都条みちるは動かない   作:なら小鹿

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作者からのお願い(ヘブンズ・ドアー)
このエピソードを読み終わるまで〈XYZ〉の意味を調べないでください。ネタバレになってしまうので。



#08『XYZ』

 

〈汚トイレ・オブ・ザイヤー〉なんて賞があったら、ここは間違いなくベスト3に入っている。

 

 床と壁が黒ずんでいるなんてカワイイもので〈Don't use〉の貼り紙がされた個室からは肥溜めのような臭いがプンプンする。別に都条みちるは〈トイレ・ソムリエ〉ではないが、ここまでひどいと文句のひとつやふたつ言いたくなってしまう。

 

(うぅ……またネズミとか出てこないかな……)

 

 個室ドア下から這い出てきた住人(?)にみちるは絶叫した。その後だからか、石鹸が切れていることも、蛇口の水が錆色なのも許せる気がした。

 とはいえ、これだけは言わせてもらう。

 

 もう二度と、ロサンゼルスの公衆トイレには入らない。

 

 

 

           ◆ ◆ ◆

 

 

 

「──都条くんは英語、話せたっけ」

「藪から棒になんですか、コーチ」

 

 トレーニングを終えてたみちるはスタジアムの端で髪を拭いていた。コーチは練習メニュー表を見ながら、

 

「実はね、チケットが余ってしまったんだよ」

 

 遡ること一週間前、ワダツミの観光区にあるショッピングモールで抽選会があった。よくある当店で何円以上お買い上げのお客様に配られる福引券でガラガラを回して金の玉が出れば鐘を鳴らしてもらえる、アレだ。

 そこでコーチは──。

 

「えぇっ!? ロサンゼルス行きのチケットが当たったですか!」

「そうなんだ、どうせならパリがよかったんだがな。ほら、ルーブル美術館があるだろ」

「コーチ、あの映画何回観たんです?」

「三回だ。まぁ、その話は置いておくとしてだ。チケットは三人分。転売対策で名前を書かされたんだが、こっちに知り合いもいないし」

「それで私に?」

「都条くんと咲宮くんも一緒にどうかと思ったんだ。幸い試合と日程は被っていないし」

「あれ、コーチにみちるセンパイ、どうしたんですか?」

 

 ちょうどそこへ入華がやってきて、話はトントン拍子にすすんだ。

 

 

 

           ◆ ◆ ◆

 

 

 

 飛行機でフライトすること十時間。一行は文字通り日本を飛び出してアメリカへ。

 

 キャリーケースを持って空港に集合した時にはとっぷり日が暮れていたのに、ロスに到着してみれば空はまだ夕焼け色。時計の針を九時間巻き戻し、一行は二泊三日の宿であるホテルへと向かった。

 

「さて、チェックインも済んだことだし、夜のロスへ繰り出すとしようか」

「コーチ、なんだかテンション高いですね」

「あっ、わたし、ここ行きたいです」

 

 入華が手にした観光パンフレットの地図を指差す。

 

「ロサンゼルス・ビルディングか。いいね、俺も写真でしかみたことなかったんだ」

「有名なんですか?」

「これを見なければロスに来たとは言えないほどには有名だ。おっと、ちょうどバスが来たみたいだ」

 

 ホテルに隣接したバス停から乗車して揺られること十五分。一行はロサンゼルス・ビルディングの建つセカンド・ストリートで下車した。

 

 現地時刻は七時。日も落ちて摩天楼の隙間から見える空はすでに夜の色。

 しかし、ロスの街が眠りに就くことはない。むしろ逆。夜はこれからだというように華やかなネオンカラーが頭上で光り、行き交う人々もまるで花の金曜日を迎えたサラリーマンのように賑やかだった。

 

 はぐれないよう、みちると入華はコーチと手をつないで繁華街を歩いていく。しかし──。

 

