随分と気安い店員さんですね」
「あんたへ使う気がないだけだよ」
客への態度としては雑すぎる早口で切り上げるとそのままカウンターの内側に戻っていたヒロトに声をかける。
「ブレンド、ホットでBLTだって」
「了解。マスミ、知り合い?」
「まあ」
ごまかすような返答はそれ以上突っ込まれることはなかった。
「じゃあどっちやる?俺はどっちでもいいけど」
「休んでなよ、そのくらいならボク一人でできるからさ」
「おっけ」
まだアイドリングタイムのさなかであるため焦ることなく注文を作り始めた。ベーコンをフライパンに乗せて焦げ目がつくまで焼いて、それから同じフライパンでトマトも軽く火を入れる。トースターに薄切りの食パンを2枚入れてタイマーをセットしておいてレタスとソースを冷蔵庫から取り出した。薄っすらと焦げ目がついた食パンにマスタードとマヨネーズを薄く塗って焼き立てのベーコンを乗せる。胡椒をひとふりしてレタスとトマトを重ね、マヨネーズを多めに塗った食パンで挟んだ。包装紙で包んでなじませる間にコーヒーに取り掛かる。顔を上げると興味深そうにこちらを観察する降谷と目があって会釈を返された。ヤケになって、殊更丁寧に抽出工程をたどる。しっかりと沸騰させた湯を粉に行き渡らせるように回しかけ、少しへこむのを見届けるまで蒸らす。それから、ゆっくり5回ほどに分けて湯を注ぎ1杯分滴り落ちるまで待った。。カップは嫌がらせにイギリスの伝統あるメーカーの有名な野いちごの柄にして、一応コーヒーミルクをつける。
再び真純がトレーを持って降谷のもとに近づく。
「おまたせ、ホットのブレンドとBLTサンド。砂糖は机の上のポット。ミルクは入れるならどうぞ」
「ありがとうございます」
人のいい笑みを向けられなんとも居心地が悪い。社交辞令でごゆっくり、と言って下がった。カフェで働く姿を元喫茶店定員に見られるのは不思議な気分でもあった。またドアベルが鳴り、今度は女性客が入ってきた。すぐにヒロトが接客に入る。真純はまた、お冷とおしぼりを用意し始めた。
できるだけ降谷を視界に入れないようにしていたが、別の客の注文を受ける際に捕まってしまった。にこり、と良い顔で笑い、手招きされては行くほかない。
「なんだよ。ボク忙しいんだけど」
他の人間に聞こえないくらいの音量でぶっきらぼうにいった。
「そんな邪険にしなくともいいじゃないですか。ちゃんと美味しかったですよ、ブレンド。あなたがコーヒーを淹れられるなんて思ってもいませんでしたが」
「どうせ料理下手だと思ってたんだろ?ボクだってやればできるんだよ!」
経験と時間は偉大で、レシピさえ見ればなんとか料理と呼べるものが作れる程度の腕にはなった。しかし、自分の食事には反映されていない。そんなことはおくびにも出さずない胸を張って言い返す。この店に来る前は外食ばかりしていたことは全く棚に上げていた。
「そうですね。この年になるとどうも君ぐらいの子たちはまだ子供に見えますから。あまり関わる機会もありませんし」
「えー?工藤くんはたまに呼ばれてる気がするけどな?」
「彼は特別ですよ。そもそもカイシャの中だけで済めばそのほうがいい」
笑みを引っ込めて、彼は真純にそう言った。それは真純が求めていたものではなく、不満げな言葉が漏れ出る。
「そうかもしれないけど。ボクだって何かしら役に立てると思うんだけどなあ……目暮さんも工藤くんか、はたまたボクらに頼ってくるしな……まあ工藤くんとは違う人脈が欲しくてここで働いてるってのもある。まさか、あむ……フルヤサンが来るとは思わなかったよ」
「本当にたまたまなんですよ。カイシャ周りはだいたい確認したつもりだったので。今日改めてこの店を見つけたんです。こんな素敵な店知ってたら通ってます。貴方がサロンをして働いて、僕がお客さんなんてなんだか不思議な感覚です」
「ふうん?そうかよ」
照れることなく、ただ違和感は真純も覚えていたのか返事は単調だった。一呼吸おいてじゃあ戻らなきゃと言い、からの皿を重ねて持ち、カウンターへ戻っていった。代わるように随分と姿を見せなかった店長が表に出てきたようで、それ以降彼女の姿は見えなかった。