『相馬颯は走らない』にしようか迷ったんですよ。
このエピソードではみちるちゃんではなく、颯ちゃんがメインで活躍します。2周年記念の〈イザナミUF〉の水着でです。
なぜかって? 感想欄という名の〈ヘブンズ・ドアー〉で作者自身が〈書き込まれた〉からです。
最ッ高に筆が乗りました。
あとですね、どうしようもない〈変態〉が出てきます。ご注意ください。
「ふっ、ふっ、ふっ……」
昇りかけの日が海原を赤く染めている。早起きな波が寄せては返す砂浜を、ひとりの少女が走っている。
揺れる薄紫のポニーテール。日焼けした肌。体にフィットした練習着にはKAZAMIのロゴが刺繍されている。そんな彼女──相馬颯に潮風が挨拶する。
(ちょっとまぶしい……、けど、いい風)
砂を踏む音に呼吸音が重なる。頬を撫でる風は陸上をしていた時とは違うが〈ワダツミ〉へ来ていなかったら感じられなかった風だ。
「ふっ、ふっ、ふっ……」
──カリカリカリ
「ふっ、ふっ、ふっ……」
──カリカリカリ
(あの子……、またいる)
三日前から颯は海岸をジョギングコースにしていた。そして三日前からずっと、その少年は砂浜にいた。体育座りして、膝に乗せたスケッチブックに鉛筆を走らせていく。
(どんな絵、描いてるんだろ)
ちょうど少年の前を通りすぎた時だった。
ぶわっ、ひと際強い風が吹いた。海が波立ち、飛んできた砂粒に颯は目を細める。
──カラカラカラ
鉛筆がスケッチブックの上を転がった。座っていた少年は風に煽られた砂粒をモロに被ってしまったらしい。さっきから目をこすっている。
「……君、大丈夫?」
颯は足を止めた。少年はまだ目を押さえている。
「は、はい。ちょっと目に砂が入っちゃっただけで」
「見せて」
そっと少年の手をどかす。まだ中学に上がったばかりだろうか。手は女の子である颯よりも小さく、顔にも幼さが残っている。
「あっちに洗眼器があるから、一緒に行こ」
「あ、ありがとう、ございます」
まだ目を開けられない少年。颯が手をとってあげると、スケッチブックを畳んで小脇に抱える。その時、ちらりと見えた。朝日に染まる海原が鉛筆一本で描かれていた。
◆ ◆ ◆
「もう、大丈夫です。ありがとうございました」
「どういたしまして」
洗眼器で目を洗った少年は颯を見て、目をパチクリさせた。曇りのない真っ直ぐな目をしている。
「お姉さん、もしかしてKAZAMIのドルフィン、ですか?」
「そう、だよ」
胸にも企業ロゴが入っているが、少年は颯の顔を見てそう言った。
「君……絵、上手だね」
「えっ?」
「さっき、ちょっとだけ見えたから」
颯はスケッチブックに目をやる。
「あ、ははは。クロッキーの練習をしてたんです。背景を描くのがまだ慣れなくて」
「クロッキー?」
「速描といって、短時間で絵を描く練習のことです」
少年ははにかんだように頭をかいた。
(あれを短時間の練習で……)
颯はさっき見たスケッチブックの絵を思い出す。
鉛筆一本で表現された水面の波や反射した朝日は、じっくり観察して時間をかけて描かないと表現できないものだと思っていた。それを早く描く練習で絵にてしまうなんて。
「すごいね、君。大きくなったら、画家になれるんじゃない」
「は、ははは。本当は漫画家になりたいですけど」
「漫画、好きなの?」
「好きなのもありますし、憧れる人が漫画家だったので。〈岸辺露伴〉って知ってます?」
岸辺、露伴……、とその名前を反芻して颯は首を振った。聞いたことのない名前だった。
「その人、もしかして有名?」
「有名、といえば有名なのかもしれないです。漫画の中の登場人物なんですけど」
(漫画の中に漫画を描く人が出てくるの……?)
