劣等生の兄は人気者   作:猫林13世

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形だけの謹慎


二人の引っ越し

 一般的な戸建て住宅の小さな門を出て、深雪は振り返りながら呟いた。

 

「やはり……少し、寂しいですね」

 

「家を売ってしまうわけじゃない。何時でも戻ってこられるさ」

 

 

 達也の慰めに、深雪は「そうですね」と頷いた。

 

「達也様、深雪様、よろしければ出発したいと存じますが」

 

 

 二人の背後から、控えめに声がかけられる。達也が振り返った視線の先には、黒いスーツに白手袋の花菱兵庫が立っていた。

 

「分かりました。深雪、水波、行くぞ」

 

 

 達也は兵庫に頷いて、同行者に声をかける。二人は順番に「はい」「かしこまりました」と応えて、達也の後に続いた。

 今日は深雪の引っ越しの日だ。名義上父親の持ち物になっている自宅から、調布の四葉家東京本部ビルへ。深雪のガードを強化する為である。家の前には大型のセダンが止められている。既に必要な荷物は運びだし済みだ。荷物と言っても家具は引っ越し先に備え付けられているので、衣服と小物、それに学業用の小型端末くらいだが。なお、地下の研究所のデータも丸ごと東京本部ビルの地下研究施設に移動が完了している。コピーではなく移動だ。この家のプライベート研究室は数日後に完全破棄される予定になっている。

 全員の乗車を確認して、セダンは緩やかに発進した。府中から調布。この程度の距離ならば自家用車と個型電車で到着までの時間は殆ど変わらないが、駅から歩くのを考えれば、車の方が早いくらいだ。

 兵庫の運転は巧みだった。車自体の性能もあるだろうが、揺れも加重も殆ど感じさせない。短く快適なドライブの間、達也も深雪も何も言わなかった。水波の口数が少ないのはいつも通り。兵庫も空気を読んで話しかけなかった。

 車がビルの地下駐車場に駐まる。自動駐車用の誘導発信機が埋め込まれた白いラインで仕切られる、よくあるタイプの駐車場の奥に設けられた、自動点検装置付きのガレージだ。

 

「こちらでございます」

 

 

 兵庫の案内でエレベーターに乗る。このエレベーターは今日から深雪が住む部屋の前に直通していて、達也と深雪以外は鍵が無ければ使えないとの事だ。

 

「いざという時の為に、他の階にも降りられるようになっておりますが」

 

 

 兵庫が控えめな笑顔でそう付け加える。降りる事は出来るが、乗るのは一階と地下と屋上、そして部屋の前からだけ、という仕様らしい。

 案内された部屋は、控えめに言って豪華だった。だからと言って、けばけばしくはなく、上品に洗練されている。深雪も一目で気に入っていた。

 

「達也様、本日はこちらに泊まられますか?」

 

「いえ、準備が出来次第、別荘に向かいます」

 

 

 深雪は今日からここに住む。水波も深雪付きのメイド兼ガーディアンとして同居するが、達也は真夜の言い付けに従い、伊豆の別荘に移ることになっている。

 

「承知つかまつりました。それでは、二時間程お寛ぎください」

 

 

 兵庫が恭しく一礼して部屋を出ていく。達也は深雪を促して、リビングのソファに腰を下ろした。本当は既に、伊豆へ移動する準備は完了しているのだが、兵庫が気を利かせたのだ。達也も深雪も、それを薄々悟っていて、深雪は出ていった兵庫に心の中でお礼を言ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伊豆への移動は、例の小型VTOLが用意されていた。飛行時間は、約三十分、随分ゆっくり飛んだのは、空が混んでいたという理由だ。

 別荘は予想通り山奥にあった。伊豆には戦前のゴルフ場を改造した元防空陣地があるのだが、そこからも離れている。誰にも煩わされない「静かな」環境という条件にピッタリだ。

 

「義母はこんな不便な所で療養していたんですか?」

 

 

 心に浮かんだ疑問を、達也は思わず兵庫にぶつけていた。深夜の事を「義母」と呼んだことは無かったが、つかえる事は無くスムーズに達也の口からその言葉が出たのだった。

 

「深夜様には、静かな環境が何より必要だったと伺っております」

 

 

 兵庫の抽象的な答えの意味を、達也は正確に理解した。人混みが発する雑多な想子のノイズが負担になっていたという意味だ。達也は深夜が自分たちの為に随分無理をしていたと改めて知った。――それが自分の為か、深雪の為かは分からなかったが。

 兵庫の案内で、達也は別荘に入った。中は生活していくのに全く支障が無いように整えられていた。研究室も、府中の自宅より充実していた。

 

「必要なものがあればいつでもお電話ください。すぐにお届けいたします。また『フリードスーツ』と『ウイングレス』を置いてありますので、ご自由にお使いください」

 

 

 フリードスーツは通常のライディングスーツに偽装した飛行戦闘服で、ウイングレスはフリードスーツとリンクする装甲バイクだ。武装勢力の襲撃を受けた場合だけでなく、ちょっと街に降りるような場合にも重宝するだろう。

 

「ありがとうございます」

 

「恐縮です。それでは、ごゆっくりお過ごしください」

 

「ご苦労様でした」

 

「それでは、失礼します。それから、私に敬語は不要でございますので」

 

 

 それだけ言い残して、兵庫がVTOLに乗り込む。ローターの回転音を、達也は一人きりの屋内で聞き、これからの事に思考を向けたのだった。




謹慎というより、煩わしい世界から隔離してもらった?

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