劣等生の兄は人気者   作:猫林13世

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そりゃ負けるわな……


裏切り者の影

 劉麗蕾の心が揺らぎ始めているというのを感じ取った林少尉は、このまま説得出来ると確信し言葉を続ける。その表情からは、本気で劉麗蕾の事を心配しているという感じが伝わってくる。

 

「この場は裏切り者の汚名を甘受してでも逃げ延びる事が、将来、祖国にとって大きな利益になるはずです」

 

「そう……ですね」

 

 

 名誉を失っても祖国に尽くす。『悲劇のヒロイン』の役回りは劉麗蕾の琴線に触れたようだ。

 

「隊長の言う通りだと思います」

 

「決心してくださいましたか! 良かった……!」

 

 

 自分以上に喜んでいる林隊長を見て、劉麗蕾の心の中で彼女に対する共感と依存が芽生えた。

 

「直ちに脱出の準備に掛かります! 劉校尉は必ず、安全な場所にお届けしますから」

 

「はい、よろしくお願いします。それと、私の事は『小劉』と呼んでください。その、大亜連合軍人としての身分を捨てて亡命するのですから」

 

「では私の事も林姐(林ねえさん)と。少しここで待っててね、小劉」

 

 

 親し気に口調を崩し、パチッとウインクをして林少尉が部屋を出て行く。劉麗蕾は、はにかんだ表情で彼女を見送った。

 劉麗蕾一行が潜伏しているのはヴォズドヴィデンカの民間空港だ。幸いな事に二千キロを超える航続距離を持つビジネスジェットと、タンクを満タンにする燃料が保管されていた。

 

「離陸準備、急げ! 燃料の充填は終わったか!?」

 

 

 林少尉が格納庫で作業中の部下に声をかける。

 

「完了まであと五分です!」

 

「機体コンディション、オールグリーン!」

 

「滑走路の点検完了! クリアです!」

 

 

 機体の準備は昨夜から始めていた。彼女たちは明らかに、自分たちのヘリではなく航続距離の長い小型ジェットによる脱出を想定していた。

 部下たちの作業を一通りチェックして、林少尉は管制塔に上った。室内には、彼女以外の人影はない。彼女は通信機の前に座り、無線のスイッチを入れた。

 

「こちらガスパジャー・タイガ。応答願います」

 

 

 彼女の呼びかけは、ロシア語で行われた。――なお「ガスパジャー」は英語の「Ms.」に当たり、「タイガ」は亜寒帯針葉樹林の意味だ。大亜連合旗の「虎(タイガー)」とも掛けている、林少尉のコードネームだった。

 

『こちら「ユキヒツジ」。現状を報告せよ』

 

 

 応答も、当然ロシア語だ。

 

「劉麗蕾の説得に成功。これより予定通り、日本に向かいます」

 

『了解。ハバロフスクの部隊が一時間弱でヴォズドヴィデンカに到着する。それまでに脱出を完了せよ』

 

「タイガ、了解しました」

 

 

 交通審から察せられるように、林少尉は新ソ連軍に寝返った工作員だった。現地時間正午前、ヴォズドヴィデンカを一機の小型ジェットが南へ向けて飛び立った。まだ休戦が成立していない紛争中にも拘わらず、新ソ連軍がこれに反応したのは当該機がウラジオストクの東を通過した直後だ。追跡の戦闘機が離陸したが、ビジネスジェットが公海上に出た時点で追撃機は引き返した。日本軍のレーダーはこの動きをキャッチしていたが、新ソ連は大亜連合との戦争が終わるまで日本やアメリカを刺激したくなかったのだろうと判断してそれ以上深く考えなかった。

 小型ジェットはそのまま日本海を縦断し、領空侵犯に応じてスクランブル発進した日本国防空軍機の誘導に従って旧石川県の小松基地に着陸した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エドワード・クラークは、国家科学局カリフォルニア支局に個室を与えられている。彼はこのところずっと、就業規則を無視して自分の部屋に泊まり込んでいた。現地時間七月四日午後十時、真夜中にも拘わらず仕事を続けているクラークの端末に、一件の暗号メールが届いた。

 

「……予定通り、ではあるな」

 

 

 何気なく開いたメールだが、読み終えた時にはクラークの眉間に深い皺が刻まれていた。

 

「劉麗蕾を日本に亡命させ、その引き渡し要求を口実に艦隊を南下させる、か。随分強引な手口だが……スマートさなど求めていないという事なのだろう」

 

 

 意識せず漏れ出ている独り言は、精神的なショックの裏返しだ。大亜連合の出兵は無理が多いものだった。不確かな情報に基づき、願望混じりの見通しで進行に踏み切った。彼らが前提とした「トゥマーン・ボンバは投入されない」という条件が覆った瞬間、戦列が崩壊するのは予測されていた。

 しかし、そう言った諸々の要素を加味しても、事態はベゾブラゾフが言明した通りに進んでいる。彼の予定と、寸分の違いも無い。

 

「(これほどの知性と能力がありながら、何故失敗した……)」

 

 

 大亜連合を手玉に取っているベゾブラゾフの知謀と、それを支える魔法の実力には戦慄を覚えずにいられない。だがこれだけの力がありながら、ベゾブラゾフは司波達也を抹殺出来なかったのだ。

 

 運が悪かったのか、それとも――司波達也の力が、更に上回っているのか。

 

 

 クラークは肩ての親指と人差し指で両目の目頭を押さえて軽く頭を振った。余計な事を考えている時間はない。ベゾブラゾフは、クラークにしか情報を流していない。クラークは彼に代わって作戦が次のステップに進んだことを関係各所に伝える必要がある。

 

「(ロンドンはまだ早朝だな……)」

 

 

 伝える先は、国内だけに留まらない。向こうの時間に合わせて電話するより、メールで伝えておく方がいいとクラークは判断した。カリフォルニアが深夜であることを考慮して直接電話を避けたに違いない、ベゾブラゾフのように。




裏切り者に気付けないヤツが主力じゃ……

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