なんとも不思議な構図だ。それでも、この子が憧れるのなら、きっといい漫画家なのだろう。
「とても〈リアリティ〉を重んじる人で、例えひとコマにしか出てこない人物や生き物でも本物に触れてからじゃないと描かないんです。それでいて絵を描く速度は超人的で、イラスト入りのサインなんか一瞬で描いちゃうんですよ」
「好きなんだね、その岸辺露伴っていう人」
「あ、あぁ……、はい……」
朝日に照らされ少年は赤くなった頬をかく。
「どんな漫画、描いてるの」
「『ピンクダークの少年』っていう──」
「そうじゃなくて、君の」
「えっ、ぼくの、ですか」
そう、と颯は首肯する。
「さっき背景を描くのがまだ慣れないって言ってたよね。あの砂浜、漫画に出てくるの?」
「……出そうかなって思ってます。いま描いてるのシーンが早朝の砂浜で戦うシーンなので」
「見ても、いい?」
「あ……」
「ダメ、だった?」
「い、いえ……どうぞ」
少年はリュックサックから漫画原稿を取り出した。どのコマにもしっかりとした絵が描き込まれている。それを一枚一枚、颯はめくっていく。
(バトル漫画……)
漫画はあまり読んだことがない。スポーツ漫画──特に陸上競技のもの──を何冊か買ったが、コマの中を走る登場人物たちに触発されて颯自身が走り出してしまったので、最後まで読めていなかった。
(でも……これは……)
読み終えた漫画原稿をそっと返す。
「どう、でした」
「うん、おもしろい。皆、生き物が能力のモチーフになってるの?」
「そうなんです。主人公はライオンで、いま戦ってる相手がタコなんです。タコって軟体動物だから弱そうなイメージがありますけど、実際には全身が筋肉で吸盤で張り付いたら離れないんです。それに頭もよくて餌の入った瓶の蓋を開けて中身を取り出せるんです。弱点は天敵のウツボと、それから──」
「……ふふっ」
「あっ、すいません。ぼくばっかりしゃべっちゃって……」
「好き、なんだね。漫画を描くの」
颯にとって素直な感想だった。けれども、少年はなぜか表情を暗くした。
「……これが最後の新人賞になるかもしれないので、全力を尽くしたいんです」
(……最後の?)
首を傾げる颯に、少年は「ありがとうございました」とお辞儀をしてホテルのある区画へと走っていった。
◆ ◆ ◆
「──レントゲンにも異常は見られませんし、筋肉量も問題ないですね」
「それなら」
「ええ。全力疾走は厳禁ですが、今まで通りのジョギングなら、いいリハビリになるでしょう」
ありがとうございました、と頭を下げて颯は診察室をあとにする。
〈ワダツミ総合病院〉
ジェットバトルの中心地に建つこの病院はドルフィン御用達の医療機関でもある。もちろん島の住民なら誰でも受診できる。
颯は今日、定期検査でここを訪れていた。受付で診察券を返してもらい、またランニングに出かけようとしたところで──。
「あっ、お姉さん」
「……ん?」
「相馬颯さんですよね、KAZAMIの」
「君、昨日の」
待ち合い室のソファに昨日の少年が座っていた。名前を知っているということは調べてくれたのだろう。
「君も、どこか悪いの」
「ちょっと……」
言葉を濁され、颯は迂闊だったと反省する。自分の体の悪いところなんて、誰だって聞かれたくない。颯自身も脚をケガして陸上を引退した身なのだから、それはよくわかる。
「あの、ちょっとだけ」
「……ん?」
「ちょっとだけ、お話を聞かせてもらっても構いませんか」
少年は緊張気味に言った。
「うん……、いいよ」
◆ ◆ ◆
「颯さんは、どうやって乗り越えたんですか」
少年は
「……乗り越えたって?」
「その、陸上選手からジェットバトル選手に転身されたじゃ、ないですか……」
申し訳なさそうに少年は、隼斗は目を伏せる。足のケガのことを言っているのだろう。心遣いは嬉しいが、颯自身はそこまで気にしていない。
病院に併設された中庭を歩きながら颯は答える。
「エレンがいたから、かな」
「エレンさんって、もしかしてKAZAMIの?」
「うん。オーナーの娘さん」
いわゆるお嬢様、と付け加えると隼斗はどこか遠い目をした。それでも颯は続ける。
「走れなくなった私をスカウトしてくれたのはエレンのお母さんだったけど、また走れるようにしてくれたのはエレンだった」
「また走れるように……?」
「うん。ジェットバトルなんてやったことなかったし、陸上を引退した私にドルフィンなんて勤まるのかな、って不安だった。そしたらエレンがね」
「なんて言ったんです」
「『この風見エレンの慧眼を信じなさい。私もお母様譲りの見る目があるのよ。あなたは必ずいいライダーになる』って」
隣を見ると、隼斗はきょとんとしていた。
(モノマネ、似てなかったかな……?)
