浜辺に突っ込んできた小型艇は、浜に到着する前に高波に呑まれた。もちろん自然の波ではなく、雫の魔法だ。転覆した船の下から八人の兵士が浜に駆け上がってくる。浮上して泳ぐのではなく、海底を走って。彼らはタクティカルベストの下に防弾を兼ねたドライスーツを着て、気密ヘルメットを被っている。だがこれは船をひっくり返されることを想定した潜水装備ではない。ヘルメットとドライスーツは化学戦装備。彼らは味方が撃破されたのを見て急遽潜水装備を身に着けたのではなく、最初から第一陣が失敗した場合はガス攻撃を行うつもりだったのだ。
砂浜を平地と変わらぬ、それ以上のスピードで駆け上がる兵士たち。筋力を補助する動力機械を脚に着けているわけではなく、自前の脚力で。生化学強化措置を受けている可能性はゼロではないが、恐らく鍛錬のみによるものだろう。
そんな彼らの前に立ちはだかったのは摩利だった。全身を外気から遮断した兵士たち。それは摩利にとって、ある意味カモだった。
摩利がバルコニーから浜辺へ大きく跳んだ。兵士たちの銃口が彼女に向くが、空中で不規則に揺れる摩利に照準を合わせる事が出来ない。足が浜辺に届く前に、彼女の魔法は放たれた。八人の兵士が同時に喉を押さえて膝をつく。慌ててヘルメットを外そうともがく者もいるが、それだけの力を出せずにいる。
摩利の魔法、MIDフィールド。ガスマスクやヘルメットの内部のような、狭い空間における気体の分布を偏らせる収束系魔法。人間の顔に近づくにつれて窒素濃度を下げ、人間の顔から離れるにつれて酸素濃度を上げる魔法だ。これが非気密性のガスマスクだとマスクの内部を窒素で満たす事になるが、気密性のヘルメットであればその内部を酸素濃度が薄い部分と濃い部分を作り出す事になる。その結果、ボンベは酸素を供給しているのにそれが装着者の鼻や口に届かず急激な酸素欠乏症に陥り、筋力低下や意識混濁で戦闘力を失う。
一人だけ拳銃を摩利に向けた兵士がいたが、摩利は砂浜をすべるようにして一気に間合いを詰め、手にした三尺棒で銃を叩き落とした。摩利がMIDフィールドを解除すると、兵士が酸素を貪り始める。その隙に三尺棒が次々と兵士目掛けて振り下ろされる。棒の打点に魔法の作用点を設定して弱い電流を発生させて、八人の兵士を後遺症が少ない形で無力化した。
大きく息を吐こうとした摩利が、魔法の気配を感じてハッと振り向いたが、すぐに肩の力を抜いた。
「貸しにしておくわ」
「……あぁ、借りておく」
視線の先では、自己加速術式魔法で一気に駆けてきたエリカが、武田少尉を警棒で殴り倒していた。
地下室からリビングに戻ってきた深雪を、真由美が笑いながら出迎えた。
「出る幕が無かったわ」
「私も出番がありませんでした」
同じような笑顔で深雪が答えた。そこへエリカと摩利が武田少尉を連行してきた。残りの兵は、幹比古とレオが見張っているようだ。
すっかり意気消沈していた武田少尉だったが、ほのかの背中に隠れるようにして美月に付き添われている九亜を見た途端、目をむいて飛び掛かろうとする素振りを見せたが、摩利に銃口を押し当てられてすぐに大人しくなったが、ぎらつく目の色は変わらなかった。ちなみに、摩利が押し当てた銃は、武田少尉のものだ。
「――自分たちが何をしているのか、分かっているのか?」
「私たちが何をしたと仰るのでしょう」
武田少尉が真由美に対して、憎々し気な声で問いかけたが、彼に反問したのは真由美の隣にいた深雪だった。声をかけられて深雪と目があった途端、少尉は明らかに怯んだ。彼が口を噤まなかったのは、辛うじて意地が勝ったからだろう。
「とぼけるな! そうして軍の脱走者を庇っているではないか!」
「軍の脱走者? 誰の事です? もしかして九亜ちゃんのことですか?」
「そうだ!」
「病院から抜け出したのではなく、軍から脱走したと?」
深雪の言葉に、少尉の顔に動揺が走る。自分が逆上のあまり失言を犯したと、彼は今更のように悟ったのだ。
「九亜ちゃんは十四歳と聞きました。年少の魔法師保護に関する軍の規則はご存じですね?」
深雪の問いかけに、少尉は答えない。言い逃れを口にしても自分が不利になるだけだと、彼は今になって理解した。
「あら、そういえばそうね」
「十八歳未満の魔法師は、緊急の場合を除き軍役に使用してはならない事になっている。真由美、忘れていたのか?」
「すぐに思い出せなかっただけよ。でも現役の士官さんなら忘れるなんて事はないわよねぇ」
「自分が追いかけていた相手の事だ。忘れようもないさ」
真由美と摩利の聞えよがしな会話にも、武田少尉は反応を見せなかった。
「だんまりってわけ?」
エリカが少尉の前に回り込んで睨みつけるが、武田少尉は俯くことでエリカから目を逸らした。
「拷問でもする?」
「何故私に聞くの?」
エリカが満更冗談でもなさそうな口調で尋ね、深雪が笑顔で問い返す。その笑みをみて、エリカが慌てて顔をそむけた。
「拷問は兎も角、海軍がどの程度あたしたちの関与を掴んでいるのか確かめたいところだが……」
摩利が真由美と顔を見合わせる。どうすればいいのか分からない、という困惑が室内を満たしたのだった。
この面子に拷問されたら……