土曜日は昼過ぎから雨空になっていた。だが深雪の心は晴れている。学校から帰ってすぐ外出した彼女の行く先は、達也がいる伊豆の別荘。真夜から泊りに行ってもいいと許可が出て、達也も認めてくれたからだ。浮かれている主に対して、水波はずっと緊張していた。およそ警戒感というものが欠如している状態の主に代わって、自分が周囲に気を配っていなければいけないという使命感は当然のものだが、それだけでなく水波は家を出てからずっと嫌な予感に付きまとわれていた。考え過ぎだ、これから向かう先には達也がいるのだから、彼が側にいれば深雪の安全は絶対確実だ。自分が力んでいる必要は無い……。いくら自分にそう言い聞かせても、水波の不安は消えなかった。不安の正体も分からなかった。
伊豆に着いたのはまだ夕方、日没前だったが、雨と霧で周囲はすっかり暗くなっていた。肉眼では視界十メートル以下の酷い状況だが、自動走行用レーダーと高精度位置情報システムはそのような悪条件をものともしない。また仮に機械的な補助がなくても、運転席に座っている花菱兵庫は平気だったかもしれない。深雪たちを乗せた車はほぼ予定通り、達也がいる別荘に到着した。
傘を差して迎えに出た達也が、わざわざ運転席から降りてきた兵庫を労う。
「花菱さん、ご苦労様でした」
「恐縮です」
そう応える兵庫の表情が何処か苦笑い気味なのは、自分の仕事を取られたと感じているからか。
「深雪、よく来たな。水波もご苦労様」
「達也様、お邪魔致します」
兵庫の仕事を強奪して、自分が濡れるのも厭わずにドアを開けて傘を差し掛けていた水波から傘を受け取り、深雪は淑やかに挨拶を返した。水波は達也に無言で一礼して、車の中から荷物を運び出している兵庫を手伝いに向かう。もっとも、すぐに家の中から屋根付きの自走台車が出てきて二人の仕事を取り上げてしまったのだが。
「深雪、水波、先に家の中に入っていなさい」
二人がこれ以上濡れないようにそう指示して、達也は兵庫に話しかけた。
「花菱さん、何か聞いていますか?」
「いえ、本日は何も言付かっておりません。深雪様をお連れしただけでございます」
「何処も、特に動きは無いという事ですね」
「国内は、そうでございますね」
「国外では、動きがあると?」
「チャンドラセカール博士の記者会見と、シャーヒーンのインタビューは、達也様もお耳にされたと存じます」
「ええ、知っています」
「ただ、それに対する反応がUSNAからも新ソ連からも伝わってきません」
「かえって不自然だ、ということですか」
「御意にございます」
「分かりました。……とはいえ、こちらとしては受け身で警戒しているしかありませんね」
「引き続き、情報収集に努めます」
「よろしくお願いします」
「かしこまりました。本日はこれにて失礼させていただきます」
兵庫は恭しく一礼して、雨に濡れた執事服を魔法で乾かしてから、運転席に乗り込んだ。
達也が別荘の中に戻った時には、リビングのテーブルに熱いコーヒーが並んでいた。水波にとっては不満な事だが、用意したのはピクシーである。
その代わりというわけではないだろうが、コーヒーを一杯飲み干して身体を温めるとすぐ、深雪と水波は着替えの為に引っ込んだ。
リビングに戻ってきた深雪の服装は、ゆったりしたT字型のシルエットのダルマティカワンピース。水波は動きやすいジャンパースカート。何時ものワンピース+エプロンではなかったが、彼女のイメージなのか、エプロンスカートにも見える。
「深雪、水波も座ってくれ。俺がいない間の話を聞きたい」
そう言って達也は、水波がピクシーと台所争奪戦を始めるのを事前に阻止した。意地悪をしたのではなく、少しは水波も休ませてやりたかったのである。彼女は疲れを知らないロボットではないのだから。
「そうですね……水曜日の事なのですが」
不満を面に出さず腰を下ろした水波の隣で、達也の正面に座った深雪が心の中で苦笑いをしながら話し始めた。
「十三束君が生徒会室に来て、達也様が次に何時登校されるのか予定を教えろと」
「それは、答えようがないな」
「私もそう回答しました。すると今度は、達也様に会いに行きたいからこの別荘の場所を教えろと言い出しまして」
「何か急ぎの用があったのか?」
「はい。十三束君は、達也様を説得したかったようです」
「説得? 何故?」
達也は「何を」ではなく「何故」と尋ねた。達也に問われて、深雪は事の次第を最初から際しく説明した。時々、水波も交えた事情説明は結構な時間を要した。
「――そういう事か。気の毒にな」
全てを聞き終えた達也の、十三束に対する感想は、淡泊なその一言だった。達也は十三束よりむしろ、水波の事を気に掛けたのだった。
「水波にも苦労を掛けた」
「いえ、おそれいります」
水波はすかさずそう応えたが、意外感に戸惑っている様子は隠せていない。まさかあの程度の事で、達也に心配してもらえるとは思っていなかったのだ。
「まともに戦えば十三束は強敵だ。あいつの純情に助けられたとはいえ、怪我をしなかったのは僥倖だった。あまり無茶をしてくれるな」
純情に助けられた、の件で水波は微かに顔を顰めた。自分が異性の邪念に曝されたと改めて指摘されるのは、少女にとって愉快な事ではない。しかし最後の思いがけず真情のこもった声で労わられて、水波は動揺してしまう。
「はい……ありがとうございます」
そんな二人を、深雪がちょっと怖い笑顔で見ていたのだった。
深雪は相変わらず独占欲が強すぎる……