詩奈が遅れていたのは、授業が長引いたという種類の理由では無かった。今日と明日は専門過程の見学に割り当てられている。指導教師のいない二科生は自由に見学しているのが普通だが、一科生は指導教師の引率に従って見学する。別にそう決まっているわけではないが、入学早々あえてレールを外れたがる者は、少なくとも一科生にはいない。A組からD組までの見学は指導教師がコントロールするので、時間が長引くとか次のスケジュールに食い込むという事は無い。むしろ自分の目で見たものを咀嚼する時間が必要との考えから、見学は早めに切り上げられて教室に戻り、後は生徒の自由時間になる。
詩奈は昨日、入学式が終わってすぐに生徒会室に誘われ、生徒会入りについて話をした後は侍郎と帰っている。クラスメイトは詩奈とゆっくり言葉を交わす機会を持てなかった。今日のお昼は、クラスメイトと一緒に食事をした詩奈だが、宴会や会食ではなく普通に食事をしているだけで、そんなに大勢と話を出来るものではない。食堂であまり騒ぐと、上級生の眼が気になるという面もあった。A組のクラスメイトは、詩奈と「お近づき」になりたくてうずうずしていた。
本年度新入生総代、今年の新入生唯一の十師族直系。そうした肩書もさることながら、クラスメイトが男女問わず詩奈の許に群がった最大の理由は、彼女が同性にも可愛がられるタイプの親しみやすい美少女だからだろう。
一年生にとって三年生の深雪は、四葉の次期当主の許嫁という点を別にしても、美人過ぎて畏れ多い。視線が会うだけで足が竦むレベルだ。香澄や泉美も、簡単に声を掛けられる雰囲気ではない。特に泉美は、見るからに人当たりがよさそうであるにも拘らず、なんとなく気後れを覚えてしまう。しかし三矢家直系の詩奈には、そういう近寄りがたさが無い。教師が教室から出ていってすぐ、詩奈はクラスメイトに取り囲まれて身動きが取れなくなっていた。そしてその状態は、終業時間を迎えた後も未練がましく続いていたのである。
「(ここで空気が読めない発言をして嫌われたくないな……)」
詩奈はそう思って、生徒会の事をなかなか言い出せずにいたのだった。そんな彼女を善意の牢獄から救い出したのは、忠実なる幼馴染だった。
「詩奈お嬢様! そろそろ生徒会に向かわなければならないお時間です!」
いきなり教室の入口で放たれた大音声に「はっ?」という顔で振り向いたのは、詩奈を取り囲んでいたA組のクラスメイトだけではなく、詩奈本人も同じような顔を向けた。侍郎が突如始めた奇行に対する驚きは醒めなかったが、他人の口から告げられたことで「早くいかなくてはまずい」という焦りが改めて意識された。
「生徒会? あっ、もうこんな時間!」
「ゴメンなさい、三矢さん! ほら、男子! 道を開けなさい!」
「三矢さん、その、ゴメンね?」
詩奈のクラスメイトも、自分たちが彼女を引き留めてしまっていたと言うことに気が付いた。彼らも悪気があって詩奈を拘束していたのではない。つい、お喋りに夢中になっていたのだ。入学したばかりの一年生に生徒会活動の邪魔をする度胸などあるはずもなく、クラスメイトたちは詩奈に対して次々と謝罪を口にした。
「ううん、こちらこそゴメンなさい。また明日ね」
詩奈は愛想よく手を振ってクラスメイトの輪を抜け出し、ドアを開けて待っている侍郎に早足で合流した。
「侍郎くん、その、ありがとう」
「気にするな。詩奈がああいう場面で他人につれなく出来ないことくらい、良く知っている」
「それは確かに、その通りだけど……」
詩奈が小走りで階段を駆け上がり、侍郎はその後を一段飛ばしでついて行く。侍郎の答えに、詩奈は不満げに頬を膨らませそうになったが、図星を指されていることは自覚していたので、反論はしなかった。
「それより侍郎くん、さっきのは何?」
「何って?」
「何って、さっき『詩奈お嬢様』って……」
「それがどうかしたか? お前が『お嬢様』なのは紛れもない事実だろ?」
詩奈は耳慣れない『お嬢様』付けが気になったようだが、侍郎は惚けている様子はない。侍郎にとっては「詩奈」と呼び捨てにするのと同じくらい「詩奈お嬢様」という呼び方は自然なものだ。侍郎の両親は雇い主の娘だからといって友達付き合いに渋い顔をするような性格ではなかったが、けじめをつける事の大切さを息子に教えられない程、無責任でもなかった。
詩奈は侍郎の答えに納得出来ないようだが、反論の言葉も思いつかないようだった。自分が魔法師の社会では「お嬢様」に他ならないと理解しているから尚更だろう。反論出来ない分、余計に頬に懸かる圧力が高まっている。実際に頬を膨らませたりするのは子供っぽいと考えて自粛しているが。
「……とにかくさっきはありがとう。もう、ここまでで良いよ」
詩奈は表情で不満を表明する代わりに、口調とアクションで気分を害している事を表現したようだ、彼女は四階の手前でそういうと、侍郎からフイッと顔を背け、そのままわざとらしく前に固定して、生徒会室に歩いて行った。
「すみません、遅れました」
「詩奈ちゃん、事情は分かってるわ。大変だったわね」
生徒会室に入った詩奈を出迎えたのは、深雪の引き込まれそうな笑顔で、詩奈は一瞬固まってしまったが、すぐに意識を取り戻し、一礼して自分に宛がわれた席に腰を下ろしたのだった。
さて、侍郎はどうするか……