「あ、あの、コーチ」

「どうかしたか」

「この近くにコンビニとかありませんか」

 

 みちるはショートパンツをこすり合わせるように内股になった。それでコーチも察してくれたらしい。

 

「ひょっとして都条くん、生水を飲んだとかじゃ」

「ち、違いますよ! ちょっとホテルでコーヒー飲んじゃって、それで……」

 

 海外では水はペットボトル入り以外飲むな、と旅立つ前にコーチから散々注意されていた。そうでなくとも、みちる自身、海外渡航の注意点は事前にリサーチしている。

 

「うーん、パンフレットには載っていませんね」

 

 入華も困った顔をする。

 

「あっ! みちるセンパイ、あそこ見てください!」

「えっ、なに?」

 

 入華の指差す先。そこには万国共通、トイレマークの描かれた青看板があった。〈地獄に仏〉とは、まさにこのこと。

 

「すぐ戻ってきますから」

 

 もう我慢も限界に差し掛かっていたみちるは、看板の指し示す路地へ走っていった。

 

 ──と、それが五分前のこと。

 

「ふぅ、間に合ってよかった」

 

 間一髪、18歳になってパンツを濡らすという大惨事は回避できた。しかし、みちるが公衆トイレから出てくると──。

 

「あれ? コーチ、入華?」

 

 ふたりの姿がない。見渡しても狭い路地に遮るものはなく、ストリートでは絶え間なく人が行き交っている。

 

(もしかして、はぐれちゃった……!?)

 

 みちるは背筋が冷たくなった。

 見知らぬ外国の地で迷子。これはかなりマズい。トイレに行った後でなかったら、チビっていたかもしれない。

 

 ブーッ、ブーッ、とスマートフォンのバイブレーションが起動したのはその時だった。画面を見て、みちるは大急ぎで通話ボタンを押す。

 

「こ、コーチですか、今どこに」

『すまない、都条くん。待っていたら危ない輩に絡まれそうになって。俺ひとりだったらよかったんだが、咲宮くんもいることだし、緊急避難したんだ』

「そう、だったんですか」

 

 置いてきぼりにされたわけではなかったと知り、みちるはホッと胸を撫で下ろす。

 

「今どこにいるんですか? すぐに合流を」

『えっと、ここはどこなんだ。地図だとさっきいた場所がここで、そこから──』

 

 ──ブッ、プー、プー、プー。

 

「えっ、コーチ? コーチ!」

 

 何度呼びかけても応答がない。スマートフォンを耳から離すと、空っぽの電池マークを表示した画面が暗転するところだった。

 

(バッテリー切れ!? こんな時に……!)

 

 これで今度そこ、みちるは完全に迷子だ。

 コーチと入華も今どこにいるかわからないようだったし、これは本格的にマズいことになった。

 

(お、落ち着くのよ、都条みちる。こういう時こそ〈クール〉に対応するのよ)

 

 みちるは深呼吸した。

 危ない人たちに絡まれそうになって緊急避難したといっても、そう遠くへは行っていないだろう。探せば意外と近くにいるかもしれない。

 そう思い、行動を起こそうとした時だった。

 

(何かしら、これ?)

 

 振り返った公衆トイレの外壁にそれは書かれていた。いや〈書かれていた〉ではなく〈描かれていた〉と表現すべきかもしれない。

 

 いわゆるストリートアート。

 コンクリートに直接スプレーして描かれているようで、雲を模したポップなフォントは赤、黄、青と信号と同じ三色。そして肝心の内容だが。

 

(XYZ……? バンド名かしら?)

