水波が光宣に攫われた。助けを求める深雪の声に応えて、達也は巳焼島を飛び立った。二十一世紀初頭、新しく伊豆諸島に加わった巳焼島から、東京の調布までエアカーで二十分は掛かる。その時間を達也は無駄にしなかった。
深雪が激しいショックに囚われていて、秩序だった説明が出来ないのは分かっている。試すまでもないことだし、彼女に余計な負担を掛ける結果にしかならないのも達也にとっては明らかだ。
『はい、桜崎です』
達也が無線を繋いだ相手は夕歌のガーディアン、桜崎千穂だった。達也は挨拶もそこそこに状況の説明を求める。
『九島光宣がパラサイドールを引き連れて病院を襲撃。パラサイドールを自爆させてパラサイトの本体を解放し、居合わせた市民を襲わせました。十文字家がその対応に追われている際に、九島光宣は防衛線を突破。病院に侵入しました』
「夕歌さんはパラサイトの対応に出動されたんですね?」
『はい、深雪様のご指示でした』
千穂の口調は、微妙に言い訳臭かったが、達也に対する弁解としては、確かに有効だったと言える。深雪の判断だと言われれば、達也には文句をつけられない。
「光宣の相手は深雪が一人で?」
『そうです。病院内で何があったのか、まだ詳しくは判明していませんが、深雪様は無傷です。九島光宣と共に侵入したパラサイドール四体は深雪様の魔法で全て機能を停止。桜井水波は九島光宣に連れ去られました』
千穂の説明で、事態の表面的な推移は把握出来た。だがその裏で何が起こったのか、達也は理解出来なかった。
パラサイトを無力化したのは、深雪の『コキュートス』だろう。達也に掛けられていた封印を維持していたのは深雪の力だ。達也が封印から自由になったのと同時に、深雪も自分の魔法力を百パーセント、何時でも自由に使えるようになった。深雪のコキュートスがパラサイト本体に決定的なダメージを与えられる事は、去年の冬の一高の演習林におけるパラサイトとの決戦で実証済み。人間に寄生しているパラサイトと違い、宿主と融合するのではなく単に取り憑いているだけのパラサイドールが深雪の魔法に抗えるはずはない。分からないのは、深雪が無傷にも拘わらず水波の拉致を許した点だった。
光宣を逃がしたことについては、それほど不思議だと達也は感じなかった。コキュートスは手加減が出来ない魔法で、直撃を受ければ待っているのは事実上の死。それ以外の結末はない。光宣の魔法力ならば『仮装行列』で一度は耐えられるかもしれないが、二度目はない。コキュートスが対象とするのは「精神活動」という「情報」だ。あの魔法は「精神活動」を永続的に停止させる。コキュートスが決まれば光宣の敗北は必至で、例え光宣の魔法力が深雪より優っていたとしても、その時点で勝敗は逆転する。
「(深雪は光宣と戦わなかったのか? 水波が連れ去れるのをみすみす見逃したとは考え難い。それとも光宣を攻撃できない想定外の状況が発生したのか?)」
それがいったいどんなシチュエーションなのか、達也には想像出来なかった。
「光宣の現在位置は把握できていますか」
『使用している車両の詳細は不明ですが、中央道を西に向かっている模様です。十文字家の御当主様が追跡の準備を終えられました』
逃走車両の外観、種類が分からなければ、街路カメラや成層圏プラットフォームの監視カメラは役に立たない。交通規制システムの交信は、当然遮断されているだろう。
「中央道を西進していると判断した根拠は?」
『パラサイト用のレーダーによる観測から推定しました』
「光宣は戦闘によるダメージを受けているのですか?」
魔法技能の低下。それが一時的なものなのか、ずっと後遺症として残るものなのか。精神を攻撃する系統外魔法によるダメージなのか、防御力を上回る攻撃に曝されて魔法演算領域がオーバーヒートした事によるものなのか。深雪のコキュートスを受けた可能性が最も高いが、原因は兎も角光宣の仮装行列が弱体化しているのだとすれば、水波を取り返すだけでなく、光宣を殺さずに捕える絶好の好機となるかもしれない。
いくら達也でも、万全の光宣を相手に殺し合いを覚悟しなければならない。達也は未だに光宣を殺す決断が出来ずにいるのだ。だが光宣の魔法力が低下しているのであれば、それが一時的なものであっても、達也にとっては大きなチャンスだ。とりあえず水波を取り戻すという姿勢ではなく、今日決着をつけるという心構えで臨む必要がある。達也の質問は、そういう意図で出されたものだった。
『九島光宣は現在、偽装・隠蔽の魔法技能が低下しているようです。どの程度の時間、弱体化状態が続くのかは分かっていません』
それに対する千穂の答えがこれだ。達也は千穂との通信を切り、水波を取り戻す算段を立てる。
「(光宣の魔法技能が弱体化している今、追いつくのはそう難しくはない。無論、横槍が入らなければという条件付きではあるが)」
まだ光宣に手を貸しているパラサイトがいるかもしれない。達也はその可能性を無視する事はしなかった。
横槍さえ入らなければ、達也が有利なんでしょうけども……