テレビに出演した後、魔法協会にはおざなりな謝礼を一言だけ残して、エドワード・クラークは息子と共に帰国した。ロサンゼルス空港に着いたのは、現地時間午前六時。一休みしてエドワードが自分のオフィスへ出勤したのは、午後二時の事だった。
国家科学局のカリフォルニア支部に、エドワードの上司はいない。支局長も、エドワードが何をしているのか理解していない。彼には完全な個室と、完全な自由裁量権を与えられている。それは元来、エシュロンⅢの秘密を同僚に漏らさない為の措置だったが、今は日本の大陸間戦略級魔法対策を進める為に与えられた特権に変わっていた。
「向こうは朝の七時か……」
エドワードの呟きは、意識しない独り言、一人きりの部屋で仕事をしている弊害に違いないが、本人は自覚していない。他人に指摘された事がないから、この個室限定の癖なのかもしれない。
「もう少し待つべきか? いや……」
たぶん、考えを纏める為の、ある種の儀式なのだろう。エドワードは迷う事を止めて、通信機に向かった。形は通常のヴィジホンだが、エシュロンⅢのシステムを利用した盗聴防止のシステムが組み込まれている、通話先を限定した電話機である。
電話を掛けた先は新ソ連。ウラジオストクにある新ソビエトアカデミー極東支部の一室。相手は言うまでもなく、イゴール・アンドレビッチ・ベゾブラゾフ。
「おはようございます、ドクター」
『おはようございます。いえ、そちらはもうお昼過ぎですね』
ヴィジホンの画面で見る限り、ベゾブラゾフの顔に眠気は無かった。
「朝早くから申し訳ない」
『こちらがちょうど良い時間だと、そちらが夜更けになってしまいます。お気になさらずに。急ぎのご用件だったのでしょう?』
「急ぎの用というわけではありませんが、すぐにご相談をしたいと思いまして」
『伺いましょう』
社交性を考慮した柔和な表情を浮かべていたベゾブラゾフの顔が、厳しく引き締まったのを受けて、エドワードの表情も真剣な――否、深刻なものへ変わる。
「既にご存知かもしれませんが、日本の戦略級魔法師、司波達也はディオーネー計画への参加を拒否し、別のプランをぶつけてきました」
『知っています。記者会見の様子は、リアルタイムで見ていました。重力制御魔法式熱核融合炉――「魔法恒星炉」を用いたエネルギープラント。魅力的なプランですね。共同研究を申し出たいくらいだ。あぁ、そんな顔をしないでください。冗談です』
「ドクター、お人が悪いですよ……」
イニシアティブを取る為のベゾブラゾフの手だと分かっていても、エドワードは狼狽の跡を隠せなかった。
『申し訳ない。ですが、エネルギープラント計画が魅力的なものであったのは紛れもない事実。司波達也を木星圏に追放するのは、難しくなったのではありませんか?』
「ディオーネー計画が頓挫したとは考えておりません。日本政府に対してエネルギープラントの建設を認可しないよう、我が国の政府に圧力を掛けさせます。建設途中のプラントに事故を起こさせても良い。とにかく、ドクターには引き続きディオーネー計画へのご協力をお願いしたいのですが」
エドワードの言葉に、ベゾブラゾフは「フム……」と呟きながら、思案する顔を見せた。
『私はもっと、そう、ダイレクトな方法で戦略級魔法マテリアル・バーストを無力化する事を検討していたのですが……』
「ドクター!」
『ミスタークラークがそこまで仰るのであれば、しばらく静観する事にしましょう』
「……感謝します」
やはり、という思いが、エドワードの安堵感を増幅した。彼はベゾブラゾフが短絡的な行動に出て失敗する事を恐れていたのだ。攻撃に成功すれば問題ない。司波達也をベゾブラゾフが抹殺してくれれば、USNAにとっても非常にありがたい事だ。
しかし、もし失敗したら。ベゾブラゾフは自分が関与した痕跡を残さない自信があるのかもしれないが、彼が戦略級魔法師であることは世界に知れ渡っている。魔法攻撃の痕跡を以て、ベゾブラゾフから奇襲を受けたと司波達也が言い立てるだけで、疑惑の目はこちらに向く。疑われるのは新ソ連だけではない。ベゾブラゾフが真っ先にディオーネー計画を指示した事も、世界中の人々が憶えている。暗殺の濡れ衣を着せられたなら、それこそディオーネー計画は頓挫してしまう。
そうならないように、エドワードは他の事を全て後回しにしてベゾブラゾフに電話を掛けたのだったが、ベゾブラゾフの話は、それで終わりでは無かった。
『ですが、ミスター。もし司波達也をディオーネー計画に引きずり込むことが不可能な状況になれば、我が国は独自の路線を選ぶことになるでしょう。質量エネルギー変換魔法の脅威を解消する為ならば、どのような選択肢も排除しません』
ベゾブラゾフの言う「選択肢」に戦略級魔法トゥマーン・ボンバの使用が含まれている事は、確かめるまでもなく明らかだ。喉が乾燥し、咳き込みそうになって、エドワードはミネラルウォーターのボトルに口をつけた。
「――失礼。そうならないよう、至急手配します」
『私もそう願っています』
ベゾブラゾフの顔がモニターから消える。向こうから通信を切ったのだ。エドワード・クラークは、激しい尚早に駆られて別の電話機に手を伸ばしたのだった。
仕掛けても負けるだけなのに……