 

 ハードボイルド映画のBGMで洋楽は聴きはするが、歌い手までは知らない。そもそも、ストリートアートなのだから意味のない、ただの落書きかもしれない。

 

(んー)

 

 それでもみちるにはその三文字が何かを訴えかけてきているように思えた。

 

 

 

           ◆ ◆ ◆

 

 

 

 トイレに行っていたら連れとはぐれてしまいました、なんて理由で交番(ポリスボックス)に駆け込めるはずもなく──そもそも交番がどこにあるのかさえ、わからない──、みちるは夜のロスを彷徨っていた。

 

 眠らない街といってもいい。

 片側四車線の道路を二階建てバスやオープンカーが走り、顔を上げればネオンに彩られた看板が目を惹く。行き交う通行人は誰も彼もが洋画から抜け出してきたような服装をしていた。

 

(悪目立ち、してないかしら……)

 

 海外旅行だからといって、特段お洒落な服を用意したわけでない。もう夏も近いので〈ワダツミ〉でも着ているいつもの私服──上は半袖の白シャツ、下はデニムのショートパンツ。

 

 現に夜だというのに、肌に触れる空気は熱くすらあった。暑がっているのはみちるだけではいらしい。例えば、あの前から歩いてくる女性もかなり肌を露出している。それこそヴィーナくらい大胆な格好で──。

 

「……XYZ」

「えっ?」

 

 生暖かい風が頬を撫でた。誰かに囁きかけられたらしいが、人の行き交いが激しすぎて振り返ってみても誰が誰やら。

 

(XYZってさっきのストリートアートの)

 

 偶然だろうか。その三文字を頭の片隅に置きつつも、みちるは歩みを再開する。

 

 兎にも角にも今はコーチと入華に合流することが最優先だ。公衆電話も探してはみたものの、日本と同じくアメリカでも絶滅危惧種らしい。

 

 こうなったら心配はかけてしまうが、一旦ホテルに戻ってフロントで電話を借りる他ない。

 バスを降りてからさほど歩いていなかったのが幸いし、帰りのバス停はすぐに見つかった。

 

 到着と同時にバスがやってきて、みちるは窓際の席に腰を下ろした。ゆっくりと発車したバスが、見覚えのある街並みを遡っていく。

 

 そうして十数分ほどバスに揺られた頃のこと。『Next stop is ──』アナウンスが次の停留所の名前を告げ、乗客のひとりが降車ボタンを押した。

 

 ホテル最寄りのバス停はこの次だ。みちるが降車ボタンの位置を確認していると、降りようとしていた乗客がみちるを見た。

 日本人だから珍がられたのだろう。最初はそう思ったが。

 

「……XYZ」

「!?」

 

 確かにそう囁いたのだ。

 

(またXYZ?)

 

 あの公衆トイレを出てから、ずっとその三文字が頭から離れない。

 この際だ、勇気をもって意味を尋ねよう。しかし時すでに遅し。さっきの乗客は運賃を払って降車したところだった。その続く乗客が運賃を払っている。

 

(どうしよう。このままバスに乗っていれば、あとちょっとでホテルに着くけど)

 

 XYZ

 その三文字が意味不明なままなのは、なんだか気持ちが悪かった。

 

「I'm getting off.」

 

 降ります、とみちるは手を挙げた。

 

 

 

           ◆ ◆ ◆

 

 

 

(さっきの人なら、きっと意味を知っているはず)

 

 発車するバスを横目に、みちるは路上に目を走らせる。

 すると、見覚えのある後ろ姿が雑踏の中に消えていくるところだった。みちるは反射的に手を伸ばした。

 

「Excuse me……」

 

 すいません、と声をかけようとしたその時。

 

「……XYZ」

「!?」

 

 割り込むように別の通行人に声をかけられた。振り返ったが、そこにあるのはロスの雑踏だけ。

 

(しまった、さっきの人!)

 

 あわてて視線を戻すが、手遅れだった。

〈二兎を追う者は一兎を得ず〉とはこのことか。まさかアメリカまで来て日本のことわざを痛感させられるとは。けれども──。

 

「Oh, XYZ !」

「Hey you, XYZ.」

 

 次から次へとその三文字が聞こえてくる。すれ違った通行人から、オープンカーに腕を乗せたドライバーから。道行く人が、みちるにその三文字を伝えてくる。

 

(な、なんなの、これ……! XYZって、いったいなんなの!?)

