亡国王女とエーデルヴァイスの騎士   作:暁天花

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第十三話 穢れなき純白の戦場にて

 出撃当日は、梅雨時期ということで案の定の曇天だった。

 灰色に染まる空の下、駐屯基地を出発してからほどなくして。リーナたちの目と耳に入ってきたのは、未だ進撃を続ける共和国陸軍の戦闘だった。

 

 アルフェン山脈の麓までを確保すべく、機甲部隊を中心とした大軍勢がそれぞれ交互に進撃と補給を続けながら新緑の草原を無停止に進軍していく。

 〈天竜種(ヒュペイオン)〉や〈哨戒鳥種(ポーラス)〉はもちろんのこと、それ以上に跋扈する地上種の〈ティターン〉を、砲兵部隊の斉射をもって薙ぎ払う。

 

 その一線付近でいくつもの光の十字架が立ち上がり、それを合図にして機甲部隊が歩兵を伴って進出していく。撃ち漏らした〈ティターン〉を戦車が掃討し、歩兵部隊が相互に連携し合ってその一帯を完全に制圧する。

 その繰り返しが、眼下の激戦地では幾度となく、そしてあらゆるところで展開されていた。

 

「……この様子ですと、〈運命の聖槍(ロンギヌス)〉作戦の発動前倒しは決定したようですね」

 

 友軍の対空砲火に当たらないように注意しつつ、リーナは呟く。

 本来、アルフェン山脈の麓に到達するのは一ヶ月後の予定だったのだ。それを何週間も前倒しに達成しようとすれば、相応の被害は覚悟して進軍しなければならない。

 ……とはいえ。

 

『ほんとに空軍いないんだな……』

 

 レンが漏らした言葉に、リーナは頷く。

 

「〈奈落の門(タルタロス・ゲート)〉の周辺は、地形変異で陸軍が進出できない状態になっていますからね。主戦力の空軍は、できる限り温存したいのでしょう」

 

 無論、その情報に確たる証拠は存在しない。写真もなければ、目撃の証言もたった一人だ。

 だが。万が一にも失敗できない以上は、対策しておく必要がある。

 時々襲い来る〈天竜種(ヒュペイオン)〉と〈哨戒鳥種(ポーラス)〉を撃破しつつ、リーナたちは激戦の空を進軍していく。レクス回廊の通る峡谷地帯が見えてきたところで、一同はその光景に絶句した。

 

 

 ――青い、碧い蒼穹(そら)が、そこには広がっていた。

 

 

 旧国境検問所を境にして、曇天の空は不自然な終わりを迎えていた。同じく新緑の草原もそこで途切れ、穢れなき純白の大地が地平線のその先まで広がっている。

 ごくり、と、息を呑むのが聞こえた気がした。

 

「……これが、浄化された大地……」

 

 リーナの想像していた以上に、その大地は途方もなく綺麗な純白色だった。

 穢れ一つない、曇りのない本当の意味での純白。自然の領域からは明らかに外れている、神聖なしろいろ。

 ……そして。王家(エーデルヴァイス)の犯した罪の、その象徴。

 

『なるほど。こりゃあ〈運命の聖槍(ロンギヌス)〉作戦の発動を急ぐわけだ』

『ねぇ、レン。この空、どうなってるの……?』

 

 イヴが訊ねるのに、レンは首を横に振るのが見える。

 

『さぁね。俺にもわかんないよ。……ただ、少なくとも一年前まではこんな現象は起こってなかった』

「では、何かしら状態は悪化していると思った方が良さそうですね」

 

 ああ。と相槌をうって。レンは硬い声音で答えた。

 

『良くなってるとは、全然思えないしな』

 

 

 

 各自で身体強化の魔力付与(エンチャント)を強化して、一同は純白と蒼穹の世界へと足を踏み入れる。

 発生当初こそ人類を一瞬で消した浄化の世界だが、それ以降は多少の侵入ならば大丈夫なぐらいには浄化の力は弱まっていて。

 こうして、身体強化の魔力付与(エンチャント)をかけていれば、一日程度ならば浄化の世界に入っていても大丈夫なのだ。

 

 ……もっとも。それはあくまでも外縁の地域であれば、の話だが。

 