自分は表情が薄い、とよく言われる。だから、声を真似るのもあんまり得意ではなかった。
「……そう、だったんですね」
なぜだか、隼斗の声は沈んでいる。
「君の話も、聞かせてほしいな」
「えっ、ぼくの、ですか」
「うん」
やや迷ってから、隼斗はおもむろに口を開いた。
「ぼく、目の病気なんです」
「目の……」
「段々と視力が落ちていって、今はコンタクトでなんとか誤魔化してるんですけど、将来的に〈見えなくなる〉かもって」
それを聞いて颯は昨日の言葉を思い出した。
──これが最後の新人賞になるかもしれないので、全力を尽くしたいんです。
あれはもう〈漫画を描けなくなる〉かもしれないから、だったのか。
「……ごめんね」
「い、いえ、颯さんが謝ることじゃ。むしろ、ぼくこそ勝手に期待しちゃって」
この少年は颯に自分を重ねていたのだろう。走れなくなった颯が再び走れるようになったなら、漫画を描けなくなった自分も再び描けるようになるかもしれない、と。
「……さっきお医者さんに言われたんです」
「なんて」
「手術でどうにかできても、それは一時しのぎでしかない。数年後にはまた同じ問題が立ちはだかるって」
「……」
「あっ、すいません。暗い話になっちゃって」
誤魔化すように笑う隼斗。颯は首を振った。
「暗くなんか、ない」
「……え」
「君は困難に向き合ってる。抗ってる。それは、すごく強いこと」
「あ、ありがとう、ございます……」
面と向かって言われて恥ずかしかったのだろうか。少年は赤くなった頬をかきながら話題を変えた。
「実は〈ワダツミ〉に来たの、腕のいいお医者さんを探してだけじゃないんです」
「?」
「颯さんはワダツミクロアワビってご存じですか」
「アワビは、あんまり食べない」
鶏胸肉の方が好き、と言いかけて隼斗が言いたいのはそういうことではないと気づいた。
「一種の突然変異種なんです。人工島である〈ワダツミ〉ができて近海の環境がガラッと変わって、天敵がいなくなったアワビは伸び伸び成長できるようになりました。そうして生まれたのがワダツミクロアワビなんです」
「それ、目にいいの?」
はい、と隼斗は頷いた。
「アワビは昔から眼病に聞くって言われています。西洋医学のような対処療法ではなく、東洋医学にある体本来の力で直していく療法で、お医者さんからもそれを勧められてるんです」
「なら……」
「でも、とっても高いんです。ここ以外では獲れないので希少価値も高まっていて、それに今の治療でもかなりの額がかかっていて……」
「……」
「楓さん?」
「私に、考えがある」
◆ ◆ ◆
「はぁー!? ワダツミクロアワビがほしい!? それもトラック一台分!?」
高笑いしかけた風見エレンはそのままのポーズで仰天した。金のツインテールが荒ぶっている。
「あの、颯さん、この人は……」
「エレンよ。さっき話してたKAZAMIのお嬢様。エレン、こっちが串間隼斗くん」
「勝手に紹介済ませてんじゃないわよ!」
風見邸の応接室。シャンデリアに照らされたテーブルを、エレンはバンッと手で叩く。強面の大男がやれば迫力満点だろうが、エレンがすると背伸びしているみたいで。かわいかった。
威嚇するエレンに、颯は続ける。
「エレンでも買えないの?」
「買えるわよ! 舐めないでよねKAZAMIの財力、ってそうじゃなくて」
はぁ、とエレンは肘掛け椅子に腰を下ろす。あんまりお嬢様っぽくないが、メイド長の運んできた紅茶は美味しかった。
「そもそも〈季節外れ〉なのよ。知ってるかしら。アワビは七月から九月が旬なのよ。地域によって漁期は違ってくるけど、ワダツミクロアワビもおおよそは同じ時期なのよ」
「さすがはお嬢様、日頃からいいものを食べていらっしゃるだけあります」
「褒めてるの、それ?」