 

 青いショートボブをくしゃくしゃとかきむしる。

 早くホテルに戻りたいのは山々だが、せっかく途中でバスを降りたのだからXYZの意味くらいはハッキリさせたい。

 

 でも、今いる場所は繁華街のまっただ中。人とぶつかったのも一度や二度ではない。

 

(とりあえず避難しないと)

 

 人の間を縫って、みちるは路地へ逃げ込む。その間にもまたXYZと誰かに言われたが、呼び止めるには至らなかった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 路地の中はまるで別世界だった。さっきまでいたストリートの喧騒ですら、どこか遠くに感じられた。

 考えごとをするには打ってつけだ。背を預けてもたれかかると、目の前の壁に──。

 

〈XYZ→〉

 

 その三文字があった。

 

「ま、また……!?」

 

 しかも、今度はストリートアートではない。アルファベットをくり貫いて作られた看板が壁に打ち付けてある。

 

 みちるは恐る恐る矢印の先に目を向けた。

 薄暗い路地の奥に、ぽつんと明かりが灯っている。半地下に続く階段が数段あり、電灯が木製の扉を照らしている。

 そこにはさっきと同じくアルファベットをくり貫いた看板がかかっていた。

 

〈Bar XYZ〉

 

(お店の名前、だったの?)

 

 バンド名だと思ったのも、あながち間違ってもいなかったらしい。

 

 その一方で、みちるの脳裏には別の候補が浮かんでいた。

 

(そういえば〈あれ〉もXYZだったわね)

 

 お酒というヒントを得て、とある記憶が蘇ってきた。

 

 扉には〈Open〉の札がかかっている。みちるはポケットの中を確かめる。

 

(財布は……スられてないみたいね)

 

 未成年なのでまだお酒は飲めないが、最悪電話を借りに来たと言えばいい。意を決して、みちるは扉を押した。

 

〈Bar XYZ〉の店内は薄ぼんやりとしていた。

 天井からぶら下がったペンダントライトがオレンジの光と大人な雰囲気をふり撒き、暗がりに隠れたスピーカーからはいかにもなジャズが流れている。

 

 お客は奥のテーブル席に女がひとりいるだけだった。

 がらんとしたカウンター席のひとつを選んで、みちるは座った。

 

「いらっしゃいませ。……初めての方ですね」

「も、もしかして、一見さんお断りでした……?」

「……いえいえ。お若いのに英語もお上手なようで」

 

 奥から出てきたの白髭を切り揃えた初老のマスターだ。ぴしっとした襟元と同じく、手書きのメニューからも几帳面さがうかがえる。

 

「ノンアルコールは最後のページにあります」

「ありがとうございます」

「……お決まりになりましたら、またお呼びください」

 

 カウンターの奥でグラスを磨くマスター。その目を意識しつつ、みちるはアルコールのページを開く。

 メニューはお酒の種類毎にわかれていた。クラフトビール、ハイボール、ワイン、サワー、そしてカクテル。

 目を落とすとスクリュードライバーやマティーニといった、映画なんかで聞き覚えのあるカクテルネームがちらほら並ぶ中に、やはりあった。

 

   XYZ————$5.00

 

(確か〈最後のカクテル〉っていうんだったかしら)

 

 XXZ──アルファベット最後の三文字を冠するがゆえに、そう呼ばれるカクテル。もしくは〈これ以上ないカクテル〉とも。

 そんな大仰なアダ名があるのは、ひとえに美味しいかららしい。みちるは飲んだことがないので味はわからないが。

 

 ちなみに、みちるがカクテルのXYZを知ったのは〈クール〉になるべく読んだ『シティーハンター』でだ。

 作中でXYZはアルファベット最後の三文字であることから〈もう後がない〉という意味合いで、依頼人が主人公に助けを求めるサインになっている。

 

(でも、どうして皆、このカクテルを勧めてきたのかしら?)

