劣等生の兄は人気者   作:猫林13世

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抜け駆けしてるようにしか……


最高の贅沢

 七月九日、火曜日早朝。眠りから目覚めへと浮上する途中で、深雪は身体の自由を制限されていると感じた。縛られているのではない。実際に縄を打たれた経験など無いが、どうもそれとは違うようだ。狭い籠の中に閉じ込められているような感触とでも、表現すればいいのだろうか。未だクリアにならない意識に、危機感は何故か生まれなかった。囚われているのがむしろ、心地好くすら思えてくる、そんな感覚だ。

 深雪が再び眠りの園へ戻ろうとした時、まるでそれを見透かしたように、不意に拘束が緩んだ。

 

「(あっ、だめ……私を自由にしないで)」

 

 

 自分の心の声に、深雪は激しく動揺した。まるで、被虐趣味の変態が言いそうなセリフではないか、と。焦りが意識を急激に覚醒させる。深雪は勢いよく身体を起こした。彼女を包んでいた腕は、起き上がる邪魔をしなかった。自分を抱いていたものの正体が分かって、深雪は慌てて振り向いた。

 

「おはよう」

 

 

 隣には、達也が寝ていた。同じベッドに。深雪は慌てて達也に背中を向ける。背後では、達也が起き上がる音がしたが、深雪は朝の挨拶を返すどころの精神状態ではなかった。

 

「(な、何故達也様が同じベッドで? 昨日は確か夜遅くに達也様に私は間違っていたのかどうか尋ね、間違っていないと言っていただいて安堵して……そこからどうしたのかしら?)」

 

 

 自分が達也の胸で泣いたところまでは覚えているが、そこから先が思い出せない。もしかしたら自分から達也をベッドに誘ったのかと、深雪は狼狽に染まった顔で自分の身体を見下ろす。ネグリジェはそれなりに乱れていたが、胸元のリボンは解けておらず、前開きのボタンも外れていなかった。

 

「(なんだ……)」

 

 

 心の中で息を吐き、自分の中で安堵よりも落胆が勝っていると気付いて、深雪は羞恥に顔を赤らめる。

 

「よく眠れたか?」

 

 

 達也の声は、背後の高い位置から聞こえた。ベッドの反対側で立ち上がっているようだ。

 

「は、はい……おはようございます」

 

 

 呼吸を整えて立ち上がり、深雪は達也に向かって振り返る。赤面したままの顔を見せるのは恥ずかしかったが、何時までも挨拶を返さないのはもっと恥ずかしい。ただ、お辞儀をした顔を上げるのは、かなり抵抗があった。

 髪で顔を隠したまま、深雪は漸く昨晩の就寝前の事を思い出した。リビングで達也の胸に縋って泣いた深雪は、そのまま力尽きるように眠った。達也に部屋まで運んでもらい、ベッドに降ろしてもらったところで中途半端に目を覚ました深雪は、達也が考えていたように離れて行くのを恐れて両手で達也の腕を掴み「一人にしないでください」と懇願した。その結果が達也の添い寝だ。彼女は達也の腕に抱かれて、一晩を過ごしたのだ。

 

「まだ早い。もう少し寝ていてもいいぞ」

 

 

 達也は深雪の不審な振る舞いには触れず、そう告げて彼女の部屋を後にした。

 

「(いくら寝ぼけていたからと言って、達也様が私を置いてどこかに行くなんてどうして思ったのでしょうか……ですがそのお陰で達也様の腕の中で一夜を過ごす事が出来て――でもせっかく達也様の腕の中で一夜を過ごしたというのに、どうして私は良い夢を見られなかったのでしょう)」

 

 

 達也の腕の中で一夜を過ごすという贅沢を味わっておきながら、深雪は自分がそれ以上の贅沢を望んでいる事に気が付き、再び顔を真っ赤にして俯く。この場に達也はいないので顔を隠す必要は無いのだが、何故だかそうしなければいけないような感覚に囚われて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深雪が自分の部屋から出てきたのは、達也がトレーニングウェアに着替えて玄関に向かおうとしていたタイミングだった。まだネグリジェのままだが、上にガウンを羽織り、髪にはきちんと櫛を入れている。

 

「達也様、トレーニングですか?」

 

 

 このマンションは四葉家の東京拠点として建てられた。ビルの中には、戦闘要員の鍛錬に使える本格的なトレーニング施設が備わっている。

 

「ああ。軽く汗を流してくる」

 

 

 達也は背中を向けたまま答えて、ふと何かを思いついたように足を止め、振り返った。

 

「一緒にどうだ?」

 

「一緒に、ですか?」

 

 

 達也からの誘いに、深雪が目を丸くする。

 

「三年生になって身体を動かす機会も減っているだろう? 特に今年は九校戦の練習が無かったから、運動不足になっているんじゃないか?」

 

 

 達也の顔は、一見大真面目だが、深雪は騙されなかった。フィクションには「目だけが笑っていない」という表現がよくつかわれるが、この場合は逆だ。達也は目だけ笑っていた。

 

「運動不足に見えますか?」

 

 

 深雪はガウンの紐を解いて挑発的に両手を広げ、ポーズをとった。無論、巫山戯半分だ。ネグリジェも肌が透けるような生地ではないし、肌が大胆に露出しているデザインでもない。

 

「これでも美容には気を遣っているのですよ」

 

 

 深雪から思いがけない反撃を受けて、達也は苦笑する以外になかった。

 

「ですが、せっかくのお誘いです。お断りするのも無作法ですし、準備をしてまいります。少しお待ちください」

 

 

 深雪が軽い足取りで洗面所に向かう。口では気が向かないような事を言っているが、その実浮かれているのが後姿だけでも分かる。達也の苦笑は、微笑に変わった。




やっぱり抜け駆けにしか見えなかった……

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