『このまま直進したところに、〈慈悲(ケセド)〉はあるんでしたっけ』

 

 通信機越しにレイチェルが訊ねてくるのに、リーナは答える。

 

「はい。それで間違いありません」

 

 旧国境検問所から、約一〇〇キロ。そこに、〈慈悲(ケセド)〉はある。

 

『できれば、パスの確認もしておきたいね』

「パス……ですか?」

 

 唐突なレンの言葉に、リーナは思わず問い返していた。

 魔力経路(パス)。魔術などを行使した際に魔力が通る道の名称だ。しかし。なぜ、そんな単語がいまさら。

 リーナの疑問を知ってか知らずか、レンは続ける。

 

『いくつかの魔力紋様を一つの大きな紋様にするためには、小さな魔力紋様を繋ぐ魔力経路(パス)が必要だろ? それで、その原理はこのふざけた世界を創った〈生命(セフィロト)の樹〉も例外じゃないんだ』

『……てことは、今の王国領って、空から見るとおっきな紋様が浮かんでるの?』

『多分ね』

 

 イヴの驚嘆にレンが苦笑するのを聞きながら。リーナは祖国の惨状を今一度実感していた。

 国一つ、それもそれなりに大きな国家が、丸ごと消滅して魔力紋様へと変わり果てているのだ。いったい、どれほどの間違いを犯したら、こんな事態になるのだろうか。

 それで。と言い置いて、レンは続ける。

 

『〈慈悲(ケセド)〉には四つのパスがあって、それぞれが別の〈セフィラ〉と繋がってる。もし、そのパスが動いてたら、』

「他の〈セフィラ〉も復活している可能性がある、ということですか」

『……そういうことだ』

 

 苦しげに放たれた言葉に、一同は息を呑む。

 〈セフィラ〉の復活。それは、彼やお姉ちゃん(エルゼ)たちが過去に行った決死の作戦を無に帰す事実だ。その上、これからの人類圏にも多大な悪影響を及ぼすことはまず間違いないだろう。

 リーナはしばし考えて。それを作戦内容に組み込む。

 

「……他の〈セフィラ〉の動向も、来たる〈運命の聖槍(ロンギヌス)〉作戦では十分に必要な情報だと思われます。……ラインハート少尉、この作戦中にパスの確認をお願いしてもよろしいでしょうか?」

『それは構わねぇが……。こいつのパスはどうなってたら動いてるってことになるんだ?』

 

 通常、魔力経路(パス)は魔力が通っている時といない時では見た目が異なってくる。しかし、その変わり様は様々で、これといった特定の現象が起こるわけではないのだ。

 少し思い出すような沈黙が空いて、それからレンは答えた。

『黒光りしてる線があったら、それが〈生命(セフィロト)の樹〉を構成しているパスだ。もし動いていたら、そのパスは赤く光ってる。一目で分かると思うよ』

『了解』

 

 二人の応答を聞いて、リーナは告げる。

 

「他のみなさんも、余裕があればパスの確認をお願いします。……やるからには、誤認などは絶対にあってはなりませんから」

 

 

 

『あ、あの、みなさん。さっきから少し気になってたんですけれど……』

 

 行軍中の沈黙を破ったのは、戸惑いのこもったレイチェルの声だった。どうしましたか? とリーナが返すのに、彼女は自分でも信じられないといったような口調であとを続ける。

 

『この世界に入ってから、〈ティターン〉がいなくないですか?』

「っ……!?」

 

 その問いに、リーナははっとする。

 言われてみればそうだ。最後に〈ティターン〉の姿を見たのは、共和国軍の戦域を通った時。旧国境検問所を通り過ぎてからは、一匹の〈ティターン〉すらも見つけてはいない。

 

『……確かに、ここに入ってからは全然見てねぇな』

『なにか変だなとは思ってたけど……。そういえばって感じね』

 

 フリットとイヴが驚愕の声を漏らすのが聞こえてくる。あまりにも何もなさすぎて、正常な感覚を忘れていた。

 

『浄化の世界には、俺らがよく戦ってたような〈ティターン〉はいないよ』

 

 びっくりするほど覚めた声で断言するレンに、リーナは問い返す。

 

「……それは、なぜでしょうか?」

 

 俺もよく分かんないんだけど、と前置きをして。レンは淡々と言葉を紡いだ。

 