 

 あの汚い公衆トイレを出てからコンクリート壁に、バスの乗客に、すれ違った通行人に……。

 

 その理由は未だわからない。もしかしたらロサンゼルス流のナンパで、みちるをこのバーに誘い込むのが目的だったのかも……と思ったが、お客は相変わらずテーブル席の女性ひとり。

 

「失礼……あちらのお客様からです」

「え?」

 

 カウンター越しにマスターが四つ折りにした紙を滑らせる。まるで映画のワンシーンだ。何かと思いつつ、紙を広げると──。

 

 XYZ

 

 また、その文字があった。

 ぞわっ、と背筋が粟立つ。

 

(ち、違うの!? カクテルの名前じゃなかったの!?)

 

 だとしたら、いったい……。

 だが、考えても埒が明かない。こうなったら、直接あの女性に意味を訊くしかない。みちるが席を立つと、

 

「……!?」

 

 テーブル席が空になっていた。代わりに扉の閉まる音。

 

(またこれなの!?)

 

 マスターにお詫びをして、みちるは店を飛び出した。

 ほの暗い路地は嫌に静かで通行人の影どころか猫の子一匹いない。しかし往来に出れば今度はひしめき合う雑踏が鬱陶しい。

 

(どこ! どこ行っちゃったの!?)

 

 焦りをを抑え、雑踏の中からさっきの女性を探す。タクシーでも拾っていなければ、まだ遠くへは行っていないはず。何とか探し出して意味を聞かないと──。

 

「都条くん!」

 

 雑踏の中から聞き覚えのある声がした。

 振り替えって探すと、歩道橋の欄干から身を乗り出してコーチが「おーい、おーい!」と手を振っている。その横には入華も。ひょっとして、はぐれた場所からここまでみちるを探してきたのか。

 

「コーチ! 入華!」

「みちるセンパイ、無事でよかったです!」

「いやいや、何度電話しても電源が入っていませんの自動音声が流れるばかりで心配したんだが、無事合流できて、なに、より……」

 

 歩道橋の階段を降りてきたコーチが、なぜか急に顔を強張らせた。全身を蝋で固められたようにコチコチなのに、目線だけは上下に動いている。

 

「あっ、みちるセンパイ……」

 

 見れば入華も同じだった。何かを言いかけて口元を手で覆う。

 

(二人とも揃いも揃って、なんなの、その反応は?)

 

 すると、コーチが咳払いしてから口を開いた。

 

「都条くん、非っ常に言いにくいことなんだが」

「な、なんですか」

「XYZ」

 

 手で覆いを作ったコーチが囁く。ここへ来るまでの道すがら幾度となくかけられてきた、その三文字を。

 

「こ、コーチまで……!」

「えっ、ちょっと待ってくれ。『コーチまで』ってことは他の人からも」

「コーチ! どこで、どこでその言葉を知ったんですか!?」

 

 みちるはコーチにつかみかかった。もう逃がさない。ここまで散々焦らしに焦らされまくってきたのだ。今度こそはその意味を聞き出さないと。

 

「もしかして、みちるセンパイ、その格好のままここまで歩いてきたんですか?」

「そう、よ?」

 

 別に雨に濡れたわけでもないし、着替える理由はない。しかし、答えるなり入華とコーチは黙りこくってしまった。

 

(えっ、私なにかマズいこと言っちゃった……?)

