劣等生の兄は人気者   作:猫林13世

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黄砂よりウイルスが気になる


暗号会話

 林が護衛――実は監視――に連れて行ってもらったのは、基地から車で十分ほどのところにある香港資本の薬局チェーン店だった。前の大戦以来、日本と大亜連合の間に正式な国交は結ばれていない。だが民間レベルでは経済交流があり、企業が相互進出を果たしている。

 林は「ここで待っていてください」と二人の監視兵に告げて、店内に入っていった。薬局は通りに面してガラス張りとなっており、車道からでも中の様子がよく見える。監視の兵士は外から目が届くカウンターより奥に行かないという条件で、林少尉の単独行動を許した。

 林がカウンターの前に立つと、三十過ぎと見える女性店員が対応に現れた。黒髪黒目、日本人と言っても違和感はない。だがそんなものは大亜連合相手でも新ソ連相手でも、当てにはならない。

 

「黄砂が気になるのだけど」

 

「そうですか? 最も激しい時期は過ぎていると思いますが」

 

 

 林が広東語で店員に話しかける。これは暗号で、内容は「大亜連合の武力攻撃の恐れあり」という意味。対する店員の答えも、無論暗号だ。内容は「大規模な軍事行動は観測されていない」である。

 

「細かい黄砂が近くまで押し寄せてきているような気がするのよ(小規模な部隊が迫っている可能性が高い)」

 

「では検査薬をお出ししましょうか? (諜報部隊に探らせてみるか?)」

 

 

 林と暗号で会話しているのを考えれば分かるが、この店員は新ソ連の連絡員だ。だがこの場には林とこの店員しかいないので、この会話を不審に思う人物はいない。

 

「いえ、症状が出る前に塗り薬を処方していただきたいのだけど」

 

 

 林の「調査ではなく、対抗部隊を出動させて欲しい」というリクエストに、店員は「かしこまりました」と硬い声で答えた。

 

「……どこかお加減でも?」

 

 

 そう言えばカウンターに出てきた時から様子がおかしかった――そう思った林は「イレギュラーな事態が発生したのではないか?」という意味でそう尋ねる。

 

「林少尉」

 

 

 返答は、背後からやってきた。背後の、頭上から降ってきた声に、林は狼狽を露わにして振り返る。

 

「呂上尉!」

 

 

 林が悲鳴混じりに叫ぶ。彼女はそれ以上、何も言えなかった。呂剛虎の巨大な手が林の首を掴み、それ以上声を上げさせなかった。

 

「ご苦労だったな。もう良いぞ」

 

 

 呂剛虎のこのセリフは、新ソ連のエージェントである店員に掛けたもの。女性エージェントは足をもつれさせながら店の奥へと引っ込んだ。

 それを見て、林は覚った。あのエージェントは、既に呂剛虎に屈していたのだと。拷問でも受けたのだろう。呂剛虎の技量ならば、外傷一つ残さずに死を望むほどの苦痛を与える事ができる。苦痛は悪夢となり、反抗の意志を永続的に奪う。

 呂剛虎がにやりと笑う。それを見た林の心を絶望が覆う。エージェントを襲った災禍は、そのまま自分の未来ではないだろうか。いや、拷問だけでは済まない。自分の場合は、最後に命を奪われるだろう。

 林は一縷の望みを持って、外の監視兵へ目を向けた。彼らが呂剛虎に敵うとは思えない。だが、僅かでも自分が逃げ出す為の隙を作ってくれないだろうか、と。

 二人の日本兵はオープントップ車のシートの上で俯いていた。居眠りをしているようにも見えるが、あれは既に死んでいる。林はそれを、直感的に覚った。

 

「裏切り者、林衣衣」

 

 

 呂剛虎が林少尉を階級なしのフルネームで呼ぶ。彼女たちの古い文化では、姓や字ではなく実名を呼ぶことは相手に対する軽視、または敵視を表す。

 

「劉麗蕾に助けを求めろ」

 

 

 呂剛虎はそう告げて、林の首を掴む手の力を少し緩めた。林は咳き込みながら、呂剛虎の狙いが何かを考える。

 劉麗蕾をここまで誘き出して暗殺する、などという単純なたくらみとは思えない。そもそも日本軍が劉麗蕾の外出を許すはずがない。新ソ連のスパイとしての林の役目は、劉麗蕾を日本に亡命させて開戦の口実を作る事だった。その任務は既に果たされている。極論すれば林は新ソ連にとって用済みであり、助けの手を差し伸べる価値はない。

 価値が無いという点では、日本軍にとってもそうだ。亡命者が暗殺されるというのは不名誉な事かもしれないが、日本政府にとって自分は劉麗蕾のおまけに過ぎない。それを林はしっかりと認識している。

 

「(自分が助けを求めても、日本軍は劉麗蕾を危険に曝す真似はしない。それは呂剛虎にも分かっているはずだ)」

 

 

 彼女の迷いを知ってか知らずか、呂剛虎は空いている方の手で林の身体を遠慮なくまさぐり、携帯端末をポケットから抜き出して林に突き付けた。場合によってはセクハラだと言えなくもないが、この状況でそんな事を言っても意味はない。

 

「お前に選択権は無い」

 

 

 選択肢は無いではなく、選択権は無い。呂剛虎に、分かり切っていた事実を告げられ、林は突き付けられていた携帯端末を受け取り、言われた通りに基地に残した部下へ通じる回線を開いた。それが済めば自分がどうなるのか分かっていながら、そうするしかない自分の事を心の中で詰りながら、彼女は基地の仲間に「呂剛虎が現れ、自分は人質にされている」と告げたのだった。




林終了のお報せ……

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