『第一特戦隊の一人が、こう言ってたんだ。“〈ティターン〉にとって浄化の地は完全なる虚無であって、決して安住の地ではない。私達がもっとも相対する〈ティターン〉にとって、生けるモノ――特に人間は生と死の境界線を(もてあそ)ぶのに格好の玩具であり、そして極上の食料なのだ”――ってさ』

『……えと。つまり?』

 

 よく分からないといったようにイヴが言葉を漏らすのに、リーナは彼の言葉を引き取る。

 

「私達のよく知る〈ティターン〉にとって、この浄化された世界は遊べもしないし食べれもしない、何もない世界だってことです」

 

 言いながら。リーナは思わず目を細めていた。

 その人が言っていたことが仮に本当だとすれば、現状と〈ティターン〉共の行動の両方に説明がつくのだ。

 

 美味しい食料と愉しい玩具を求めて、彼らは人類圏へと攻撃してくる。しかし、そこに大それた目的などはないから他の個体との連携はとらないし、とる必要もない。

 浄化された世界には何も残ってはいないから、留まる個体は存在しないのだ。全ては、己の快楽のためだけに行動しているのだから。

 

 しかし。その説には一つ、大きな矛盾が存在する。

 

『じゃあ、なんで〈奈落の門(タルタロス・ゲート)〉は世界を浄化しようとしてるんですか……?』

 

 リーナが問う前に、レイチェルが訊ねていた。

 そこなのだ。

 仮にその説が本当だった場合、なぜ、〈ティターン〉の発生源たる〈奈落の門(タルタロス・ゲート)〉は世界の浄化を行っているのか。そこに、致命的な矛盾がある。

 現状、世界の浄化は自らの手で快楽と食料の得れる場所を減らしているに過ぎない。

 

 それに。彼らを指揮し、組織的攻勢を行う〈指揮統制種(ムネモシュネー)〉の存在も矛盾の対象になる。

 答えを待つリーナたちの耳に帰ってきたのは、どこか乾いた笑い声だった。

 

『さぁね。その説を言ってたやつは、もうこの世界にはいないから』 

 

 諦念と後悔と、そして大きな痛みを感じる声に、リーナは思わず口を噤む。

 表面では明るく振舞ってはいるが。やはり、彼にとって第一特戦隊の記憶は傷になっているんだろうなと改めて思った。

 

『……と、そろそろ見えてきたね』

 

 真剣な声音で言われて、リーナは意識を通信機から目の前の景色へと戻す。

 視界の奥、地平線の間際には、真紅の空とその下に佇む巨大な人型の姿があった。

 よく見てみると、周囲には〈天竜種(ヒュペイオン)〉らしき影も見える。

 

「……見た目は情報通りのようですね」

 

 〈慈悲(ケセド)〉。〈生命(セフィロト)の樹〉を構成する四番目の〈セフィラ〉にして、ヴァールス王国の国民をこの世界から消し去った、王家(エーデルヴァイス)の罪の具現化。

 短く、息を吐いて。リーナは通信機に告げる。

 

「事前の打ち合わせ通り、〈慈悲(ケセド)〉への攻撃は私とブローディア中尉が担当します。周囲警戒および間接支援はオーレンキール少尉とラインハート少尉が、部隊全体の支援攻撃はエールラー少尉が担当してください」

 

 了解、と全員の返答を聞いて。リーナは勇壮に宣言する。

 

「現時刻をもって〈慈悲(ケセド)〉の討伐戦闘を行います。各員、戦闘開始!」

 

 

 

 真紅の空と純白の大地の狭間を、レンとリーナは飛行魔術を全開にして翔け抜ける。

 〈慈悲(ケセド)〉。世界をめちゃくちゃにした〈生命(セフィロト)の樹〉を構成するものの一つにして、四年前にレンたち第()特戦隊が撃破したはずの、四枚の純白の翼をもつ巨大な天使だ。

 神聖と(おぞ)ましさを同時に兼ね備えた、四年前に倒したはずの〈セフィラ〉の守護者。それがなぜ復活しているのか。レンには分からない。

 

