劣等生の兄は人気者   作:猫林13世

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だんだんと甘くなってきた


二人っきりの部屋

 明日は雫の父親との面会を控えているので、達也は潮にESCAPES計画の具体的な計画書を渡すべく準備を進めていた。その作業を深雪も雫も、水波も黙って見届けていたが、さすがに夜も更けてきたので、水波は自分の部屋に雫を連れて戻ることにした。

 

「それでは達也さま、深雪様、失礼します」

 

「お休み、達也さん、深雪」

 

「ああ、お休み」

 

「おやすみなさい、水波ちゃん」

 

 

 このビルは最上階がまるます深雪の住居になっているが、造りは一般のマンションと同じ方式を採用しており、出入り口が別々になっている。深雪が住む部屋と、水波が寝起きする部屋とで。つまり水波は、住み込みメイドから徒歩ゼロ分の通いメイドにジョブチェンジしている。

 達也が調布のビルで一夜を過ごすのは、これが初めてだ。その事実に興奮しているのは達也よりむしろ深雪だろう。正確に言えば達也は全く興奮しておらず、深雪が一人で盛り上がっているのだ。

 しかし深雪からしてみれば、同じ住居に自分と達也、二人きりになるという事に盛り上がらずにはいられない、というところなのだ。

 

「お兄様――いえ、達也様」

 

 

 先ほど冗談で「お兄様」と呼んだことで癖が出たのか、深雪は珍しく言い間違いをした。しかし深雪にとっては「お兄様」と呼ぶことが最も自然だったのだから、ちょっとしたことで癖が出てしまっても仕方がないだろう。五年前の夏、沖縄の、あの日から、深雪は達也の事をずっと「お兄様」と呼んでいたのだから。

 

「周りに人がいない時は、どちらでも構わないよ」

 

「いえ。何時までも妹気分では困りますので。達也様、お風呂を、お先にどうぞ」

 

「分かった」

 

 

 水波や雫が部屋からいなくなった後に入浴を勧めたのは、特に深い意味があるわけではない。達也の作業が一段落したのを見て、深雪が彼に入浴を勧めたのだ。

 風呂は掃除からお湯張りまで、全自動だ。前の戸建ての住宅でもそうだった。この家はあれ以上に自動化が進んでいる。入浴自体、一切手を動かさずに可能なくらいだ。浴室に入って、達也はそれを知った。

 達也は短時間「人間洗濯機」で簡単に済ませようかと本気で悩んだが、この浴室は贅沢な間取りになっていて、多くな浴槽だけでなく広い洗い場も備わっている。せっかくだから昔ながらのやり方でじっくり身体を洗う事にした。まぁ「昔ながら」といってもそこはやはり、あちらこちらが自動化されていた。

 

「シャワーだ」

 

 

 髪を洗った後、シャワーヘッドを手探りで見つけるなんて手間はいらなくなっている。声に出して命じるだけで、お湯が必要な個所に降り注ぐ。シャンプーを落とし、体を洗うためのブラシへ手を伸ばしたところで、達也は背後に――浴室の扉の向こうに人の気配を感じた。特に緊張は覚えなかった。背中を向けていても、そこにいるのが深雪だということは、達也にとって肉眼で直接見るのと同じくらい明らかな事だった。

 

「達也様」

 

「どうした」

 

 

 緊張しているんはむしろ、深雪の方だった。呼び掛けてくる声には、逡巡も含まれている。しかし、それが何故なのか、見当が付かない。いや、そもそも入浴中の自分に話しかけてくる理由が分からなかった。

 

「……お背中を、流させていただけないでしょうか」

 

「なに?」

 

 

 深雪の言葉が聞き取りにくかったわけではない。深雪の言葉が理解出来なかったのでもない。理解したくなかったのである。

 

「(背中を流す? 誰が? 誰の?)」

 

 

 極めて珍しい事に、達也は混乱のあまり思考停止に陥った。

 

「お背中を、お流しします」

 

 

 返事が無かったことに業を煮やしたのか、それとも拒絶されなかったのをチャンスと見たのか、深雪が浴室のドアを開けた。鍵を掛けていなかったことに、達也は強い後悔を覚えた。しかし、後の祭りである。

 深雪の足音が聞こえてくる。達也は振り返れなくなった。素早くタオルを手繰り寄せる事が出来たのは幸いだった。何とか、腰から下の一部分だけを隠す事に成功した。

 深雪の気配が間近に迫る。彼女がどんな姿をしているのか分からない。鏡があれば、と一瞬考え、達也は慌ててその思考を打ち消した。

 いや、実はあるのだ。鏡は。達也の正面に。ただ、今はその上にカバーが掛かっているだった。鏡を見ながら入浴する習慣が自分に無かったことを、達也は幸いだと感じていた。

 

「達也様、失礼いたします……」

 

 

 深雪の白い腕が、達也の顔の横から前へ伸びてボディスポンジを掴む。一瞬だけ、深雪の胸が背中に触れた。素肌ではなくタオル越しの感触だった事に、達也は僅かではあるが、ホッとした。最低限の羞恥心は持ち合わせてくれていたのかと、深雪の箍が完全に外れていなかったことにだ。

 背中に泡立ったスポンジが押し当てられる。スポンジだけでなく、深雪のほっそりした指が、背中を這う。

 

「深雪、何故いきなり、こんなことを?」

 

 

 遂に沈黙を続けられなくなって、達也が振り返らずに尋ねた。達也に問われた事で、深雪の身体が硬直したのを、達也は気配だけで感じ取っていた。

 

「ご迷惑、でしたか……?」

 

「……いや、迷惑という事はない」

 

 

 本当は、大いに迷惑だ。だがそれをこの場で口にしてはいけないということくらい、達也にも分かるので、何とかそう答える事が出来たのだった。




深雪の箍が外れてきたな

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