メイド長の合いの手に、楓は自身の判断が間違ってなかったと感じる。
「じゃ決まり、だね」
「決まり、じゃないわよ! 今何月だと思ってるのよ!」
カレンダーの暦は六月。漁期まではまだ一ヶ月近く日ある。
「前倒し、できない?」
「できるわけないでしょ!」
「でも、いることはいるんだよね」
漁期の前、つまりまだ誰も手を付けていない状況であれば希少価値の高いワダツミクロアワビも数があるはず。颯はそう踏んでいた。
しかし、エレンは頭を抱えた。レアです、とメイド長がその様子をカメラに収めている。
「あのね……許可なくアワビを獲るの、なんていうか知ってる?」
「なんていうの?」
「──〈密漁〉よ」
それまでとは一変して、エレンは真面目な顔になった。
「立派な犯罪」
よくて罰金、悪ければ懲役も免れない。
「わかった」
「そう。わかったなら大人しく──」
「──じゃ〈密漁〉するね」
「ぶ────ッ!?」
エレンが飲みかけていた紅茶を吹き出した。テーブルを挟んで対面に座っていた颯と隼斗は体をよじって、間一髪ダージリン・スプラッシュを回避。テーブルの上には綺麗な虹が架かっていた。
「どうしたの、エレン? あ、できれば、ここでの話はなかったことにしてほしいんだけど」
しかし、そうは問屋が卸さない。
「ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ、ちょっと待ちなさいよ。アタシはKAZAMIの令嬢で、社会的にも超有名なのよ。海津見学園にも出資しているし。そんな私に密漁宣言を聞いて黙って見過ごせっていうの?」
「颯さん、ぼくのことはいいですから。そんな危ないことは……」
隼斗の言葉を遮るように、颯は首を振った。
「そんな簡単に自分を諦めるの、よくない」
「……え?」
「私は一度走ることを諦めた。けど、エレンやKAZAMIに拾ってももらって、また走れるようになった」
「……」
「私にはエレンがいた。だから、今度は私が隼斗くんのエレンになる」
「颯さん……」
さて、こうなると、あとはお嬢様がどういうかだ。隼斗と隼斗が顔を向けると、
「はぁ……わかった。隼斗、ワダツミ近海の土地を買い取りなさい。監視カメラがあるなら、それも全部」
「もうしています」
「早いわね!? アタシがNOって言ったらどうするつもりだったのよ!」
「エレンはそんなこと言わない」
「うぅ……なんなのよ、もう!」
子犬みたいにエレンは吠えた。
「ただし! 条件があるわ!」
びしっ、とエレンは人差し指を立てる。
「海に入るのは昼間よ。アワビは夜行性だけど、夜の海は危険すぎるわ。その条件が飲めないのなら、今の話はなかったことにするから」
そのくらいなら、と颯は珍しく微笑んだ。
「……ありがとう、エレン」
◆ ◆ ◆
「本当に、これで潜るの?」
「当然よ、ビーチでウェットスーツなんて着てたら悪い意味で目立っちゃうわ」
潮風を浴びながら、颯は改めて自身の水着に目をやる。
ビキニ……でいいのだろうか。トップスとボトムス、どちらもベースは白で黒のラインが走っている。それに加えて首にはチョーカーのようなパーツ、そこから伸びたベルトが水着を吊るしている。腰や脚にも同じようなベルトがある。
全体的にサイバーパンクを彷彿とさせるデザインで、いわるゆビキニ──三角形の布──とは違うような気がした。あと──。
「ねぇ、エレン。ちょっとこれ〈大胆〉さぎない?」
「こういうの大胆不敵なくらいががちょうどいいのよ。こそこそやってたら、それこそバレるわ」
「……密漁のことじゃなくて水着のこと」
「わ、わかってるわよ!」
〈イザナミUF〉というブランドの最新モデルらしいのだが、トップスは胸の上半分が見えるような形だし、ボトムスもV字になった布地から引き締まった褐色肌のお尻が半分ほど見えている。おまけに太ももを強調するようにベルトまで付いている。