 だが。復活したのならば、今回もまたこいつを倒すだけだ。

 き、と眼前に佇む天使を睨んで。レンは〈魔術式銃(クラウソラス)〉とその銃剣である〈魔術式銃剣(カルンウェナン)〉へと魔力を注ぐ。刹那、銃剣の刃が緋色に煌めいた。

 リーナの指示が耳に届く。

 

『私は左から回り込んで突撃します! 中尉、あなたは右手で敵の注意を引き付けてください!』

「了解!」

 

 言い置いて。直後、隣で並走していたリーナが左方(さほう)低空へと離脱した。

 それを横目で見つつ、レンは接近しつつも彼女と真反対の方向――右方(うほう)高空へと飛び上がる。接近に気づいたらしい、〈慈悲(ケセド)〉が動いた。

 虚ろな双眸がこちらを向いて、その瞳を(ひらめ)かせる。瞬間、速度を上げるレンの四方八方に、無数の紫の炎が巻き起こった。

 

「……やっぱりか!」

 

 その光景に、レンは思わず吐き捨てる。

 どうやら、攻撃方法は昔の個体と変わらないらしい。となれば、対処は比較的容易だ。

 照準から発火までのラグを増やすべく、レンは飛行速度をさらに上げていく。魔術で身体機能を強化しているおかげで、火球がどこで発生しているのかはある程度見当がつくのだ。位置が分かれば、あとはそれを頼りに回避していけばいい。

 

 紫炎(しえん)の弾幕を見切ってかいくぐりながら、レンは狙撃魔術で巨大天使の向こう側に白銀の少女がいるのを見る。彼女の手には、緋色に煌めく一振りの剣。

 咄嗟に準備完了と判断し、進行方向を直角で変更。〈慈悲(ケセド)〉目掛けて突撃を開始した。

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 巨体をこちらに回して、〈慈悲(ケセド)〉は右手と同化した青色の剣を振り下ろす。迫る刃に構わず、レンは〈慈悲(ケセド)〉の個体防壁に〈魔術式銃剣(カルンウェナン)〉を突き立てた。

 

 魔力の閃光が視界を()き、火花が軍服に当たっては消えていく。それには意識も向けず、ありったけの弾丸を薄紫の障壁に叩きつけた。

 頭上に蒼天の刃が迫る。直後、銃剣を阻んでいた個体防壁が消失。身体が前へと動く。

 

『今度は同時に頼みます!』

 

 リーナが叫び、それと同時にレンの隣を白銀の少女が翔け抜けていく。天使の剣に、〈魔術式銃(クラウソラス)〉の弾丸が殺到してその軌道を逸らす。振り下ろされた剣が、衝撃波となって二人の身体を揺さぶる。

 天使の腰のあたりを通り過ぎて、回頭。レンは四枚の翼と相対する。

 

『核は心臓のあたり、でしたね?』

「間違いない。そっちからもいけるか?」

『当たり前です。中尉は右腕を!』

 

 返答する間もなく、リーナが再度突撃するのをレンは感じる。地面で(うごめ)()()の線を確認しつつ、レンは通信を切り替えた。

 

『レイチェルはリーナの支援を! イヴ、フリットは左腕を頼む!』

『了解!』『わかった!』『了解しました!』

 

 返答を聞いて、レンは今一度眼前の青い剣を見据える。この刃に触れたら最後、いくら身体に魔力付与(エンチャント)をかけていようが瞬時に浄化される。全てを無に帰す、聖なる剣だ。

 〈魔術式銃(クラウソラス)〉を構え、狙撃魔術を起動する。肘に照準を固定して――即座に発砲。

 刻々と迫る(しろ)い肌に、魔力の弾丸が次々と着弾。僅かに、けれども確実に天使の肉体を(えぐ)り取っていく。

 

 銃身が焼き付くのを見て、レンは魔力を〈魔術式銃剣(カルンウェナン)〉に集中させる。直後、天使の肘に銃剣を突き立てた。

 そのまま力任せに振り下ろし、関節部を斬り裂く。それでもまだ、完全に千切れはしない。銃をくるりと持ち替え、再び刃を差し込む。血のようなものが飛び散り、即座に光の粒子となって消えていく。刹那、今度こそ天使の右腕を両断した。

 

