追放前夜、私は、祖父の部屋から月を見ていた。
10歳の、ちょうど祝福という名の呪いを神から受け取ったあの日から、私を落ち着かせてくれるのは、ここで祖父と月を見ている時間だけだったからだ。
なにかに気を取られていれば、他の何かの声は聞こえない。聞こえても、ただの雑音程度になる。
それがわかった私は、よく祖父に無理を言って、ここで夜を明かしていた。
そしてそれは、追放前夜である今日も同じだった。
ただ一つ違うのは、今この場に祖父がいないことだけだ。
「お爺様、私は明日、城塞都市リンネへと追放されることになりました。いいえ、そんなことはありません。この力は、きっと人々の役に立ちますから」
周りから見れば、独り言に見えるのだろう。
というより、独り言に見えるのだ。それを気味悪がられての追放なのだから。そんなのわかりきっている。
しかし、違うのだ。
これは独り言ではない。
私には、聞こえるのだ。
死した者の声が。
『しかしアイリス、お前のその力は危険だ。人は死んだとしても、その人であったことは変わらないのだから』
「わかっています、お爺様。ですが、生きている人間が得体のしれない者ばかりであることなど、この祝福を貰ってからずっと経験してきた、私にとっては当たり前のことです」
『ならば、人が消えかける瞬間に見えているものも、お前には見えてしまうのだろう』
祖父はそういう。死んでいるとしても、生きているころと何も変わらないいつも通りの祖父だった。
私を憂い、息子を憂い、この家の未来を憂いている。死んでなお、この家を自分と切り離していないのだ。いや、意識があるならそれも普通の事なのかもしれない。
ただ純粋に、その気持ちが嬉しかった。
「……はい。私は彼らの感情の揺れを視認することができます。しかしそれはごくわずかな物で、そこから何が得られるかはわからない事ばかりです、ですが、それが私が中継者《メッセンジャー》として神から授かった権能ですから」
「そうかそうか。……もうじき消える私の感情の揺れという物を見た時に、お前がどんなことを思うのか楽しみだ」
「どうも思いませんよ。私はただ、最後にここでまた月を見たいと思っただけですから。お爺様といつまで話せるかわからないとしても、一度失ったものを二度失うなど想像に易いです」
「強い子だな」
「お爺様のおかげです」
祖父が死んだ時、私は、自分の全てがなくなったような喪失感を覚えた。
穴が空いたような、あるいは最初から何も存在していなかった虚無を見詰めてしまったかのような。
ただ、それは同時に、そこから別なことを始めればいいという暗示でもあったのだと思う。
結局、祖父は完全には死んでいなかった。私は、死んだ人間の魂が消えかける寸前まで、彼らと意思疎通を図ることができるのだ。
もちろん、彼らが私の存在を認識し、私と会話する気になればの話ではあるのだろうが、それでも、この力は有用であり私の救いであると信じたい。
「初めから、また全てをやり直せばいいのですから」
「お前には、それができるのか?」
「いいえ、お爺様。できるのではなく、やらざるを得ないのです。そう教えてくれたのは、お爺様でしょう?」
そういうと、祖父は笑って続けた。
「そうだったかな。死んでみると、記憶もおぼろげになるらしい。ちょうど今陰りを帯びたあの月みたいに、ふとした瞬間に意識が消えてしまうような気がするんだ」
「……構いませんよ。私のために無理をする必要はありませんから。欲を言えばもっと話してたいですが、どうせ私だって、明日の夜にはここを離れます」
「そうか。ならば、お前に見ていてほしい。私の魂が消えるその瞬間の、生命の揺らぎを」
「ええ、ずっと見ていますし、忘れることはありません」
月にかかった雲が晴れると、感じていた祖父の気配も、同時に消えてしまった。
かつてなんて言えるほど長い時間を生きてきたわけではないが、少なくとも、今ここで見た月は、今まで見たどの月よりも綺麗だった。
「ありがとうございます、お爺様」
死んだ人間が天国からずっと見ているという話は嘘だ。
魂は、死ねば魔素として地上に還元され、循環する。
それが完全に費やされるまでのごく限られた時間にのみ、人は死後を体験できるのだ。
もって一週間程度の、本当にわずかな時間。
そして私はきっと、その死後の状態にある人間の魂の声を聴くことができる。
それが、私が下した結論であり、同時に、これからするべき事でもあった。
「お爺様、私は城塞都市リンネにて、人々の恨みや死した願いを満たすために生きようと思います」
そう、決めたのだ。
「私は、魔導探偵事務所を開きます」
祖父の魂の揺らぎは、今まで見たこともない程にゆったりとしたものだった。