神経が伝える電気信号によって筋肉が収縮する。この仕組みは人である限り魔法師も変わらない。しかし侍郎たちのような人間にとっては、それが全てではない。脳が下した命令を筋肉が実行する。そこには神経が命令を伝えるのに必要な僅かなタイムラグが存在する。日常生活には全く支障をきたさないゼロコンマ数秒のズレ。その一瞬は普通なら認識することも出来ない。
しかしその一瞬を認識で来るまでに心を研ぎ澄ませた者にとって、命令と実行の間に横たわる時間差は酷くもどかしい、不自由を感じる瞬間だ。極度の精神集中によって引き延ばされた時間の中では、敵の攻撃が迫っていると分かっていながら意識決定が手足に到達していないせいで避ける事も防ぐ事も出来なかったという無念を味わう事もある。口惜しがるだけならまだいいが、その一瞬が終わりをもたらす事すらあるのだ。
意識と行動のズレを実感出来た者は、これを克服しもっと自由に動くための技を種々編み出した。精神信号で筋肉に命令を伝達するのではなく、想子で肉体に直接意思を伝える技法もその一つだ。この技術は一種の無系統魔法なのだが、習得出来る人間は魔法師に限らない。どんな技術も才能次第の面があるので、この身体繰術も誰でも身に着けられるとは言えない。だが適切な手順で修業を積めば、魔法の才能が無くても会得できるものだ。無系統魔法とは知らず、武術の技として使いこなしている者も多い。
魔法の才能に恵まれなかった侍郎は、その分武術に対して熱心に取り組んだ。そのお陰でこの技法も高いレベルで修得済みだ。今では魔法を使わずに自己加速魔法を使っている魔法師と同等以上の動きが出来るまでになっている。それが今回裏目に出た。想子による身体制御を常時行っていたせいで、達也の術式解体を受けたことによって高速移動の魔法を強制解除されただけでなく、肉体のコントロールまで侍郎は失ってしまったのだ。
「(捕まる? そんなわけにいくか!)」
自分は倒れて相手は一歩踏み込めば足が届く所まで近づいている。普通では逃げ切れない状況であることは侍郎にも分かっていた。それでも彼は諦めない。
漸くコントロールを回復した両腕をついて顔を持ち上げ、適当な大きさの石を探して左右を見回す。透水型弾性魔装の路面や綺麗に慣らされた芝の空き地には、侍郎が求める小石は転がっていなかったが、彼の目は街路樹の根元に太めの枝が落ちているのを見つける。なにかの拍子に折れたのだろう。お誂え向きに、端が少しとがっている。
「(よし、あれだ)」
侍郎はその枝に意識を集中した。大怪我をさせるつもりは無く、軽く刺して怯んだ隙にこの場から離脱するつもりだったのだ。しかし、侍郎の「力」が作用する前に、再び彼を想子の奔流が呑み込んだ。二度目の術式解体。狙いは「力」が作用しようとしていた枝ではなく、侍郎自身だ。
「(冗談だろ!? 普通、あの状態から追い打ちをかけてくるか……?)」
漸く回復しかけた肉体のコントロールを再び麻痺させられた衝撃で、侍郎の意識は朦朧と霞み、ゆっくりと闇に呑まれた。
「……相変わらず達也は容赦がないね。二度も術式解体を浴びせる必要があったのかい?」
小体育館をグルリと回り込んで合流した幹比古が、達也の前で気を失って倒れている侍郎を見下ろしながら半笑いでそう尋ねた。
「なかなか厄介な能力を持っているようだったからな」
「能力?」
達也が魔法と言わずに能力と表現した事に、幹比古が疑問を呈するが、達也はその質問には答えなかった。
「意識を失ってしまったのは予想外だが……想子に対する感受性がそれだけ強いのだろう」
このほのかの問いかけで、幹比古の関心も侍郎のコンディションに移った。
「想子感受性が特に高いとしたら、達也、まずくない? 達也の術式解体はただでさえ、耳のすぐ近くでシンバルを力一杯鳴らされたような衝撃があるんだから」
「人聞きが悪いな。出力調整くらいするぞ。まぁ……今回は確かに、手加減抜きだったが」
「達也!?」
達也の告白に、幹比古が焦った声を上げる。
「入学早々の魔法の不適正使用に対する罰をこれで済ませるんだ。この程度の事は問題にならない」
対照的に、達也は自分でしでかした事にも拘わらず、落ちついたものだった。
「今は気絶しているというより眠っている状態だと思うんだが、念の為保健室に連れていくか。頼む、幹比古」
「何で僕が!? 達也がやったんだから達也が連れて行こうよ」
「保健室にはあの人がいるからな……」
「あぁ……でも、僕じゃ彼を危なげなく保健室まで運ぶことは出来ないと思うよ。君やレオみたいに身体を鍛えているわけじゃないし」
幹比古もそれなりに鍛えてはいるが、一年時のモノリス・コードの時に感じた差を、未だに引き摺っている。幹比古の答えを聞いた達也は、やれやれと首を左右に振ってから侍郎の身体をひょいと肩に担ぎあげた。
「えぇ!? そうやって運ぶの!?」
「そうじゃないとほのかと雫が何を言いだすか分からないからな」
そこでようやく幹比古は、達也の婚約者である二人が怖い目で自分を見ていたことに気が付いた。もし達也が侍郎を所謂「お姫様抱っこ」したなら、自分はどんな目に遭っていたのだろうかと、幹比古は静かに身体を震わせたのだった。
さっき達也が言っていた失神と睡眠の違いが分かるのかというツッコミは、誰の口からも出ることは無かった。
担ぎ上げなきゃ後が大変だし……