 白銀の閃光が天使の胸部に吶喊(とっかん)し、紫の衣諸共その(しろ)い肌を斬り裂いて通り過ぎていく。核にはまだ、到達していない。

 天使の背後で回頭すると、リーナは即座に再突撃を開始した。

 

 

 

「浅かったか……!」 

 

 振り向いた先、まだそこにある天使の姿を見て、リーナは吐き捨てる。

 ならば。もう一度たたっ斬るのみだ。

 〈魔術式剣(アロンダイト)〉を構え、再び吶喊(とっかん)。今度は背後からその巨体へと刃を差し込む。

 硬い肉を断つ感覚を手に覚えながらも、決して歩みは止めない。緋色の刃が軋み、悲鳴を上げる。構わず、全速力で駆け抜けた。  

 

 砕け散った〈魔術式剣(アロンダイト)〉の柄を放り捨てながら、リーナは周囲で巻き起こる紫の炎をかいくぐる。振り向くと、そこにははたして蒼玉(サファイア)色の正八面体が天使の胸部に見えていた。

 即座に右に差していた〈魔術式剣(アロンダイト)〉を抜き放ち、魔力付与(エンチャント)。その刀身が鮮やかな緋色に煌めく。

 

 胸部の蒼玉(サファイア)を狙撃魔術で照準。瞬間、リーナはそれ目掛けて剣を投擲(とうてき)した。

 直進する刃は誤たずに〈慈悲(ケセド)〉の核を穿(うが)ち――けれども、核は崩れない。

 

「レイチェル!」

 

 叫んだのと同時。リーナの横で待機していたレイチェルが、〈魔術式銃(クラウソラス)〉の一撃を叩き込んだ。

 大気を切り裂いて、極光が一閃。

 彼女の放った弾丸は、〈慈悲(ケセド)〉の核を完全に貫いていた。

 瞬間、全員の視界が(しろ)く染まる。遅れて、爆発音。

 視界が戻ってきた時には、眼前には巨大な光十字が現れていた。

 

 

 

 

 轟く爆発音とともに巨大な光の十字架が立ち上がるのに、リーナはとりあえずの安堵の息を吐く。

 これで、〈慈悲(ケセド)〉の討伐は成功した。誰一人欠けることなく、今回の挺身作戦も成功した。それが、何よりも嬉しかった。

 口元に笑みを浮かべて、労いの言葉をかけようとした――その時。

 光の十字架の中央に、黒いもやのようなものが出現しているのをリーナは見る。

 

「あ、あれは……?」

 

 思わず訊ねるような口調の言葉がもれる。だが、帰ってくるのは戸惑いの声だけだ。

 

『俺も……こんなのは知らない……』

 

 どうやら、レンにもこの光景は初見のものらしい。呆気にとられた声を上げるのが聞こえてくる。

 一同が困惑している間にも、その黒いもやは大きく、そして濃くなっていく。黒いもやは霧に、そして次第にドラゴンとそれにまたがる天使のようなものを形作っていく。

 瞬間。()()は邪悪な衝撃波をともなって実体化した。

 

 衝撃波に視界が一瞬暗転し、意識が遠くなる。眼前の竜と天使を再び見た時には、それらの放った紫の霧がすぐそこにまで迫って来ていた。

 

「あ――――」

 

 その霧の前に、リーナはただ呆然と立ち尽くす。

 回避は間に合わない。かといって切り払うための〈魔術式剣(アロンダイト)〉も、今は二本とも手元には存在しない。〈慈悲(ケセド)〉との戦闘時に片方は折れ、片方は投げ飛ばしてしまったから。

 紫の霧が迫る。けれど、リーナの身体は動かない。ゆっくりと時間だけは進んでいく。

 その紫の霧に、強い死を感覚した――その時だった。

 

『リーナさんっ!』

 

 次の瞬間。リーナの身体は、甲高い少女の声とともに横へと突き飛ばされていた。

 

「え……?」

 

 声のした方へと視線を向けると、そこには、いつもの優しい笑顔でこちらを見つめるレイチェルがいた。

 空転する思考は、それが何を意味しているのかを理解できない。その間にも、紫の霧は容赦なく眼前の少女へと襲いかかる。

 

「レイチェ、」

 

 思わず手を伸ばして――直後。霧に呑まれた目の前の少女は、ぱしゃっという軽い音とともに赤い血塊となって飛び散った。

 