「自信をもちなさい、颯。この風見エレンがセレクトした水着よ、似合わないはずがないわ」
「うん、ありがと」
応援なのかわからないが、兎にも角にも元気がでた。
「それじゃ、行ってくる」
「本当にひとりでいいの?」
「うん……、これは私が決めたことだから」
当初はエレンも一緒に潜ると言ってくれたのだが、颯はその申し出を断った。
隼斗は自分を頼ってきてくれたのだ。それなら自分は隼斗にとってのエレンになりたい。それに口には出さなかったが、トラブルになった時にエレンにも塁が及ぶのは嫌だった。
「気をつけるのよ。最近この辺の海で痴漢魔がでるらしいから」
「痴漢魔?」
「そう。泳いでる時に足とかお尻を触ってくるの」
確かに、見れば『猥褻行為禁止』とビーチに不似合いな注意看板が立っていた。
「うん、気をつける」
「ワダツミクロアワビがいるのはあの岩場の向こう、サンゴ礁の奥よ。アタシは岩の上から人が来ないか見張ってるから、何かあったら呼んでちょうだい」
「うん。ありがとう、エレン」
九州の東に浮かぶ〈ワダツミ〉は六月であっても温かく、ビーチには海水浴客がちらほらいた。
颯は水遊びするカップルを横目に、海へ入っていく。観光地というだけあって水は澄んでいた。けれども海は海。腰まで水に浸かると、潮の流れで真っ直ぐ立っているのも難しくなる。
(……よし)
息を吸って、颯は〈ワダツミ〉の海へと潜った。
ゴボゴボ……と泡の昇っていく音がする。眼下に広がるのは人工のサンゴ礁。オレンジ、ピンク、ブルー。カラフルなサンゴ礁たちはまるで庭園に咲く季節の花のようだった。
(この先の、岩場……)
泳いでいくと色鮮やかだったサンゴ礁が途切れ、無骨な岩礁が姿を現す。
(ここ)
颯は一旦浮上し、再度息を深く吸ってから潜った。体を上下逆さまにし垂直潜水。耳の奥を押さえつけてくる水圧が、深さを物語っている。
大きな岩につかまり、水底に着地すると、白い砂が舞った。
(アワビは夜行性……昼間は岩に張り付いている……)
ビーチに来る前に、図鑑でアワビの写真は見てきた。普段は岩礁にこびりついた海藻を削ぎとって食べていて、貝殻は一見しただけでは岩と同化して見分けがつかないらしいが……。
(でも〈目印〉なら、ある)
岩をひとつひとつ検分するようにして、颯はその〈目印〉を探す。肺活量には自身があったが、それでも限度がある。
浮上して息継ぎをしてまた潜る。それを何度か繰り返して遂に……。
(……あった。あれ)
一見すると、それは岩にできたコブのようだった。
しかし近づいてみると、コブの表面には小さな穴が曲線を描いて並んでいる。
(アワビの貝殻には並んだ穴がある)
呼吸や排泄、精子や卵子をやりとりするための穴であると同時に素人目にもわかる〈目印〉だ。
(……いっぱい、いる)
見れば、その岩はワダツミクロアワビの群生地だった。
ボコボコに見えた岩肌は固着したアワビの群で、その数は両手でも足りないほど。
(これだけあれば、あの子の目も)
颯は早速腰に巻いた防水ポシェットからアワビ起こしを取り出した。先端がフックのように曲がったステンレスの棒。これを貝殻と岩肌の隙間に入れて、アワビを引き剥がすのだ。
(すごい、十五センチ……ううん、二十センチはある)
自身の手の平より大きい貝殻。これだけのサイズになれば張り付く力も並大抵ではないだろう。それでもやらなきゃいけない。颯は隙間にアワビ起こしの先を入れ込む。
(……!?)
ぬるり、と足に何かが触れたのはその時だった。
──泳いでる時に足とかお尻を触ってくるの。
海に入る前、エレンに言われた注意が頭をよぎった。
(もしかして例の痴漢魔?)
