劣等生の兄は人気者   作:猫林13世

1987 / 2283
勘違いしてるから答えられない……


水波の逡巡

 午後三時、光宣はダイニングで水波と同じテーブルを囲んでいた。実家にいたころ、つまりつい一ヶ月前まで、光宣には「お茶の時間」の習慣は無かったが、水波の誘いを断るという選択肢は、彼には無かった。光宣の前にはストレートの紅茶、水波の前にはミルクティー。お茶菓子はライチのムースで、言うまでもなく水波の手作りだ。

 この隠れ家で光宣が口にした物は全て水波の手作りだが、美しすぎる容姿が災いして年齢=彼女いない歴だった光宣の感動は、まだまだ薄れていない。彼は束の間、誘拐中の後ろめたさを忘れて「女の子お手製のお菓子」の味を噛みしめていた。

 一方の水波は、先ほど感じた達也の視線を気にしながらのお茶だったが、不思議と昨日まで感じていた恐怖は薄れてきていた。気持ちの整理がついたからではなく、先ほど感じた達也の視線に、自分を責めるような感じが含まれていなかったからだ。それに加え、光宣から向けられてくる視線にも慣れてきたということもあるだろう。幸せそうに自分の作ったムースを食べている光宣を見て、水波は自分が誘拐されていることを忘れられるような感覚になっていた。

 ただ、そんな幸せそうに見える時間は短かった。スプーンを置いた光宣は、真剣な眼差しを水波に向ける。水波のガラスボウルにはムースがまだ四分の一ほど残っていたが、彼女は光宣の視線を認めてすぐに、両手を太腿の上に置いた。水波が光宣を正面から見つめる。怯んでしまいそうになる己を奮い立たせて、光宣は本題に入った。

 

「……ええっと。今日、明日にでも、この隠れ家を引き払おうと思う」

 

「はい」

 

 

 水波はそれだけを口にして、目で続きを促す。彼女もこの隠れ家が達也に知られていると確信しているし、光宣が自分を諦めるとは思っていない。水波の返事を聞いた光宣も、ここに至って今更動揺することも無く、続きを話し始める。

 

「一旦横須賀に向かって、そこからアメリカ海軍の船で、日本を脱出するつもりだ」

 

「――っ」

 

 

 水波の顔が驚愕に強張る。国外逃亡。予想外過ぎて、咄嗟に言葉が出ない。昨日までなら達也から逃げることにそこまで後ろめたさは感じなかったかもしれない。彼女は達也か深雪に罰せられると思い込んでいたのだから。だがさっき感じた達也の視線だけを信じるなら、彼は純粋に自分の身を案じてくれているのだ。決して自分を罰するために取り戻そうとしているとは思えない。

 

「ごめん」

 

 

 水波が硬直しているのを見て、光宣はすぐに頭を下げた。だがその謝罪にも「何に対して謝っているのか」と尋ねることさえできない。もっともそれは、質問するまでもなかった。

 

「答えは急がないなんて言っておきながら、僕はその言葉を翻さなければならない」

 

 

 水波が太腿に上に置いた両手をギュッと握りしめる。手だけでなく、腕から肩にまで余分な力が入る。光宣が言った「前言を翻す」と言うのがどういう意味なのか、理解出来ない水波ではない。

 

「もし今決められるなら、答えて欲しい。人間のままでいたいというのが水波さんの答えなら、僕は一人で横須賀に向かう」

 

「………」

 

 

 答えは最初から決まっている。考えるまでもなく水波は、達也と深雪の側にいることを願い、その思いを打ち明け真夜から許しも得た。だが自分の為にここまでしてくれた――人間を辞めた光宣の想いを無碍に出来る程、水波は冷めた性格ではなかった。

 

「まだ決められないなら、横須賀に着くまでに結論を出して欲しい。そこで水波さんがパラサイトになりたくないと言えば、僕は一人で船に乗る」

 

「………」

 

 

 僅かでも可能性があるならと願う光宣の顔を見て、水波は無言を貫く。彼女の胸の裡には二つの疑念が渦巻いているのだ。一つは「このまま光宣を国外に逃亡させて良いのだろうか」というもので、もう一つは「先ほど感じた視線を本当に信じて良いのだろうか」というものだ。

 一つ目の疑念は、パラサイトである光宣を国外に逃がせば、国防上の問題が発生するのではないかというもの。一女子高生でしかない水波が考えなければならないことでは無いが、妖魔を逃がしたとなれば他国から日本軍への追及は免れないだろう。そこに達也も巻き込まれるかもしれない。

 二つ目の疑念は、達也が純粋に自分の身を案じてくれているという状況が信じられないという点だ。達也は確かに深雪には甘いし、婚約者たちにもある程度の我が儘は許しているし、彼女たちの身に危険が迫れば万難を排して救助に向かうだろう。だが自分は、その中の一人にすら入っていない。あくまで特例で側にいることを許されているだけなのだ。

 そんな水波の逡巡を前向きに捉えたのか、光宣が更に言葉を続けた。

 

「それでもまだ迷っていたなら――迷ってくれるなら、一緒に船に乗って欲しい。その場合でも、決して水波さんの意思に反する真似はしないと誓う。アメリカ軍が君を拘束しようとしても、そんな狼藉は僕が許さない」

 

「……何処に……」

 

 

 答えを告げられずにいる水波からの、辛うじて絞り出た一言だけの問いかけ。僅か一文節の質問だが、その意図は誤解しようのないものだった。




光宣も大きな勘違いを……

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