達也の答えを聞いて、深雪の全身に込められていた力が少し抜けたと、達也は再び気配だけで感じ取っていた。
「良かった……」
深雪の泣き笑いのような声が、間違えたなら大惨事だったと告げていた。
「……だが、今まで背中を流してくれた事なんて無かっただろう」
背中に添えられた深雪の指が、微かに震えた。声も、羞恥に震えていた。
「……少しでも、一緒にいたいのです。最近、一緒にいられませんでしたから……ダメ、ですか?」
甘い声で、深雪が囁く。甘える言葉を、囁いた。
「……いや」
達也は魅入られたように、操られたように、そう呟いた。
誰の趣味なのか、新たな自宅の浴槽は一般家庭用の約二倍の長さがあった。その湯舟に、達也と深雪は一緒に入っていた――背中合わせに。向かい合わせになる度胸は、達也にも深雪にも無かった。
幾ら縦に長いといっても、二人同時に浸かればさすがに余裕はない。達也は百八十センチを超える長身だし、深雪も女性の平均よりは背が高い。深雪の場合は日本人離れして足が長いから尚更だ。
「……達也様。何時までこちらにいらっしゃるのですか?」
「明日には、伊豆へ戻るつもりだ」
「まだ……一高には復帰されないのですか?」
「雫にも言ったが、USNAや新ソ連の出方が分からない以上、もう少し様子を見た方が良いだろう」
「そうですか……」
落胆を隠せない口調で深雪が呟く。しかし彼女は「早く戻ってきて」という我が儘は言わなかった。
「また……伊豆にお邪魔しても良いですか?」
「もちろんだ。学業に差し支えなければ、何時でも歓迎するよ」
「まぁ。達也様、まるで私の保護者のようですよ?」
「従兄は保護者にならないか? 婚約者でも、保護者を兼任出来そうなものだが」
「そうですね。私が頼れるのは、達也様だけです」
「任せてくれ」
深雪の言葉には「父親が頼りない」という苦い裏があるのだが、達也は気づかないふりをした。その思い遣りが、深雪を切なくさせる。
「明日……本当に私もご一緒して良いのでしょうか?」
「深雪に同席してもらった方が良いだろうと思っている」
いきなり達也が真面目な口調になった為、深雪は少し驚いてしまう。
「それは……雫のお父様とのご面談に、私も同席すべきだという意味ですよね?」
「俺たちのライフワークになるかもしれない仕事の、一人目のスポンサーに挨拶するんだ。一緒の方が良いだろう」
俺たちのライフワーク。その意味を、深雪は誤解したりはしなかった。
「はい、達也様……」
深雪はお湯の中に沈みそうになりながら、陶然と頷いた。
「……深雪? 大丈夫か?」
達也が恐る恐るそう尋ねたのは、遠慮がちに触れ合うだけだった深雪の背中の感触が、いきなり密着度を増したからだ。
深雪が達也に、もたれかかっている。わざとそうしているのなら、甘え方が少々エスカレートしてきたと苦笑いで済ませられるが、意図的なものでは無かったとしたら?
「……大丈夫か、とは、何がでしょうか……?」
達也の問いかけに答える深雪の口調は、どことなくふわふわしたものだった。
「(これは良くない)」
達也は思った。深雪は湯に逆上せているのではないだろうかと。
「深雪、もう上がった方が良い」
「……そうですね……」
達也の警告にも、深雪は頼りない口調で頷くだけだ。動き出す気配がない。
「(……どうする?)」
裸の深雪を抱え上げるのは、本当に最後の手段だ。水波の助けを呼ぶにしても、まず自分が風呂から出なければならない。しかしこの状態で深雪の身体に手を触れず湯船から抜け出すのは難しそうだし、彼という支えが無くなったら深雪が湯の中に沈んでしまう恐れがある。
さすがの達也も、この状況に狼狽していたのだろう。
「(あっ)」
彼が浴槽の湯を抜くという解決策に思い至ったのは、一分以上あれこれ迷った末の事だった。
「深雪、少し待っていてくれ」
「はい……」
湯が完全に抜けきったのを確認して、達也は深雪の身体を見ないように浴室から抜け出し、隣の水波の部屋に向かった。
「達也さま、如何なされましたか?」
「深雪が逆上せてしまったようだ。休んでいるところ悪いが、手伝ってくれ」
「かしこまりました」
水波は達也に頼られた事が嬉しかったのか、どことなく浮かれているような足取りで深雪の部屋に向かい、浴槽で伸びている深雪を見て一気に慌て始めた。
「深雪様!? 大丈夫ですか?」
「あら水波ちゃん……私は大丈夫よ? ところで、お兄様はどちらに?」
「誰がどう見ても大丈夫には見えません! とりあえず、身体を拭いて着替えましょう」
「着替え……あら? どうして私は裸なのかしら?」
「……失礼します」
完全に思考回路が正常に作動していないので、水波は深雪を支え脱衣所に移動させ、全身隈なく拭いてから寝間着を着させる。その後で達也を呼び深雪を部屋まで運んでもらった。
「何故深雪様は逆上せてしまったのでしょうか?」
「いろいろあったんだ」
「はぁ……」
その「いろいろ」が気にはなったが、水波は深く掘り下げる事はしなかった。
「では、私はこれで」
「悪かったな」
「いえ、お気になさらずに」
幸いな事に、翌日深雪は自分が逆上せたことを覚えておらず、自分が大胆な行動に出たことを夢だと思い込んでいた。達也はその事に安堵し、深雪と雫を連れて車に乗り込んだのだった。
出来たメイドで良かったね……