反射的に足下を見る。相変わらず水は澄んでいて日光も届いて視界は良好。
(人の気配は……ない。けど……)
岩礁の陰に隠れようとも、今いるのは大きな一枚岩のそば。張り付いたアワビで凸凹していても、人が隠れられるスペースなんてない。潮の流れか、それともワカメだったのか。
(そんなはずは。確かに、誰かが足にさわったはず……)
颯は再び足下に目をやった。
──ぬるり、と岩肌が動いた。
「……!」
ボコボコッ、と吐き出した息が泡になって昇っていく。見間違いなどではない。現に今もうごめく岩肌が触手を伸ばし、アクアシューズに絡みついてきている。
ぬるり、ぬるり、と動く岩肌がそのシルエットを明らかにする。
(これ……岩肌じゃない……!)
岩肌を離れた触手が、もう片方のアクアシューズに巻き付いた。
(タコ……! しかも大きい……!)
タコの中には体表の色を変えて背景に同化し、通りかかった餌を捕食する種がいる。そして、その餌の中には──。
(アワビは、タコの好物……!)
恐らくこの一枚岩はタコにとっての絶好の餌場だったのだろう。〈ワダツミ〉の海は海水浴客の安全を考慮して危険な生物がいないか日々チェックがなされている。それこそタコの天敵であるウツボなどは要注意生物の筆頭だ。
(このままじゃ、いけない……)
颯は素早くアクアシューズを脱ぎ捨てた。
タコは好奇心旺盛と聞く。海の中では滅多に見ないアクアシューズにご執心なようで、触手を絡めて熱心に検分している。
(……今のうち)
裸足になって水に触れる感覚が変わったが、泳ぎに支障はない。両手両足で水をかいて急速浮上。海面から顔を出すなり、颯は大きく息を吸った。
「颯、どうしたの? 見つかった?」
岩礁の上からエレンが訊いてくる。
「見つかりはした。けど、ちょっと厄介……っ!?」
──にゅるり、と不快な触感がまた足に触れた。
(まさか……!)
足下を見る。タコの触手が裸足に絡みついていた。
(引き剥がさなきゃ)
足を振る颯。しかし、タコは吸盤で吸い付いて離れない。さらに流れるような動きで二本目の触手が足に絡みついてくる。
(太もも……。痴漢魔の正体はこのタコ……)
こうなったら陸地に上がるしかない。颯はエレンのいる岩礁まで急ごうとした。
「……っ!?」
しかし、急な水流が発生したように体が水中へ引き戻される。
(ま、ずい……このタコ、水中に潜ろうとして……!)
「どうしたの、颯! そこに誰かにいるの!」
「エレン、来ちゃダ……」
言いかけて頭が水に沈んだ。声になりかけていた言葉はゴボゴボ……という泡音に変わる。
それでも颯は必死に泳いだ。手足で水をかき、岩礁につかまる。そして海面から顔を出して叫ぶ。
「エレン、み、水……!」
「颯!?」
さっきかとは比べものにならない力で海中に引っ張り込まれた。
(どう、して……タコはそんなに泳ぎが得意じゃないはず……)
そこまで考えたところで、颯は見てしまった。
タコには八本の腕がある。そのうち二本は颯の足に巻き付き、他の六本は水中にある岩礁にへばりついている。
タコの吸盤はひとつで16kgの重さを支えられる。そして一本の腕には200個を超える吸盤がある。そんな腕が八本。タコは岩肌を這うようにして潜っていく。
(早く、早く引き剥がさないと……!)
颯は必死になって暴れた。しかし、いくら足を振ってもタコの腕は離れない。そして颯自身、ずっと潜ってもいられない。焦りから颯は腕に絡みついたタコにつかみかかった。
──それが悪手とも知らずに。
びゅー、と目の前が真っ暗になる。
(これは、タコの墨……!?)
何も見えない。手を振って水をかき墨を払う。その手に──。
──にゅるり。覚えのある嫌な感触がした。
「……っ!」
墨の煙幕が晴れる。真っ赤な外套膜が、颯の体を包み込んだ。
To Be Continued……
すいません、気づいたら一万字を越えてたので、一旦ここで切ります。同時タイミングで続きも投稿しているので、読めるはず。
今後の投稿形式について、ちょっと質問です。今までエピソードを分割投稿してきましたが、まとめて一話完結がいいのか読者さんの声を聞きたいです。
-
こ、これは……『分割投稿』だとッ!?
-
いいや!『一話完結』だッ! 押すね!