 

 まるで人前で大失敗をやらかして唖然としているような沈黙。しかも、みちるだけがその理由を知らない。置いてきぼりを食らったような不安感と焦燥感。

 

「都条くん、ものすっごく言いにくいんだが」

 

 そう前置きしてコーチはみちるを指差した。いや正確にはみちるの──。

 

「……Ex()amine y()our z()ipper って聞いたことないか」

「え? ジッパーに、気を付けろ?」

 

 言われてみちるは小首を傾げたくなった。

 試しに頭の中でその英文を文字にしてみる。それぞれの単語から一文字を取って略せば確かにXYZとなるが。

 

(…………)

 

 そこでコーチの指差している先を見て気づいた。

 いま穿いているのはデニムのショートパンツ。太もも丈のズボンであり、ズボンであれば必ずといっていいほどジッパーの付いている箇所がある。

 

 思い返せば、あの謎めいたストリートアートがあったもは公衆トイレだった。すれ違いざまに「XYZ」と声をかけられたもの同じくトイレをしてから。

 ごくり、とみちるは喉を鳴らした。

 そしてコーチが指差す先へ──ショートパンツのジッパーに目を向ける。

 

 

 

 ──社会の窓が、全米オープンされていた。

 

 

 

 ショートパンツが紺色だからか、青空のような下着がよく映えている。これはさぞかし人目を惹いたことだろう。

 

「…………」

 

 都条みちるはようやく理解した。

 あのストリートアートはトイレから出てきた人に注意を促すものであって、囁きかけてきた通行人は全員──。

 

「ま、まぁ、なんというか……若気の至りというやつだ。俺も東京勤務だった頃はいろいろとやらかしたし」

「そうですよ! ズボンのジッパーが開いてようが閉まってようがみちるセンパイはみちるセンパイです!」

「咲宮くん、それはフォローなのか?」

 

 要するに、みちるは公衆トイレで用を足してからずっと、ショートパンツのジッパーを閉め忘れていたのだ。ここまで歩いてきた道のりを思い出し、顔を真っ赤にしながら……。

 

「……っ!」

 

 みちるはジッパーを引き上げた。

 

 

 

           ◆ ◆ ◆

 

 

 

「ど~したんですかぁ~コ~チ~、お酒が進んでませんよぉ~」

 

 その夜、コーチはホテルのバーカウンターにいた。隣の椅子にはぐでんぐでんに〈場酔い〉した都条みちる。そしてカウンターには〈ノンアルコール〉のシールが貼られたカクテルグラスが山のようにあった。

 

「俺が酔ったら誰が君を部屋まで連れて帰るんだ?」

「ああぁ~まぁた私を子ども扱いしてぇ~、わたひはKIRISHIMAの誇るす~ぱ~く~るびゅ~てぃ~ですよぉ~」

「わかった、わかった。──もしもし咲宮くん、今夜は戻るのが遅くなりそうだから先にシャワーを浴びて寝ててくれ」

「マティ~ニ~、ギムレット~、フロ~ズンダイキリ~」

 

 度数の高いカクテルを片っ端から注文していくみちるに、マスター苦笑いするばかりだった。どうなさいますか、と問いかける視線がコーチに向けられる。

 

「水で」

「かしこまりました」

 

 カクテルグラスに入ったミネラルウォーターをお酒のように飲み干し、みちるは眠りに就いた。

 当然すべて〈ノンアルコール〉で〈場酔い〉でしかないので、記憶を飛ばせなかったのはいうまでもない。

 

 

Close zipper……

 





みちるちゃんのパンツに関しては情報がないので、想像で補完しています。恐らく青色系。花京院の魂を賭ける。

ドルフィンは皆、女の子ですが、みちるちゃんの私服がショートパンツでよーく拡大してみるとジッパーらしきものが確認できたので「これはッ、いけるッ」と判断しました。

ゲーム内でもドジっ子っていわれているので、トイレのジッパーを閉め忘れるくらいはありそう。

今後の投稿形式について、ちょっと質問です。今までエピソードを分割投稿してきましたが、まとめて一話完結がいいのか読者さんの声を聞きたいです。

  • こ、これは……『分割投稿』だとッ!?
  • いいや!『一話完結』だッ! 押すね!
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