「っ――――!?」

 

 粘性のある赤い液体が、リーナの顔や髪や軍服に撒き散らされる。瞬間。リーナの思考は激しい憎悪と憤怒で満たされていた。

 ほとんど無意識のうちに左太ももからナイフを引き抜くと、リーナは()()を躊躇なく詠唱する。

 

 

『【過去と未来、そして現在(いま)()りし全能神よ! 我ら薄雪(エーデルヴァイス)に民草を護り導く力を貸し与えん】――!』

 

 

 レイチェルの戦死に呆気にとられているさなか、通信機からリーナの()()が聞こえて来るのに、レンはぎりと奥歯を噛み締める。

 今。通信機から聞こえてきたのは、王家(エーデルヴァイス)の覚醒紋章の詠唱だ。強大な魔術行使能力と引き換えに、魂の生存限界を削り減らす諸刃の剣。

 特に、王家のものはブローディアのそれよりも何倍も効果も代償も高い。

 

 ……だから。使わせたくなかったのに。

 白銀の閃光が竜にまたがる天使へと突撃していくのに、レンもまた()()(うた)い上げていた。

 

「【春星(ブローディア)薄雪(エーデルヴァイス)を護る盾であり剣。その魂、主に誓いて生命(いのち)の果てへと導かん】――!」

 

 直後。〈魔術式銃(クラウソラス)〉と〈魔術式銃剣(カルンウェナン)〉に魔力を注いで、レンも天使目掛けて突撃した。

 身体の生成がまだ完全ではないらしく、新たに現れた天使と竜はいまだにその場を動かない。それどころか、紫の霧以外の攻撃をしてくる素振りすらも見せなかった。

 

 天使が動く。右手の剣を一振りしたかと思うと、突然、天使とリーナたちの間に紫の霧が立ちこめた。

 先程レイチェルを圧殺した、あの霧だ。

 

「リーナ! 止ま――」

 

 言い切る前に。リーナは紫の霧へと突っ込んでいた。

 最悪の予想とは裏腹に、リーナは霧をものともせずに天使目掛けて直進していく。そのまま、天使の胸部にナイフを突き立てた。

 

 ――が。彼女の身体は天使をすり抜けてそのまま背後へと通過していく。遅れて、レンとフリットが〈魔術式銃(クラウソラス)〉を発砲。しかし、やはり弾丸は虚空を穿つように天使と竜の体をすり抜けていく。

 

『どうなってんだよ、あれ……!?』

 

 フリットが呻くのを聞きながら。レンはその天使と竜を睨み据える。

 〈魔術式銃(クラウソラス)〉も、魔力付与(エンチャント)を施したナイフでさえも当たらない。

 

 ……いったい、こいつはなんなんだ。

 

 レンが歯噛みする間にも、リーナは幾度となくナイフを天使や竜に突き立ててはすり抜けていく。突撃の度に紫の霧に覆われ、ゆっくりと、けれども確実に彼女の力を奪っていく。

 

「リーナ! もうやめるんだ!」

 

 レンが叫ぶが、その声が届いた様子はない。どうやら、通信機を切っているらしかった。

 こちらの攻撃は一向に通る気配がない。しかし、だからといって放置して撤退すれば、何が起こるのかもわからない。最悪の場合、あの紫の霧で共和国軍を壊滅させられかねない。

 

 ……どうすれば、こいつを討てるんだ。

 

 焦燥と畏怖と、憤怒と悲嘆と後悔と。

 襲いかかる様々な感情に目を細めた、その時だった。

 

「……え?」

 

 視界の先、幾度目かの突撃で、竜の脳天にリーナの握るナイフが突き刺さっているのをレンは見る。

 直後。漆黒の球体が天使と竜を中心に発生。咄嗟に退避するリーナの左腕を巻き込んで、その漆黒の虚無は天使と竜を包み込んだ。

 と思うと、唐突にその漆黒は収縮。数秒ののちに完全に消失する。

 

 あとに残されたのは、浄化された世界に特有の凪いだ空気と、地上に残る効力を失った〈慈悲(ケセド)〉の紋様だけで。竜とそれにまたがっていた天使の姿は、跡形もなく消え去っていた。

 唐突に訪れた敵の消滅に、一同はただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。

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