劣等生の兄は人気者   作:猫林13世

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戸惑ってしまうのも仕方がないかな


知らない感情

 達也に奢ってもらう事に躊躇いを覚えていた水波ではあったが、いざ会計の時に自分で支払うという事はしなかった。自分の財布を持ってきていない――というわけではなく、申し出る暇がないままに達也が支払いを済ませてしまったのだ。

 

「達也様、ご馳走様でした」

 

「ご馳走様でした」

 

 

 深雪のお礼に慌てて合わせて、水波は勢いよく頭を下げる。お礼を言わなければとは思っていたが、きっかけが見つけられなかった水波にとって、深雪がお礼を言ってくれたのは絶好の機会だった。

 

「今日は水波の為の外出だからな。そんなに恐縮する必要は無い」

 

「そう言われましても、私のような使用人が次期当主である達也さまにお支払いをしていただくなんて」

 

「水波の功績は四葉家内でも認められているんだ。少しは自分に自信を持ったらどうだ?」

 

「私は当然の事をしただけです。例えこの身が滅びようとも、深雪様と達也さまの御身をお守りするのが私の使命ですので」

 

 

 水波は四葉家が作り出した調整体『桜シリーズ』という事に変わりはない。分家次期当主である新発田勝成の婚約者である堤琴鳴だって、調整体であるが故に真夜に「愛人では駄目なのか」と言われたほどだ。本家次期当主である達也に調整体である自分がこれ以上親しくなっても良いのだろうかという不安が付き纏うのは、ある意味で仕方がない事である。

 その事は達也も深雪も十分に理解しているのだが、二人からしてみれば水波への対応は真夜公認なので気にする必要が無いと思っているのだ。

 もちろん、いくら真夜が認めてくれているからと言って、水波を婚約者に――なんてことをすれば黙っていない人は大勢いるだろうから、愛人という立場で手を打ったという事は言うまでもない。

 

「水波ちゃんはもっと自分の事を大切にしてくれないかしら? 水波ちゃんにもしもの事があったら、私だけじゃなく悲しむ人は大勢いるのだから」

 

「深雪様が私の事を大事に思って下さっている事はありがたいことだと思っています。ですが、私はあくまでも使用人。自分の立場を弁えるようにと教育されているのです」

 

「水波ちゃんはもうただの使用人でも、ガーディアンでもない。達也様のお側に一生いる事を許された特別な人。私にとっても妹みたいな人なのだから、冗談でも『この身が滅んでも』なんて言って欲しくないのよ。自分の立場を忘れずに任務を遂行できるのは凄いことなのかもしれないけど、もう少し家族になってくれても良いんじゃないかしら?」

 

「家族…ですか……」

 

 

 調整体であるが故に、水波は家族というものを知らない。遺伝子上伯母に当たる穂波や、卵子と精子を提供した生物学上の両親は存在しているとはいえ、その姿を見た事もなければ、両親の名前すら水波は知らない。家族と言われてもピンと来ないのは仕方がない事だろう。

 

「それにね、水波ちゃん。調整体と言うのであれば、私だってそうよ? でもその事を気にして達也様と親しくなれるチャンスを不意にするなんて、私には出来ない。水波ちゃんだって、光宣くんではなく達也様を選んだのだから、一生添い遂げる覚悟はあるのでしょう?」

 

「添い遂げるなんて、そんな畏れ多い事は考えていません! 私はただ、側に置いていただけるだけで満足なのですから……」

 

 

 水波の言葉に嘘はない。ただ、彼女も年頃の乙女として、好きな異性と添い遂げたいという気持ちが全く無いわけではないのだ。立場がそれを許さないという事を理解しながら、達也と共に生きられたらという思いを捨てられない。そんな自分に葛藤していた頃を考えれば、愛人とはいえ達也の側で生きる事を許された現状は、水波にとってこれ以上の幸せはない状態なのだ。

 

「私は、これ以上を望んでも良いのでしょうか? 深雪様を守り続ける事が出来なくなり、達也さまに多大なるご迷惑をかけ、光宣さまを人ならざる者にしてしまった私が……」

 

「水波ちゃん。貴女は何も悪くないのよ。水波ちゃんは私を守る為に負傷し、達也様は水波ちゃんを治療するために新たな仮説を立て、叔母様からも『興味深い』と仰っていただいたの。光宣くんの事は残念だけど、あれだって水波ちゃんの所為じゃないわ。光宣くんが自分で考えて実行したのだから、その責任は光宣くんが負うべきもの。小さな子供ではないのだから、責任を人に擦り付けるような事は、光宣くんだって考えてなかったでしょうし」

 

 

 水波に言い聞かせるような口調で話していた深雪だったが、不意に端末が震えたのを感じて視線をそちらにズラす。今日は達也と水波と出かけているという事は、親しい相手なら知っているはずだから、余程の事でもない限り通信が入る事は無いと思っていたのだろう。

 

「亜夜子ちゃんから? 何かしら……」

 

 

 通信の相手が亜夜子だと分かり、ますます首を傾げる深雪だったが、無視する事はせずに端末に耳を当てる。

 

「はい? えぇ……えぇ……分かったわ。もう少し堪えてくださいとお伝えして」

 

 

 通信を切ると深雪は名残惜しそうな表情で達也に視線を向け、頭を下げる。

 

「黒羽家の屋敷でリーナが暇を持て余して黒羽の従者相手に戦闘訓練を始めたそうで、私に止めさせるよう叔母様が命じられたと亜夜子ちゃんから連絡が……すぐに夕歌さんが迎えに来てくださるそうなので、私はここで失礼します。水波ちゃん、もう少し達也様との時間を楽しんでね」

 

「えっ、あの……」

 

 

 自分も同行すると申し出る前に、夕歌の車がやってきたのが見え深雪はそちらに走り出してしまった。残された水波は、二人きりという時間に耐えられるだろうかと不安を覚えながらも、達也と二人きりという状況に少し浮かれ始めていた。




そして二人きりに

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