個室のドアをノックする音に、水波は「何方ですか?」と誰何を返した。今は午前十一時過ぎ。達也は伊豆に、深雪は一高にいるはずだ。ここは四葉家の息が掛かった病院ではあるが、四葉家専用というわけではない。総合病院として、一般の患者も利用している。とはいえこの病室があるブロックは、出入りが厳しくチェックされていると水波は聞いていた。不審者の可能性は殆どないと水波も考えていた。そうではなく、自分と同じ四葉の関係者の見舞客が部屋を間違えたのではと水波は思ったのである。
『九島光宣です』
「み、光宣さまですか!?」
扉越しに返ってきた答えは、水波がまるで予想していなかったものだ。セリフの出だしで閊えながらもなんとか意味のある応えを返した水波だったが、心の中では「何故!」と絶叫していた。水波の意識は当惑の余り真っ白になったが、彼女が我を忘れたのは、一瞬だけのことだった。年頃の女の子としての嗜みが、今自分がどんな状態なのかを強制的に思い出させる。
朝、達也が来る前に、一応身だしなみは整えたが、その後ずっと半分眠っている状態でぼんやり寝ていたから、髪は乱れているに違いない。
「少々お待ちください!」
水波は慌てて反応が鈍い右手を動かし、ベッドの内側に置かれた優先コントローラーの一際大きなボタンを押した。ベッドの上半身側が持ち上がり、横になっていた水波の身体を起こす。左右から補助外骨格が移動してくると同時に、水波の背中が背もたれになったベッドの下から軽く押される。ベッドの一部が付きあがった事で、背中との間に一部隙間が出来る。その隙間を通って外骨格の右パーツと左パーツが連結する。補助外骨格が水波の上半身に固定され、彼女の身体を支えた。
腕のパーツのアシストを借りて、水波が手鏡とヘアブラシを手に取った。慌てて鏡を覗き込み、髪の乱れを直す。本当はメイクもしたかったのだが、病室では髪を整えるまでが限界だ。それに、これ以上待たせる事も出来ない。
「……お待たせしました。どうぞ、お入りください」
「失礼します……」
水波のセリフを病室のAIが分析して、扉のロックが外れた。躊躇いがちな声と共に、光宣が病室内に姿を見せる。その瞬間、部屋の中に神聖な光が差した。
汚れ無き純白に染め上げられた空間に、ただ一人、鮮やかな色を纏って天上界の住人が降臨した――そんな光景を水波は幻視した。
「桜井さん、その……具合はどう?」
はにかんだ笑みを浮かべて尋ねる光宣は、水波が自分を見る奇妙な目には気付いていない。あるいは、この手の視線を向けられることが多くて気にならないのかもしれない。
光宣が普通に話しかけたお陰で、水波も夢幻の世界から現実への復帰を果たした。理性を取り戻した事で、先ほど掴みかけて霧散した疑問が漸く形を成す。
――光宣は何故、自分が入院していることを知っているのか?
――光宣は何処からどうやって、自分がこの病院で治療を受けている事を突き止めたのか。
しかし水波の口から出た返事は、光宣を問いただす言葉ではなく、光宣の質問に対する従順な回答だった。
「はい。苦しいとか痛いとか、そういう不具合はありません。まだ体に力が入りませんが、これも直に良くなるとお医者様が」
「それは良かった」
光宣がニッコリと笑う。その笑みを見て、水波は自分の意識に霞が掛かっていくのを感じていた。先ほど懐いた些細な疑問すらも意識から飛び去って行きそうになったが、急に光宣が真顔で自分を見詰めてきたので、水波も表情を引き締めようとした。
「――桜井さん。他に、悪いところはない?」
「は、はい。他にですか?」
医者のような事を聞く。そう訝しむ気持ちが、水波の意識を繋ぎとめた。
「例えば目が霞むとか、耳が良く聞こえないとか」
「……」
確かに、触覚が鈍っているという自覚症状はある。しかしそれを光宣に告げて良いものだろうか? 単に、心配させるだけではないか。水波は、そんな風に迷った。
「僕なんかに答えても仕方がない。そう思われるのは当然だ。でも大事な事なんだ。桜井さん、正直に答えて欲しい!」
しかしその迷いも、光宣の真摯な眼差しには抗えなかった。もし光宣が前とは違う存在になっていると気付ければ、答えはしなかったかもしれない。
「……皮膚の感覚が少し」
「触覚が鈍くなっているんだね!?」
光宣の顔が、水波の顔に近づく。水波が耐えられず、目を逸らした。
「は、はい……それから光宣さま。以前にも申し上げましたが、私の事は水波とお呼びください」
思いがけないリクエストに、光宣の意識が水波の病状から少し逸れる。そのお陰で自分の危うい体勢に気付いた光宣は、さりげなく、とは言えないスピードで身を引いた。水波に何を望まれたのか、それが意識に届いたのは十分に距離を取った後だ。
「えっ、でも……」
光宣は達也のように、異性の事を名前で呼ぶことに慣れていないようだった。そんな光宣を見て、水波は思わず笑みを零したのだった。
「(達也さまが慣れ過ぎているだけで、同年代の男性は名前呼びに慣れていないのでしょうか?)」
そういえば幹比古も、彼女であるはずの美月の事を苗字で呼んでいたなと、水波はそんな事を考えていたのだった。
確かに達也は慣れ過ぎている感があるな